壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

タイトル

2010年07月26日 20時04分29秒 | Weblog
          蜀道にて期に後(おく)る     張 説(ちょうえつ)

        客心日月と争う
        来往あらかじめ程を期す
        秋風相待たず
        先ず至る洛陽城

        「旅人の心は、日月の流れと速さを競うかのようにせきたてられる。
         というのも、往復の日程を前もって決めておいたからなのだ。
         ところが、秋風は旅人を待たず、
         ひと足先に洛陽の町に着いてしまった。」

 この詩は、蜀(四川省)に出張した作者が、何かの理由によって予定の期日には戻れなかったことをうたっている。予定の期日とは、洛陽(らくよう)に秋風が吹く直前である。秋風は西から東へ、つまり、蜀から洛陽へ吹くものとされているから、作者は秋風よりひと足先に、洛陽に入っていなければならなかったのである。
 この詩のおもしろさは、機知の巧みさにある。旅人のあせる気持ちと、流れゆく日月との競争。「客心(かくしん)=旅人(作者)」は熱くなって必死だが、「日月(じつげつ)」は、素知らぬ顔をして過ぎてゆく。この対比が実におもしろい。そして、とうとう秋風が勝ってしまったというのである。
 どんな使命をおびて、いつ蜀(しょく)に行ったのかがわからないので、この詩の制作時期を定めることが出来ない。ただ、洛陽に帰っていることから、洛陽が神都と称された事実上の首都であった則天武后期のころであろうか、といわれている。


 ――日本画家N先生の奥様より、丁重なるお礼のコメントを頂き恐縮している。もちろん『平野 純子 個展』に対してであるが、変人の変なブログをご覧いただいているとは感謝感激である。
 その『平野 純子 個展』の最終日にもお邪魔した。平野さんの人望か、お友達が大勢いらしているので、その人の間を縫うようにして再度の鑑賞。
 鑑賞を終え、冷たいウーロン茶をいただいていると、平野さんが「ほとり」という作品について、お友達に説明を始めた。聞くともなしに聞いて驚いた。「ほとり」というタイトルが、あまりにもうますぎるのだ。そこで、このタイトルはどういう意図で付けたのか尋ねた。平野さんは即座に、
 「この作品を初め、全部N先生が付けてくださいました。自分では“静寂”と決めていたのですが……」
 と応えてくれた。
 これで納得。やはりN先生は凄い!
 「ほとり」には、〈水ぎわ・岸〉のほか、〈きわみ・際限〉、〈身近な縁故のある者〉という意味もある。これらの意味と、平野さんの説明がぴったりと一致するのだ。
 それに対し、「静寂」はあまりにも平凡(失礼!)。第一、観る者に対し、「静寂」を感じて欲しい、と見方・感じ方を強制するものではないのか。
 作品を観て、どのように感じるかは鑑賞者の勝手。鑑賞者に無理強いするようなタイトルは、失敗だと思う。極論を言えば、タイトルは番号だけでもいい。作品が思い浮かべられればいいのだ。
 今、平野さんからいただいた目録を見直しているが、N先生の付けられたタイトルを見ただけで、作品がすべて目に浮かぶ。タイトルの付け方は、ぜひ、こうありたい、としみじみ思う。

      さう言へば入院食に土用蜆     季 己

1 コメント

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無事終了 (中嶌 弘子)
2010-07-27 09:18:48
平野純子 個展が昨日無事終了しました。
暑さの中、2度のお運び感謝です。有難うございました。平野さんは、華やぎの一週間を目いっぱい楽しんだようです。
また、お目にかかれる日を楽しみにしております。お元気でお過ごし下さい。
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