壺中日月

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「俳句は心敬」 (113) 至高の心構え④

2011年06月27日 16時15分31秒 | Weblog
 ――この段は長く、また各節ごとに意味が飛躍し、全体として、心敬が何を言いたいのかわからない、というのが大方の感想でしょう。
 この段は、大きく三つに分けられると思います。
 最初は、《当時の会席の猥雑さ》を述べた、「至高の心構え①」の部分。
 つぎは、《指導の方便》を述べた、「至高の心構え②」の部分。
 そして、《仏の法報応の三身と歌連歌の関係》を述べた、「至高の心構え③」の部分となります。

 「このごろは、和歌隆盛の時なのか」という問に対し、心敬は、その流行がいかに猥雑の限りを尽くしているか、また、この混乱を統(す)べてゆくためには、道の賢聖の出現が、いかに望ましいものであるかを説きます。
 しかし、そうしたことは、この末世においては望むべくもないから、歌道に志すということだけで、一応、満足しなければならない、と現状を是認するのです。

 「和歌」を「俳句」に置き換えると、なんだか心敬さんが、今の俳句界を述べているように思えてなりません。
 句会、吟行の騒がしさ、軽薄さ。
 選句の最中に、ケータイのメールを打っている人はいませんか。おしゃべりをする人はいませんか。幹部同人のアドバイス、参考意見を、自分の句が非難された、と言って怒る人はいませんか。さっさと句会を切り上げて、早く二次会で一杯飲もう、と言う人はいませんか。
 こういうことが起こるのは、その道に賢聖がいないから、つまり、主宰がみな賢聖なら、俳句の世界の乱れはなくなる、と心敬は言うのです。
 賢聖が世に用いられ、睨(にら)みをきかしている間は、心のねじ曲がった者はいなくなり、悪賢い人や、騒がしい人もいなくなります。
 だから、賢聖が出てきて欲しい、と心敬は念願するのです。

 俳句自体が難しいのではありません。俳句に対する執心が不足していて、それを体得するだけの素地が出来ていないのです。
 それには修業、それも「心の修行」が、必要かつ難しいのです。いや、修業が難しいのではありません。やるべきことを、必ずやることが難しいのです。
 至高の境地へ到る道筋は、先賢によってつけられております。先賢の教えを信じ、私心を捨て、自分の能力を最大限に発揮できるよう、しっかりした心構えを持つことが必要なのです。
 こうした心構えがないから、破戒無知のエセ僧を尊び、鉛を宝としてしまうのです。
 先賢が、どんなに良い教えを残してくれていても、われわれが実践しなければ何にもなりません。「やるべきことを、必ずやる」、これが大切だと心敬は言いたいのです。
          (※ 「至高の心構え①」に対応しています。再読いただければ幸いです)


      ゆつたりと日暮るる猫に月見草     季 己