壺中日月

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「俳句は心敬」 (106) 孤に徹する

2011年06月18日 21時07分29秒 | Weblog
        ――後嵯峨院の時代、頓阿・慶運といって並び称される歌人がいた。
          慶運は、惨めな境遇であったためか、いつも述懐風の歌ばかり
         詠んでいた。その御代の勅撰集の選者が、四首入れてくださった
         といって、慶運は三拝九拝し、涙を流して喜んだ。
          ところが、頓阿の歌が十余首も入集(にっしゅう)していることを聞
         き、後日、自分の歌の削除切出しを申し出たという。道に執心深い
         ことである。
          頓阿は、時勢に合った歌人であったのであろう。
          「猛々しい虎も、ひ弱の鼠(ねずみ)も、時機によっては逆にもな
         る」とか、「時勢にかなうときは、鼠でも虎のように猛々しくなり、
         かなわぬときは、虎でも鼠のようになる」といわれているように、
         取るに足りない歌人は、それ以上に時勢によって、光ったり曇った
         りする。

          慶運法師が臨終の際、長年書き記した書物、詠草の類などを、
         住みなれた東山の草庵の裏に、みんな埋めて捨てたという。
          また昔、能因法師という歌仙は、摂津国古曾部(こそべ)という
         所で亡くなったが、所持していた詠草類をそこに埋めたという。
          これらの人たちは、後世の歌人を見下したのだ、自分の歌を正
         しく理解できないと。道に対する情熱の深いことである。

          人間の毀誉褒貶(きよほうへん)は、その人物の善悪によるの
         ではなく、世間が用いるか用いないかは、その者の貧富によって
         決められる。
          財力のある者の訴えは、水に石を投げるように広く影響がある
         が、貧しい者の訴えは、石に水をかけるように何の効果もない。
                     (『ささめごと』真の歌仙と生涯の修行)


 ――この段は前段の続きで、「世評の歌仙」についての話を、心敬が引いたものです。こうした話を引いた心敬の真意は、どこにあるのでしょうか。

 若くして俊敏をうたわれた人々が、年とともに名声を失い、老残の身をかこっている実例を、心敬は数多く知っていたに違いありません。そこには、老年のもたらす不可抗力の悪条件が、いろいろと人ごとならず痛感されたことでしょう。
 慶運が、勅撰集(新千載和歌集)の中から、自分の作品の削除切出しを申し出た話などには、片意地な性格のうちに、他人の思惑を無視し切れなかった弱い人間がのぞいているように思われます。そういう点で、自分を大事にしようとする潔癖さの、ひときわ痛々しく感じられる話なのですが、そこに心敬が見たのは、時流に入れられない孤独の精神です。

 慶運や能因が、死に際に、自分の詠草類を埋めてしまったという話は、自己の一代とともに生涯をかけた作品を湮滅(いんめつ)してしまおうとした点で、文学に対するひとかたならぬ執心が感じられます。
 と同時に、自分の死とともに作品を埋没してしまったということは、生前すでに自分一個のものとしか考えなかった文学を、その死後においてさえ人手に渡すまい、安易にあげつらわれるまい、という精神の表れです。それは自分の文学が、自分以外の何人にも理解されることを期待しようとしない、強い、孤独に徹した心構えなのです。
 心敬自身、この話になみなみならず共鳴していることは明らかで、心敬の歌道の境地も究極においては、そうした心境に通うものを持っていた、と考えてよいでしょう。


      梅雨寒の遺影写真の話かな     季 己