壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

平野純子 個展

2010年07月22日 20時28分55秒 | Weblog
        秋近き心の寄りや四畳半     芭 蕉

 連衆心(れんじゅしん)を詠みとったところに、俳席の亭主への感謝がこもり、挨拶が息づいたものである。
 芭蕉と内縁関係にあった女性かと想像せられている寿貞の訃報に接した直後の芭蕉が、弟子たちの寡黙なことばのうちに無限のいたわりを感じつつ、静かに坐している姿が目に浮かぶようである。
 このとき会したのは、芭蕉・木節・支考・惟然の四人であった。

 中七は従来「心の寄るや」と読まれてきたものであるが、土芳が芭蕉から直接に聞いたとして伝えるところにより、中七は「心の寄りや」を正しい句形と認めなければならないと思う。これは、心の交流という意味をはっきり出したかったものであろうか。淡々とした表現をとりながら、孤独を越えた深い心の通いあいをうつし出し、内なるゆらめきが直ちに句に匂い出ているところがあって、軽みの世界を示している。
 木節はモクセツまたはボクセツ。大津の蕉門。望月氏。医師で、芭蕉の最期を看取った人。

 季語は「秋近し」で夏。「秋近き」が「四畳半」という把握と相応じて、みごとにその季感の本質的なものを生かしている。これだけ確かな「秋近き」は、他に見ることが出来ないようである。

    「しのび寄る秋の気配の中に、連衆の心もしんみりとなごみあい、
     この四畳半の部屋で静かな時をもちえて、満ち足りた思いです」


 ――先週金曜日に受けた抗ガン剤治療の副作用のため、ずっと食欲不振がつづき、外出する気力もなくなってしまった。そのため、年中行事の「画廊宮坂」詣でにも行けず、イライラしていた。
 「画廊宮坂」のホームページを見てみると、今週は『平野純子 個展』とある。初めて見る名前ではあるが、作品の一部に、わが敬愛する日本画家N先生の〈におい〉が感じられた。これは是非にも早速お邪魔し、拝見しなくては…と思うのだが、身体が言うことを聞かない。
 そこで昨日、大型スーパーへ行き、高品質の滋養卵を4個買ってきた。夕食に、卵かけご飯にして食べたところ、昔の卵の味がしておいしく、食欲が出てきた。(大正解!)
 今朝も卵かけご飯にして食べたら、体調も戻り、今度は自分の直感が正しいかどうか早く確かめたくて、うずうずしてきた。
 昼食をしっかりと取り、室温40度の部屋から逃げ出し、銀座の「画廊宮坂」へ向かった。

 平野さんは、いわゆるプロの絵描きさんではなかった。思った通り、N先生のお弟子さんで、20年間、指導を受けているという。まず〈20年間〉にビックリ。20年と言えば、変人が幼稚園の園長をしていた期間がちょうど20年。その間、こどもたちに言いつづけたことは、「楽しく、一所懸命」の一言だけ。
 その「楽しく、一所懸命」が、平野さんの作品からひしひしと感じられ、非常にうれしく、あたたかい気持になれた。N先生の教えの根っ子はきちんと守り、幹や枝葉の部分は己の感性のおもむくまま。これがなかなか出来ないことだ。N先生も手こずる反面、内心では喜んでいたのではなかろうか。何とも羨ましい限りの師弟である。

 「カナダの森」・「ほとり」・「ペリカン」・「フローラ」・「ホスピタル」などなど、どれも感心させられる作品である。「ほとり」を凝視していると、そこはかとない‘かなしみ’が感じられ、「残りしか残されゐしか春の鴨」という句が想い起こされる。この句は、俳句の手ほどきを受けた岡本眸先生の御句で、変人の俳句開眼の句ともいうべき作品である。
 「ほとり」は、存在のかなしみを描いたものではなかろうか。ふと、そんな気がした。

 突然、卵の話が出て、「とてもおいしい卵があるから、送ってあげます」と、平野さんから言われたときには、唖然として何も言えなかった。卵かけご飯で食欲が出て、こうして『平野純子 個展』を拝見することが出来たのだ。余りにも熱心に送ってくださると言うので、「実は……」と話したところ、一同ビックリ。平野さんは鳥肌が立った、と……。 やはり、『画廊宮坂は小説よりも奇なり』であった。

      榛の木の池の明るさ通し鴨     季 己