壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

相撲

2010年07月10日 23時06分59秒 | Weblog
        むかし聞け秩父殿さへ相撲とり     芭 蕉

 発想の場が明らかでないので、解釈の決定に困難を感ずる句である。
 いかめしい武人を相撲取りと言ったところに俳意があったもので、自由闊達な‘むかし’を偲ぶ心を、一座の人々への呼びかけとして働かせているのであろう。芭蕉の
       「景清(かげきよ)も花見の座には七兵衛(しちびょうえ)」
 の句と似通った発想である。
 支考の『俳諧古今抄』に「景清も花見の座には七兵衛」とともに「即興体」として掲げ、「一座の談笑して、……殿の字の慇懃(いんぎん)を崩」したところに俳意の存したものという。

 「秩父殿」は畠山重忠のこと。源頼朝に仕えた武将、秩父の人で庄司次郎と称した。『古今著聞集』に、長居という「東八か国」随一の大力の力士を取りひしいで気絶させ、その肩の骨をくだいたことが伝わっている。

 「相撲」は、相撲の節(すまいのせち)が七月であったことにより、秋とされる。「相撲とり」が季語で秋。

    「まあそうかたくしないで、くつろごうではないか。昔の話でも、あの勇猛な秩父殿
     までが、いつも謹厳実直な武人であったわけではなく、時には相撲を取ったとい
     うではないか」


 ――むかし、陰暦七月に「相撲の節」という宮廷行事があった。野見ノ宿祢(すくね)が當麻ノ蹴速(たいまのけはや)と力闘したのが起こりで、狩衣姿の力士が、帝の前で格技を行なったのである。
 民間でも、秋収めの慰安を兼ねた「草相撲」や「子供相撲」が、産土(うぶすな)の社に奉納されるようになったので、「相撲」の用語すべてが秋季のものとされた。極端なのは、
        「大腰に掛けて投げけり石地蔵    許 六」
        「今年またきやつに勝たれな腹くじり   几 董」
 など、技の名や著名な力士名が詠み入れてあったりして、「相撲」のことだな、とわかる句はすべて秋季として容認されてきた。
 本職力士による「相撲」も秋季で、
        「負けまじき角力(すもう)を寝物語かな    蕪 村」
 をはじめ、古典をふまえた周到な名作・力作も多かったが、現在では、プロの相撲を秋季とするには少し無理があろう。やはり、「秋場所・九月場所」と詠むのがいいと思う。

      荒梅雨や鼻毛抜きをる相撲とり     季 己