壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

塩鯨

2010年07月08日 22時53分18秒 | Weblog
        水無月や鯛はあれども塩鯨     芭 蕉

 単に水無月の食物として、塩鯨を賞しているのではなかろう。そこに自らの境涯を匂わせているのだ。塩鯨は、鯛の豪華さなどと違って、きわめて庶民的で侘びたものである。それが水無月の季感と調和することをうたいあげたところには、江戸市民の生活から生まれる風趣を、新しい感覚で生かす眼が光っていよう。
 『葛の松原』の
        「水無月の塩鯨といふものは、清少納言もえ知らざりけむ、いとめづらし。
         風情の動かざるところは、みづから知り、みづから悟るの道ならむかし」
 は、芭蕉のこの態度に対する、よき理解に導かれた発言である。

 「鯛はあれども」は、鯛はたしかにそれなりによいけれどの意。『古今集』東歌
        「みちのくは いづくはあれど 塩釜の
           浦漕(こ)ぐ船の 綱手(つなで)かなしも」
 を、踏まえているのではなかろうか。
 「塩鯨(しおくじら)」は食物の名。鯨の皮の脂肪の厚い部分を塩につけて、これを薄く刻み、熱湯をかけて脂を抜き、ちぢれて歯切れのよくなったものを、冷やして酢味噌などで食べる。

 「水無月」が旧暦の六月で夏。季感と境涯とを融合させた発想である。

    「水無月にあっては、魚の最もこの時季にふさわしいものとして、人々に賞美される鯛、
     それはそれとして美味であるが、その鯛よりも自分には、あのあっさりした塩鯨の風味
     が、もっとふさわしく思われる」


      水無月の放ち孔雀が屋根の上     季 己