壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

「俳句は心敬」 (111) 至高の心構え②

2011年06月24日 21時11分18秒 | Weblog
        ――仏教でも歌道でも、修行の足らぬ思慮分別の十分でない人には、
         もっぱらその人の素質や能力の程度に応じて、教え導くのがよい
         ともいう。

            父は賢明であっても、その子は凡愚ということもある。
            師匠は才能豊かで、骨法を心得ていても、弟子は必ずしも
           継いでいるとは限らない。
            斉の桓公が、書物で学んでいるのを、車作りの翁が聞き、
           それを非難した。「書物の字面を読んでも何も会得できな
           い。先人の心を学ばずして何が得られるか」と。
            鴨の足は短いが、それを長くしようと継げば嘆く。鶴の足
           は長いが、それを短くしようと切れば悲しむ。
            仏法にも、衆生の能力や性質に応じて説く随機(ずいき)
           と、衆生の能力にかなうように法を説く逗機(とうき)があり、
           相手の賢愚の素質にしたがい、法の説き方を変えられるという。
            衆生を教え導く巧みな手段である方便は、たとえ愚劣であっ
           ても、方便という方法論は正しい。そうした最善の仏教の方法
           論である方便の手段を、初めから否定する知恵は、本当のもの
           ではなく間違っている。
            止めよう、止めよう。ここで自分が大法を説いて何になろう。
           この法は微妙で探求しがたい。

         冷泉中納言為秀卿は、つぎのように教えられた。
         「ぼうっとして頭のはたらきの鈍い歌人には、鋭いひらめきや連想
        を学ばせよ。また早合点で機転のききすぎる人には、のんびりと落ち
        着くように教授せよ」と。これも賢い庭訓(ていきん)ではないか。

            聖人には、自分自身の固定した心というものはない。万人共
           通の普遍的な心を基準としている。聖人には、自己流の偏った
           解釈や判断がない。万人共通の普遍的な解釈や判断を、評価
           の基準にしている。
            仏の思想を説くために、釈迦という仮の人間の名で化現し、
           多くの衆生を引導された。
            迷いから覚め得ない最低の素質の無性(むしょう)の人も、仏
           となり得る素質を持った定性(じょうしょう)の人も、ともに皆、
           最終的には成仏できる。


      今年竹 風と心敬たはむれて     季 己