平塚にあるキリスト教会 平塚バプテスト教会 

神奈川県平塚市にあるプロテスタントのキリスト教会です。牧師によるキリスト教や湘南地域情報、世相のつれづれ日記です。

共同体から断たれて

2013-10-30 17:11:49 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2013年10月27日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

 「共同体から断たれて」 レビ記7章22-27節

 救われているとは、居場所がある、役割がある、つながりがある状態だと言えないだろうか。一人の人間として承認される。生きていいんだ、そのままでいいんだ、あなたは愛されている存在なんだ。あなたはあなたでいいんだという、人間の尊厳が取り戻される。そこに生きる希望が与えられ、感謝と喜びと賛美が生まれる。

 今日の聖書個所では、そのつながりが断たれることを恐れるイスラエルの民たちのことが書かれている。イスラエルの人々にとって、その民のうちから断たれるということは、何よりも恐れられたことであった。なぜならば、神の祝福の約束は個人にではなく、イスラエル民族に与えられたものであったからである。そのゆえに、彼らにとって、その民から断たれ、イスラエルに居場所が無くなるとき、彼らはいろいろの契約に縁がなくなるのである(無縁、つながりがない)。それは彼らにとって最大の恐れであった。

 神の約束が個人にではなく、イスラエルの民に与えられた、ということは、旧約の時だけではなく、新約の時代においても同じである。主イエスがその弟子を選ばれた時、十二人をお立てになったということも、「はっきり言っておく。新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる」(マタイ19:28)と言われたことも、主が目指されたものが新しいイスラエルであったことを示しているだろう。また新約聖書で「教会」と訳されている言葉は、「エクレシア」というギリシア語であるが、これはヘブライ語の「カーハール」、集められた神の民、イスラエルを指す言葉の訳語である。このことは新約の時代における教会は明らかに旧約のイスラエルを受け継ぐものであることを示している。すなわち救いの約束は教会に与えられているものである。このゆえに教会の他には救いはないという命題は真実である。
 
 私たちは信者になる時、信仰を告白して、バプテスマを受けるが、このことによって私たちは教会に受け入れられるのである。そして、以前は遠く離れていたが、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近いものとなったのである(エペソ2:13)。
 
 ところが、私たちは時々教会生活の煩わしさを嫌い、教会から離れることを願うようなことがある。確かに教会生活は煩わしい。ひとりで信仰生活をしていたらどんなに楽しいだろうかと思うことがある。しかし、救いは私たちが自分の信仰によって獲得するものではない。それは一方的に与えられるものである。そしてこの救いが教会に与えられているとすれば、およそ、教会を離れた信仰はまったく無意味であると言えよう。
 
 イスラエルの人々が、その民から断たれることを恐れたように、私たちも、教会の外がどんなに「食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われ」でも、教会から断たれることを、離れることを求めてはならない。「ある人たちがいつもしているように、集会をやめることをしないで互いに励まし」(へブル10:25)と勧めているが、教会に留まって、その救いを待ち望みつつ生きる者となろう。

祈りと信仰

2013-10-29 10:55:43 | 牧師室だより

牧師室だより 2013年10月27日 祈りと信仰

 信仰とは祈りの生活と言っていい。朝の祈りに夕べの祈り。食前の祈りに仕事を始める時の祈り、願いの祈りや感謝の祈り、賛美の祈りなど、日々の生活の節々に祈りがある。

 英国の神学者・牧師のウィリアム・バークレ―は祈りには法則があると書いている(『希望と信仰に生きる』)。①祈りは神が我々のために何かをなさることではなく、我々が自分でやれるように助けてくださることである、という。神は私たちが自分でやれることを、私たちに代わってやるようなことはなさらない。神は簡単な逃げ道ではない。祈りは私たちのなすべきことを神に押しつけることではない。神頼みはダメということ。祈りは、神が私たちに自分でできるようにさせてくださる、そのための手段である。

 ②祈りは状況を変えず、我々を変える、という。状況は前と変わらない。だが、私たちは新しい勇気と新しい力とそれに取り組む新しい能力を持って、その状況に対応できるのである。祈りは、私たちが人生の困難に新しい仕方で対処できるように、助けてくれるのである。

 『聖書教育』の今朝の学びの箇所(44p)に、「聖書が教える信仰は、自分の思いを神さまに組み込むことではなく、神さまの御心に自分が組み込まれるのを拒まない生き方です」と書いてあった。私たちの信仰は、神の愛への応答である、と言われている。ならば、祈りも神のみ言葉の応答ではないか。それもみ言葉に対して「否」ではなく「諾」の応答であろう。そのような主イエスのゲッセマネの祈りがある。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」(マルコ14:36)。

 時に、自分の祈りを吟味してみよう。祈りが変われば信仰が変わる。信仰が変われば人生が変わる。

新聞記事より三つの話題

2013-10-21 09:43:18 | 牧師室だより

牧師室だより 2013年10月20日 新聞記事より三つの話題

 朝日新聞の朝刊(10月16日)から、面白くて興味深く読んだ三つの話題。最初は「『まだ?』はほっといて生きる」という40代の女性の投書。彼女は、20代前半の頃、周囲から「結婚はまだ?」と言われ続け、結婚すると「子どもはまだ?」とまた言われ、大変不快だったという。

 そこでおばあちゃんに愚痴ったら、おばあちゃん曰く「結婚、子どもをクリアしたらもう言われないと思ってるべ?いいや、まだまだ。2人目はまだ?家はまだ?孫はまだ?墓はまだ?まだは死ぬまで続くんだ。お前、死ぬまで傷つくことはないよ。そんなこと言うヤツはほっといて、堂々と生きなさい」。おばあちゃんの見事な人生哲学だ。

 次は「半沢直樹」で悪役を演じた俳優の宇梶剛士さんの「私の悪人論」の記事から。「悪人に共通しているのは、『自分は正しいんだ』と強調するのに、どこかで顔がひきつっているんですよ。余裕ぶれば余裕ぶるほど、顔がひきつってくるのが、悪人の典型です」。さすが俳優。人の顔の表情をよく観察し研究している。

 最後に彼はこうも言っている。「人間の心は、善と悪が混在しています。しかし、悪を認識し、謙虚になれる力がある。自分を善人と信じこんでいる人が、逆に悪人に近いと思っています」。

 主イエスが律法学者やパリサイ派の人々に厳しく言われたいくつかの場面が目に浮かんでくる。
 
 最後は孫たちの大好きなアンパンマンの作者、やなせたかしさんが亡くなられた記事から。「かっこ悪くても、弱い人たちを助けたい」という思いを込めたアンパンマンだった。だからか、おなかがすいた子どもたちに自分の顔をちぎって食べさせ、ヨレヨレになる。やなせ氏は言う。「人に尽くすというのは、こういうこと。自己犠牲を伴わない正義はない」。さらに「声高に語る正義はうそくさい」「正義も悪もない。唯一ある正義はひもじい者に食わせることだ」。

 愛することは傷つくこと。愛とは自己犠牲。十字架において示されたキリストの愛を思い起こさずにはおれない。

希望・感謝・派遣

2013-10-17 18:45:11 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2013年10月13日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

 「希望・感謝・派遣」 ルカによる福音書17章11-19節

 救われるというのは、たとえば居場所がある、役割がある、つながりがある、つまりその存在が承認されることではないだろうか。人間の尊厳が取り戻されることではないだろうか。今日の聖書箇所の人たちはどうだろうか。

 主イエスは弟子たちとエルサレムへ上る途中、ある村に入られると、十人の重い皮膚病を患った人たちが、主イエスに救いを求めて、叫びをあげた。「私たちを憐れんで下さい」と。当時のユダヤ社会では、重い皮膚病の人は一般の健康な人に近づくことを禁じられていた。共同体の外に出され、「私は汚れた者です」と繰り返し口にしながら歩かねばならなかった。それため、彼らは主イエスに近づくことをためらい、「遠くの方から」、声を張り上げて叫んだ。差別と偏見、屈辱と悲しみの中で、遠くからの叫びを上げたのだ。

 主イエスは彼らの叫びを聞かれた。そして一言「祭司たちのところへ行って、からだを見せなさい」と言われた。当時、重い皮膚病の者が回復して、社会復帰をするためには、祭司の許可と儀式が必要だった。この時点ではまだ、病は癒されてはいない。彼らの病が癒されたのは祭司のところへ「行く途中」でのこと。ここに、まだ実現していないにもかかわらず、信じて出かける信仰が問われている。希望の信仰が問われている。十人の人たちは、この希望にかけた。病のままで歩み始めた。そして、その希望への歩みの中で、彼らは癒されたのだった。

 主イエスは言う。弱く愚かなままで、歩み始めなさいと。その主イエスの言葉を信じて歩み始める時、その途上で癒しを体験するのである。

 この十人の人たちはこの希望のゆえに癒された。しかし、いやしに感謝し、神をほめたたえるために帰ってきたのは、一人のサマリア人だけ。この「外国人」(18節)は神を賛美するために、主イエスの足元にひれ伏した。賛美の真の対象はエルサレム神殿ではなく、主イエスであることを暗示している。

 推測だが、この一人のサマリア人も主イエスのもとへ帰るのに、心の内に葛藤があったことだろう。屈辱と悲しみから解放され、一刻でも早く祭司のところへ、さらに家族のところへ行きたいという思いがあったことだろう。しかし、サマリア人はその思いを超えて、主イエスへの感謝と神への礼拝を選び、喜び、賛美しながら帰って来たのである。

 主イエスへの感謝と神への礼拝のために帰って来たサマリア人。しかし、主イエスは、彼に「立って行きなさい」と言われた。主イエスの下に留まるのではなく、社会の真っただ中に彼を送り出したのである。派遣である。

 さて、癒された十人のうち、救われたのはだれか。居場所が与えられ、役割が与えられ、つながりができたのはだれか。居場所とは主イエスの足元、教会。役割とは出て行って証しすること、宣教。つながりとは主イエスにつながり、隣人とつながること、和解。帰って来たサマリア人は、まさに救われたのである。だから主イエスは言われた。「あなたの信仰があなたを救った」。

さよなら

2013-10-15 13:44:31 | 牧師室だより

牧師室だより 2013年10月13日 さよなら

 「さよなら」、今まで何度口にしたことだろうか。またこれからも何度も「さよなら」と言うだろう。そのように私たちは気軽に「じゃあね」とか「バイバイ」と別れていくが、それは、いずれまた会えると思っているからだ。

 だが、これがもし、その「また」がもうないのだとしたら、その人とこのまま二度と会えないと分かっていたなら、そう簡単に「じゃあね」とはいかないだろう。私たちは無邪気に手を振ってあっさりと別れていくが、いつだってそれがその人を見る最後になる可能性はあるし、いつかは必ずその日がくる。

 親しい人、特に家族を亡くした人の悲しみは大きいが、それが長い闘病生活の末か、突然の事故のためかでは、悲しみの質も違ってくるだろう。本人と周囲の人が死と向かい合う時間が長ければ、いつしか心の準備ができていることもあるが、朝「行ってきます」と出ていったのが最後になってしまったというような場合は、まったく心の準備がないために、残された者の心の傷は計り知れない。「さよならも言えなかった」「せめてひとこと、ありがとうと伝えたかった」そんな思いがいつまでも心に残る。

 私の父が死を迎えた時もそうだった。医師が治療のために麻酔をかけるがいいかと家族に同意を求めた。私たちは、麻酔による治療でよくなればまた父と話せると期待して同意した。しかし、父は三カ月間麻酔をかけられたまま意識も戻らず他界した。その時になって、「ああ、あの時に親父にありがとうとひとこと言いたかったな」と後悔した。

 「一期一会」という言葉がある。そこでの出会いと別れは常にかけがいのない出会いであり、今生の別れである。だから、私たちはいつだってきちんと「さよなら」を言わなければならないだろう。フランス語のアデュー、イタリア語のアディオスという別れの言葉は「神に(委ねる)」の省略形であると言われている。そのように、別れる相手を神とその御言葉に委ねる、そのような「さよなら」をいつもしたいものだと思う。

我らの罪を償ういけにえ、イエス

2013-10-11 11:17:44 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2013年10月6日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

 「我らの罪を償ういけにえ、イエス」 第1ヨハネ4章7-12節

 救いは第一に、イエス・キリストを救い主と信じ受け入れることによって与えらる。これにはもちろん大前提がある。それは、キリストにおいて神が私たちを信じ受け入れて下さっているということ(神が私たちを愛して下さっているということ)。この愛は無条件で、神からの私たちに対する一方的な働きかけで、すべてに先行している大前提である。ここに神の真実(愛)がある。そのことを第一ヨハネ4章10節は告白している。
 
 私たちの常識は、信仰とは私たちが神を愛することから始まると考える。しかし、聖書は、信仰とは神がわたしたちを愛してくださったことから始まるとする。私たちが愛されたとは、私たちの罪を贖ういけにえとして御子が遣わされたことだとヨハネの手紙は告白する。神の愛の後ろには、私たちの罪のために死んでくださるお方がおいでになるということは、決して尋常なことではない。
 
 ここで言われている罪とは、神への背信を意味するのだから、不信仰なる者のために御子であるお方の命が捧げられたということで、それが神の私たちへの愛の形であるとすれば、これをもって尋常な愛の形と言えるだろうか。
 
 私たちはこれをお願いして、そうしてくださいと言ったわけではない。それどころか、そんなことがわたしたちのためになされたということすら知らない。それがわたしたちへの神の愛し方であると言われている。しかしこれが聖書の常識。この常識をわがものとすることが信仰である。

 この神の真実は、しかし、応答を求める。神の恵みは決して「安価な恵み」ではないし、また「アヘン(麻薬)」でもない。むしろ、私たちを目覚めさせ、立ち上がらせ、さらに身体を突き動かす。これらを通して、人間は神に応答することができるようになる。これがイエス・キリストを信じ受け入れること。

 信じるとは、キリストにすべてをまかせて信頼すること、この方を自分の主としてはっきり認識すること、また外に向かって告白すること。これらすべてを通して、キリストが私たちを受け入れて(愛して)くださったように、私たちもキリストを受け入れる(愛する)ということ、これが信仰の意味である。

 そして第二に救いは、罪の悔い改めが求められる。信仰においてキリストの十字架を自分のものと受ける時、私たちの罪深さが明らかにされる。同時に、キリストのみを主として生きるという方向転換が、つまり悔い改め(回心)が起こされる。

 第三に、救いにあずかった私たちは、感謝と喜びを持って、全身全霊をもってキリストに従う者とされていく。

そして兄弟になる

2013-10-08 11:47:00 | 牧師室だより

牧師室だより 2013年10月6日 そして兄弟になる

 私は、姉、兄、私と三人兄弟の末っ子である。しかし、実は妹がいる。別に親の隠し子なんてものではない。血はつながっていない。ふみちゃんという目のクリクリしたかわいい子どもであった。今では立派なおばさんだが……。

 ふみちゃんは、祖父のお弟子さん(すでに独立して工務店を営んでいた)の子どもである。彼女の母親が高齢出産と病弱なため、2歳の時から我が家に預けられて、小学校に入学するまで共に生活した。その時、私は小学生で事情がよく分からず、気がついたら彼女がいつもそばにいたという感じであった。

 一番年が近いこともあって、私はいつも彼女を連れて遊んだ。というより、子守をしていたという方が正確か。彼女が実家に戻った後も、互いによく行ったり来たりして遊んだ。その後、大人になってからも冠婚葬祭の時や盆、正月には必ず顔を出し一緒に会食した。年老いた私の祖父母や父母にも気遣ってよくお見舞いや世話をしてくれた。私が帰省すると、必ず朝の魚市場で仕入れた新鮮なブリやタイ、ハマチなど一本持ってきてくれた。「東京じゃ、おいしい刺身は食べられないだろうから」と言って。

 15年前、私の父の葬儀の時、火葬場から戻り、その日のうちに初七日の法要をすませ、やれやれと言って身内だけの会食の準備が始まった。その時ふみちゃんは遠慮があったのか帰ろうとしたので、兄が「遠慮せんでええ。ふみちゃんはわしらの兄弟みたいなもんやから」と引きとめた。すると、彼女は急に涙を流して、「ありがとう。これからもよろしくお願いします」と言った。そばにいた姉も「ええんよ。今までもそうだったんだから。遠慮しなさんなよ」と励ました。

 今までお互いそのような気持ちでいたのだが、口に出して言うのもなんだかおもはゆいというか、決まりが悪かったのだ。父の死が互いに兄弟としての絆を確認させてくれたのだった。

金持ちとラザロ

2013-10-01 11:34:59 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2013年9月29日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

 「金持ちとラザロ」 ルカによる福音書16章19-31節
 
 このたとえ話に登場する一人の金持ちは、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。毎日宴会を催し、大騒ぎをしていたことだろう。一方、金持ちの門前に、ラザロという貧しい人がいた。彼は全身できもので覆われ、その病のために横たわっていた。
 
 このような貧しい病の者が近くにいるにもかかわらず、金持ちは関心さえ持たない。死後、金持ちがラザロの名を知っていたことは(24節)、生存中、自分の家の門前に横たわっていた貧しい人を知ってはいたが知らぬ顔でいたことを表わしていりだろう。金持ちには、まったく憐れみ、愛がない。ただ、隣人とのつながりを喪失した自己中心の思いがあるだけだった。
 
 時がたち、二人は死ぬ。ここで二人の立場、境遇の「逆転」が生じる。貧しいラザロは「アブラハムのふところ」に行く。それは「アブラハムの食卓につく、喜びの祝宴の席につく」ということ。一方、金持ちは「黄泉」に行く。そこは火が燃え盛る、苦しみの場所。この二つの場所には、越えることができない大きな深淵がある。
 
 このたとえは単純に「金持ちは黄泉へ、貧乏人は天国へ」という逆転の話ではない。このたとえは財産、富そのものではなく、人の生きる姿勢を問題にしている。
 
 この二人の死後の状況は逆転した。しかし、「裸にされた」とも言えるのではないか。死後の世界には何も持っていけない。金持ちは紫の衣、富、名誉を脱がされ、ラザロは全身のできものを脱がされた。この裸の状態がまさに「黄泉」と「アブラハムのふところ」なのである。
 
 この金持ちは守銭奴のように利益を追求したり、人の金を盗んだわけではない。その金持ちがなぜ黄泉に落ちたのか。それは自分に与えられた財産を、自分のものと思っていたからである。彼は紫の衣や柔らかい麻布を着て、ぜいたくに遊び暮らしていた。神から預けられたものは、神のために返していくべきである。自分を楽しませるためだけに用いることは不正である。黄泉に落ちていくのは、盗人や人を苦しめた人だけではない。自分の金を自分のものだと思い、神にささげようとしない者が黄泉に落ちていく。私たちは今日もなおそのことを知らないで生きている多くの人を見る。

 黄泉において、金持ちは自分のことは断念し、家族の救いを求める。死者が復活するという驚くようなしるし(奇跡)を見れば、家族は心から悔い改めるだろうと金持ちは言う。しかし、アブラハムは驚くようなしるしを望む金持ちの望みを退け、ただモーセと預言者、すなわち聖書のみ言葉に聞けと言う。
 
 神は確かに驚くようなしるしを表わし、それが信仰のきっかけになることもある。しかし、真実の悔い改めと信仰は、ただ神のみ言葉を聞くことから生まれる。金持ちが「ラザロを生き返らせて、私と同じように全然気がつかないで、栄耀栄華に暮らして、この苦しい黄泉に落ちてこなければならない人に、そのことを知らせてやってください。彼らも気がついてくれると思う」と言ったが、アブラハムは「たといラザロがよみがえって警告しても、彼らは悔い改めないであろう」と言ったのである。事実その通りで、たとい今私たちがその人たちに、あなたは今黄泉への道を歩んでいると言っても、その人たちは耳を傾けないだろう。その人が聖書に導かれ、神の御心を知った時、初めて悔い改めが生まれてくるのである。

秋の特別伝道礼拝のご案内

2013-10-01 09:42:15 | 教会行事
信者さん以外の誰でも、ご出席ください。
幾多の試練、困難を乗り越え、喜びにあふれて
キリストの福音(良きおとずれ)を語っておられます。
素晴らしい先生です。ぜひ、お出かけください。
無料(礼拝の中で自由献金があります)。駐車場有り。
必要に応じて託児もします。