壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

千歳の憂い

2010年07月30日 21時34分01秒 | Weblog
               生年百に満たず     無名氏
             生年は百に満たざるに
             常に千歳の憂いを懐(いだ)く
             昼は短くして夜の長きに苦しむ
             何ぞ燭をとって遊ばざる
             楽しみをなすはまさに時に及ぶべし
             何ぞよく来年を待たん
             愚者は費を愛惜して
             ただ後世の嗤(わら)いとなる
             仙人王子喬(おうしきょう)と
             ともに期を等しくすべきこと難し

        「人の生きる年は、たったの百にも満たないのに、
         あの人はいつも、その十倍の千年も先のことまで心配している。
         昼が短くて夜が長すぎる、と言って苦しむなら、
         どうして、明かりを手にして、共に遊ばないのか。
         人生楽しむときは、それなりの好機というものがあるものだ。
         来年まで待とうなどと、どうしてそんなことができようか。
         愚かな者は、わずかのむだごとを惜しんで、倹約家ぶっているが、
         実は、むなしく一生を過ごして、後の世の笑いぐさとなるだけだ。
         あの仙人の王子喬と同じように、
         いつまでも生きながらえることなど、出来はしないぞ」

 『文選』にある五言古詩の一つ。従来この詩は、生命の移ろいやすいことを嘆き、青春の再び得難いことを惜しみ、千歳の憂いを抱く世の愚人をそしった歌である、とされている。また、享楽主義を讃美した歌である、ともされている。いずれにしても、ほぼ共通した見方がなされている詩である。

 人生を憂苦なものにしている愚かさを捨て去り、楽しむべき時には大いに楽しもうというのであれば、おそらくこの詩は、祭りの場あたりで、杯を酌み交わしながらうたった歌であろう。その場合、変人のように酒席になじまない、ある堅物の男がいたのかも知れない。それを「千歳の憂いを懐く」者、「愚者」と言ってはなじり、そして酒の肴としたのであろう。
 それはともあれ、これが祭りを背景にしてうたわれていることは、三句から六句までの描写で明らかである。季節は「夜長」の一語からしても、秋から暮れにかけてである。しかも、その頃に杯を酌み交わして享楽する祭り、といえば、ただちに豊年祭を想像する。
 なお、結びに伝説の主人公・王子喬を配するあたり、みんなで声をそろえてはやしたてた雰囲気が伝わる。周の霊王の太子、晋(しん)を王子喬という。政務を休み、誰かさんの結婚披露宴に出席するどこかの大臣のように、彼は政務を見ず、笙(しょう)を好んで吹いて、遊楽の生活を送っていた。後に道士に導かれて仙人となり、白い鶴に乗って仙界に去り、ついに永遠の命を得たという。
 

      吹かれをる髪のさみしさ釣忍     季 己