やどりせむ藜の杖になる日まで 芭 蕉
『笈日記』に、「画賛」として、
所々見めぐりて、洛に暫(しばら)く旅寝せしほど、美濃の国より
たびたび消息有りて、桑門(そうもん)己百(きはく)の主(ぬし)
道しるべせむとて訪(とぶら)ひ来侍りて、
しるべして見せばや美濃の田植歌 己 百
笠あらためむ不破(ふは)の五月雨 芭 蕉
その草庵に日比(ひごろ)ありて
とあって掲出、句のあとに「貞享五年夏日」とある。
やはり、主の己百に対する挨拶句であろう。眼前の藜が成長して杖となる日を想いやって、長逗留の意志をほのめかしているところが眼目。藜の杖をついて、ふたたび旅立とうという心がこめられている。
「己百」は岐阜妙照寺の僧。草々庵と号した。
季語は「藜」で夏。藜は、道端や空き地に生える、高い茎の一年草。若葉は、紅紫色の粉をつけたように見えて美しい。晩夏の頃、黄緑色のこまかな花を穂状につける。若葉が食用に供されるほか、堅い茎を乾燥させて藜の杖を作る。軽くて丈夫。
「あたたかいもてなしがまことにうれしく、この好意に甘えて、
庭前の藜が伸びて杖になる日まで滞在しよう」
――陶芸家の東田茂正先生から、織部茶碗の名品が送られてきた。先日、先生のご厚意で作らせていただいた、あの織部茶碗である。無我夢中で作った“迷品”を、先生は見事に“名品”に焼き上げてくださった。「終わり良ければすべて良し」ではないが、仕上げは東田先生なので、型はいびつであっても名品に見えるのだ。三点の内一点は、ことに涼やかに感じられ、大のお気に入りになりそうである。(これを自画自賛という、ノダ)
凌ぎやすくなったら、今度は「志野」に挑戦してみては……との有難いお言葉。このご好意に甘えて、念願の「志野茶碗」にいどむことにしよう。「画廊宮坂」の宮坂さんではないが、これで電信柱がまた一本増えた。それまではせいぜい、志野のホンマモノの名品を観てまわることにしよう。名品の気が、身に染み入るまで。
おほらかに織部茶碗に滝ありぬ 季 己
『笈日記』に、「画賛」として、
所々見めぐりて、洛に暫(しばら)く旅寝せしほど、美濃の国より
たびたび消息有りて、桑門(そうもん)己百(きはく)の主(ぬし)
道しるべせむとて訪(とぶら)ひ来侍りて、
しるべして見せばや美濃の田植歌 己 百
笠あらためむ不破(ふは)の五月雨 芭 蕉
その草庵に日比(ひごろ)ありて
とあって掲出、句のあとに「貞享五年夏日」とある。
やはり、主の己百に対する挨拶句であろう。眼前の藜が成長して杖となる日を想いやって、長逗留の意志をほのめかしているところが眼目。藜の杖をついて、ふたたび旅立とうという心がこめられている。
「己百」は岐阜妙照寺の僧。草々庵と号した。
季語は「藜」で夏。藜は、道端や空き地に生える、高い茎の一年草。若葉は、紅紫色の粉をつけたように見えて美しい。晩夏の頃、黄緑色のこまかな花を穂状につける。若葉が食用に供されるほか、堅い茎を乾燥させて藜の杖を作る。軽くて丈夫。
「あたたかいもてなしがまことにうれしく、この好意に甘えて、
庭前の藜が伸びて杖になる日まで滞在しよう」
――陶芸家の東田茂正先生から、織部茶碗の名品が送られてきた。先日、先生のご厚意で作らせていただいた、あの織部茶碗である。無我夢中で作った“迷品”を、先生は見事に“名品”に焼き上げてくださった。「終わり良ければすべて良し」ではないが、仕上げは東田先生なので、型はいびつであっても名品に見えるのだ。三点の内一点は、ことに涼やかに感じられ、大のお気に入りになりそうである。(これを自画自賛という、ノダ)
凌ぎやすくなったら、今度は「志野」に挑戦してみては……との有難いお言葉。このご好意に甘えて、念願の「志野茶碗」にいどむことにしよう。「画廊宮坂」の宮坂さんではないが、これで電信柱がまた一本増えた。それまではせいぜい、志野のホンマモノの名品を観てまわることにしよう。名品の気が、身に染み入るまで。
おほらかに織部茶碗に滝ありぬ 季 己