大伴旅人の従
家にても たゆたふ命 波の上に 浮きてし居れば
奥処(おくか)知らずも (『萬葉集』巻十七)
「家にてもたゆたふ命」とは、どういうことだろう。人は旅先では常に魂が遊離する脅威にさらされ、そのために魂ふりをやって鎮めようとした。
この作者、大伴旅人の従(けんじゅう)、つまり、側近に奉仕する家来のことだが、彼の場合は、家の内にいても、日常の生活においても不安なのである。
「たゆたふ命」というのは、煩悶しているというようなことではなく、安定していない命だといっているのであって、魂のしずまらないことだ。魂が、人の肉体の中の、おさまるべきところに、すっぽりと落ち着いていないことをいう。
普通の人なら、旅先では魂が安定しないということがあるが、家にいればまず魂が動揺するということはない。それが、自分は家にいても動揺している魂なのだから、まして今のように波の上に浮かんでいると、先行きのことがまるでわからない、という歌であろう。
「奥処(おくか)」は、心の奥底ともとれるし、時間的に将来のことともとれる。
では「命」とはなんであろう。ここに命と言っているのは、どうも従来の「うつせみの命」などと言った場合と、意味が違ってきているようだ。魂と言えば古風に過ぎ、精神と言えば新風に過ぎよう。折口信夫博士は、心と命とのあいだを考えているようだと言われた。
「たゆたふ」は、動揺して定まらぬことであり、命が「たゆたふ」と言えば、存在の不安、生命の恐怖であろう。不安は、すでに一種の虚無思想に犯された者には、旅先だろうが家の中だろうが、どこへでもやってくる。
人間はどこから来て、どこへ行くのかわからない。その不安が、大海で波に揺られていると、きわめて間近に、現実として感じられてくる。波に揺れることで、心の奥底の不安を揺さぶり出されている感じである。だから「奥処知らずも」――このおれという不安な存在の、先のことはわからない、と言っているのだ。
「家にても」の歌は、折口信夫博士が、『萬葉集』の中からもっとも価値の高い歌をたった一首だけ選べと言われたら、この歌を選ぶと言われた歌である。
キムヒョンヒ降り立ちしあと地の灼くる 季 己
家にても たゆたふ命 波の上に 浮きてし居れば
奥処(おくか)知らずも (『萬葉集』巻十七)
「家にてもたゆたふ命」とは、どういうことだろう。人は旅先では常に魂が遊離する脅威にさらされ、そのために魂ふりをやって鎮めようとした。
この作者、大伴旅人の従(けんじゅう)、つまり、側近に奉仕する家来のことだが、彼の場合は、家の内にいても、日常の生活においても不安なのである。
「たゆたふ命」というのは、煩悶しているというようなことではなく、安定していない命だといっているのであって、魂のしずまらないことだ。魂が、人の肉体の中の、おさまるべきところに、すっぽりと落ち着いていないことをいう。
普通の人なら、旅先では魂が安定しないということがあるが、家にいればまず魂が動揺するということはない。それが、自分は家にいても動揺している魂なのだから、まして今のように波の上に浮かんでいると、先行きのことがまるでわからない、という歌であろう。
「奥処(おくか)」は、心の奥底ともとれるし、時間的に将来のことともとれる。
では「命」とはなんであろう。ここに命と言っているのは、どうも従来の「うつせみの命」などと言った場合と、意味が違ってきているようだ。魂と言えば古風に過ぎ、精神と言えば新風に過ぎよう。折口信夫博士は、心と命とのあいだを考えているようだと言われた。
「たゆたふ」は、動揺して定まらぬことであり、命が「たゆたふ」と言えば、存在の不安、生命の恐怖であろう。不安は、すでに一種の虚無思想に犯された者には、旅先だろうが家の中だろうが、どこへでもやってくる。
人間はどこから来て、どこへ行くのかわからない。その不安が、大海で波に揺られていると、きわめて間近に、現実として感じられてくる。波に揺れることで、心の奥底の不安を揺さぶり出されている感じである。だから「奥処知らずも」――このおれという不安な存在の、先のことはわからない、と言っているのだ。
「家にても」の歌は、折口信夫博士が、『萬葉集』の中からもっとも価値の高い歌をたった一首だけ選べと言われたら、この歌を選ぶと言われた歌である。
キムヒョンヒ降り立ちしあと地の灼くる 季 己