壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

さゐさゐしづみ

2010年07月13日 22時26分30秒 | Weblog
                   柿本人麻呂
        珠衣の さゐさゐしづみ 家の妹に
          もの言はず来にて 思ひかねつも  (『萬葉集』巻四)

 難解な歌である。この歌、下の句は特にすぐれていて、理解も出来る。だが、上の句の方は、今風な感じ方からは無内容にしか思えない。それは、この語句を形成してきた背後の長い宗教的な生活が、今の我々とは全く断絶してしまっているので、この語句が、なんら実感として映ってこないのだから仕方がない。
 「珠衣(たまぎぬ)」は、霊的な美しい衣をいう。魂を肉体に鎮め宿らせるには、鎮魂法を行なう。その時、空になった状態の肉体に衣をかぶせるわけだが、その人から言えば、衣を頭からかぶって、じっとしているわけだ。すると、呼び迎えられた魂によって、魂が寄りついて来たしるしに、ひっかぶっている衣が、神秘なさわだちの音を立てるのだ。その神秘なさわだちが「さゐさゐ」という音なのだ。そのさわだつ声を聞きながら、じっと心を沈めている、鎮魂の神秘な宗教的経験の積み重なりがあって、それから「心をひたすらにひそめている」といったことの序歌として、「たまぎぬのさゐさゐしづみ」という類型が出てきたのだ。そうして、「たまぎぬの」は、「さゐさゐ」にかかる枕詞となったのであろう。
 こうした知識によって内容の裏付けを行なえば、この歌の上の句も、特殊なよさを感じさせる。「珠衣のさゐさゐしづみ」という表現は快い語感を持っている。「さゐさゐ」という音のひびきに、寄り来る霊魂による衣服のゆらぐ音が感じ取れる。

    「じっと心をひそめていて、妻にやさしい言葉もかけないでやって来てしまった。
     それを今にして思えば、とてもたまらない気になってしまう」


 ――『木原和敏 水彩・素描画展』(東京・銀座「画廊宮坂」)へ行ってきた。あまりにも気持ちのよい空間なので、ついつい長居をしてしまった。作品をじっくり鑑賞したあと、コーヒーとお菓子をいただきながら、木原先生・宮坂ご夫妻・画家のTさん・検察庁のIさん等と話がはずんだ。
 夜、このブログを書こうとして、真っ先に浮かんだのが上掲の歌なのである。

      女来とさゐさゐしづむ濃紫陽花     季 己