先づ頼む椎の木も有り夏木立 芭 蕉
この句は、「幻住庵記」と続けて解してみることが大切だと思う。その終わりの部分の、
「かくいへばとて、ひたぶるに閑寂を好み、山野に跡をかくさむとにはあらず、
やや病身人に倦(う)んで、世をいとひし人に似たり。つらつら年月の移りこ
し拙(つたな)き身の科(とが)をおもふに、ある時は、仕官懸命の地をうら
やみ、一たびは仏籬祖室の扉(とぼそ)に入らむとせしも、たどりなき風雲に
身をせめ、花鳥に情を労じて、しばらく生涯のはかり事とさへなれば、終に無
能無才にして、此の一筋につながる。楽天は五臓の神(しん)をやぶり、老杜
は痩せたり。賢愚文質のひとしからざるも、いづれか幻の栖(すみか)ならず
やと、おもひ捨ててふしぬ」
という心の流れの中で、この句を誦すると、「先(ま)づ」は「ともかくも」とか、「何はともあれ」とかいう気持をふくんだ「しばらく」、「かりに」という心に解せられよう。
この椎の木の大きく覆った庵に入って、何はともあれ、ほっとした気分になった、その心から「先づ頼む椎の木も有り」と発想されたものである。
「先づ頼む」は、単に炎熱を避ける木蔭として感じられたりしただけのものではない。それは、「いづれか幻の栖ならずや」というような、「先づ頼む」ところの栖でなくてはならない。「いづれか幻の栖ならずやとおもひ捨て」る心が、人生と人の世の肯定に、しばらく落ち着こうとする気息を言い留めているのである。
「夏木立」が季語。実際の夏木立に触れての発想だと思う。「先づ頼む椎の木も有り」との関連で、「夏木立」はあたり一面の夏の樹木で、椎の木はその中の一本なのか、椎の木が夏木立として「先づ頼む」に足るものなのか、という疑問がおこるが、後者の方が幻住庵を生かすと思うので、それを採る。
「さまざまな紆余曲折があったが、結局は俳諧一筋につながってきた我が身である。
その身を、この幻住庵に寄せようと立ち寄ってみると、ここは夏木立をなす大きな
椎の木もあって、それが庵を覆っており、何はともあれ、しばし身を寄せるよすが
としてはまことにふさわしいものだ」
ふりかへり巫女に一礼 夏木立 季 己
この句は、「幻住庵記」と続けて解してみることが大切だと思う。その終わりの部分の、
「かくいへばとて、ひたぶるに閑寂を好み、山野に跡をかくさむとにはあらず、
やや病身人に倦(う)んで、世をいとひし人に似たり。つらつら年月の移りこ
し拙(つたな)き身の科(とが)をおもふに、ある時は、仕官懸命の地をうら
やみ、一たびは仏籬祖室の扉(とぼそ)に入らむとせしも、たどりなき風雲に
身をせめ、花鳥に情を労じて、しばらく生涯のはかり事とさへなれば、終に無
能無才にして、此の一筋につながる。楽天は五臓の神(しん)をやぶり、老杜
は痩せたり。賢愚文質のひとしからざるも、いづれか幻の栖(すみか)ならず
やと、おもひ捨ててふしぬ」
という心の流れの中で、この句を誦すると、「先(ま)づ」は「ともかくも」とか、「何はともあれ」とかいう気持をふくんだ「しばらく」、「かりに」という心に解せられよう。
この椎の木の大きく覆った庵に入って、何はともあれ、ほっとした気分になった、その心から「先づ頼む椎の木も有り」と発想されたものである。
「先づ頼む」は、単に炎熱を避ける木蔭として感じられたりしただけのものではない。それは、「いづれか幻の栖ならずや」というような、「先づ頼む」ところの栖でなくてはならない。「いづれか幻の栖ならずやとおもひ捨て」る心が、人生と人の世の肯定に、しばらく落ち着こうとする気息を言い留めているのである。
「夏木立」が季語。実際の夏木立に触れての発想だと思う。「先づ頼む椎の木も有り」との関連で、「夏木立」はあたり一面の夏の樹木で、椎の木はその中の一本なのか、椎の木が夏木立として「先づ頼む」に足るものなのか、という疑問がおこるが、後者の方が幻住庵を生かすと思うので、それを採る。
「さまざまな紆余曲折があったが、結局は俳諧一筋につながってきた我が身である。
その身を、この幻住庵に寄せようと立ち寄ってみると、ここは夏木立をなす大きな
椎の木もあって、それが庵を覆っており、何はともあれ、しばし身を寄せるよすが
としてはまことにふさわしいものだ」
ふりかへり巫女に一礼 夏木立 季 己