壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

2010年07月19日 20時26分43秒 | Weblog
          桃 夭(とうよう)     無名氏

 一章  桃の夭夭たる 灼灼たる其の華 之の子干(ゆ)き帰(とつ)がば
     其の室家(しつか)に宜しからん

 二章  桃の夭夭たる 有蕡(ゆうふん)たる其の実 之の子干き帰がば
     其の家室(かしつ)に宜しからん

 三章  桃の夭夭たる 其の葉蓁蓁(しんしん)たり 之の子干き帰がば
     其の家人に宜しからん

 「桃」は、ももの木。 
 「夭夭(ようよう)」は、若々しいさま。  
 「灼灼(しゃくしゃく)」は、明るいさま。 
 「華」は、もものはな。従来、ももの花や実や葉は、嫁ぎゆく若い娘をたとえたもの、と解されている。しかし、実はこれは、もともとは懐妊や安産を祈願する際に、ももの木をほめたたえる呪詞であり、それをうたって花嫁を祝賀する詞とした、と見るべきとする意見が多い。「めでためでた」の気分が出てくるのはそのためである。
 「之の子(このこ)」は、この子。娘のこと。
 「帰」は、嫁の古語で、「とつぐ」と読む。
 「宜しからん」は、よく似合う。
 「室家」は、先方の家庭。二章の家室や三章の家人も、韻字の都合で変えただけで、意味はほぼ同じ。
 「有蕡(ゆうふん)」は、実の多いさま。
 「蓁蓁(しんしん)」は、盛んに茂るさま。

 ――かつてはこの詩は、皇后の徳化によって、男女の婚姻が正しく時を得ていることをうたった歌である、と解されていた。けれども今日では、嫁ぎゆく娘を祝福した婚礼の祝い歌である、とするのがほぼ共通した見方である。
 この詩の形式は、三章繰り返し。詩句も平明で少ない。また、擬態語の多様でによる音調もよい。これは大勢の人々がうたうことを条件としていたからであろう。
 すなわち、一章では、まず、ももの木の若々しさとその花の明るく咲くさまをうたって祝賀の詞とし、その幸いを身に受けて、この若い娘が嫁いでいっても、きっと明るい家庭に似合うだろう、とうたう。そのほめたたえが、この詩の主題である。
 二章では、ももの実が多く実っていることを祝賀の詞とする。これはそのまま将来の子だくさんを予祝しているのであろう。
 三章では、ももの葉が盛んに茂っているさまを祝賀の詞とする。これは、にぎにぎしく栄える一族の繁栄を予祝しているのであろう。
 このように、嫁ぎゆく若い娘の幸せや一族の繁栄が、ももの木とその花・実・葉によってもたらされる構成をとっているのは、かつてはそれが信仰の対象であったことを明らかにしている。したがって、ももの木のそれらがうたわれているのは、単に若くて美しい娘をたとえたのではないのである。
 中国の留学生に聞いたところに寄ると、この詩は中国では、地方によっては今なおうたいつがれているという。民謡は、生活の中から自然発生的に生まれるが、その生活に結びついた民謡とは、この詩のようなことをいうのであろう。
 なお日本でも、樹木は信仰の対象となっていた。松の木もその一つである。ことに、「めでためでたの若松様よ、枝も栄えて葉も茂る」とうたわれて、婚礼の祝い歌として用いられているのは、「桃夭編」ときわめて似通うものがあるといえよう。

    「一章 ももの木は若々しく、明るく咲き乱れるその花よ。(めでたい、めでたい)
        この子がお嫁に行ったなら、きっと明るい家庭に似合うだろう。

     二章 ももの木は若々しく、多く実ったその実よ。(めでたい、めでたい)
        この子がお嫁に行ったなら、きっとにぎわう家庭に似合うだろう。

     三章 ももの木は若々しく、盛んに茂るその葉よ。(めでたい、めでたい)
        この子がお嫁に行ったなら、きっと栄える家族に似合うだろう。」


      白桃のしづく六根清浄す     季 己