梢よりあだに落ちけり蟬のから 芭 蕉
「蟬のから」に「蟬の唐衣」という古典の夢を匂わせつつ、それを現実の些事(さじ)の中に引き下ろしたところが談林的である。
謡曲「杜若(かきつばた)」に、「梢に鳴くは蟬の唐衣(からごろも)の袖白妙の……」とあり、唐衣をつけた杜若の精が舞う。ここはそれを踏まえ、舞も舞わずにむなしく落ちた蟬のからを「あだに」といったものであろう。延宝五年(1677)ごろの作。
「あだ」は、「①まごころがないこと。忠実でないこと。②はかないこと。むなしいこと。③うわきなこと。④むだなこと。」などの意がある。したがって「あだに」は、いたずらにとか、むなしくの意。謡曲「桜川」の「梢よりあだに散りぬる花なれば」を踏まえたものであろう。
「蟬のから」は蟬の脱殻で、和歌などは、空蟬(うつせみ)というのを俗な言い方にしたもの。
季語は「蟬のから」で夏。
「梢を離れた蟬が、舞うこともなくむなしく地に落ちてしまった。見ると、
『蟬の唐衣』ならぬ蟬の殻である。殻であってみれば、舞わないのも道理だ」
――連日連夜の猛暑。「もうしょ、もうしょカメよ」などと唄う元気さえない。
それでも今日、行きたいところが二ヵ所あった。しかし、外出不可能となってしまった。母がとうとう調子を崩してしまったのだ。どうやら熱中症にかかったらしい。
変人の部屋には扇風機さえないが、居間には、クーラーも扇風機もある。ところが母は、大のクーラー嫌い。それでやられてしまったらしい。
平生は、独り身を謳歌している変人であるが、母の具合が悪くなると、独り身の悲哀をしみじみと感じる。数え90歳の母親、今後は日増しに衰えてゆくことだろう。そうなると、毎日出歩いてばかりはいられない。そうか、「身辺整理、身辺整理」という呪文を唱える必要もなくなる、か……。
たらちねの母の干からぶ猛暑かな 季 己
「蟬のから」に「蟬の唐衣」という古典の夢を匂わせつつ、それを現実の些事(さじ)の中に引き下ろしたところが談林的である。
謡曲「杜若(かきつばた)」に、「梢に鳴くは蟬の唐衣(からごろも)の袖白妙の……」とあり、唐衣をつけた杜若の精が舞う。ここはそれを踏まえ、舞も舞わずにむなしく落ちた蟬のからを「あだに」といったものであろう。延宝五年(1677)ごろの作。
「あだ」は、「①まごころがないこと。忠実でないこと。②はかないこと。むなしいこと。③うわきなこと。④むだなこと。」などの意がある。したがって「あだに」は、いたずらにとか、むなしくの意。謡曲「桜川」の「梢よりあだに散りぬる花なれば」を踏まえたものであろう。
「蟬のから」は蟬の脱殻で、和歌などは、空蟬(うつせみ)というのを俗な言い方にしたもの。
季語は「蟬のから」で夏。
「梢を離れた蟬が、舞うこともなくむなしく地に落ちてしまった。見ると、
『蟬の唐衣』ならぬ蟬の殻である。殻であってみれば、舞わないのも道理だ」
――連日連夜の猛暑。「もうしょ、もうしょカメよ」などと唄う元気さえない。
それでも今日、行きたいところが二ヵ所あった。しかし、外出不可能となってしまった。母がとうとう調子を崩してしまったのだ。どうやら熱中症にかかったらしい。
変人の部屋には扇風機さえないが、居間には、クーラーも扇風機もある。ところが母は、大のクーラー嫌い。それでやられてしまったらしい。
平生は、独り身を謳歌している変人であるが、母の具合が悪くなると、独り身の悲哀をしみじみと感じる。数え90歳の母親、今後は日増しに衰えてゆくことだろう。そうなると、毎日出歩いてばかりはいられない。そうか、「身辺整理、身辺整理」という呪文を唱える必要もなくなる、か……。
たらちねの母の干からぶ猛暑かな 季 己