平塚にあるキリスト教会 平塚バプテスト教会 

神奈川県平塚市にあるプロテスタントのキリスト教会です。牧師によるキリスト教や湘南地域情報、世相のつれづれ日記です。

いっしょに

2014-06-30 07:57:50 | 牧師室だより

牧師室だより 2014年6月29日 いっしょに

 「いっしょに遊ぼう」「いっしょに行こう」「いっしょに生きていこう」。だれかから「いっしょに」と言われると、うれしい。一方では「自分でやれ」「ひとりでできるだろう」「他人に頼るな、甘えるな」と言われて育ってきた。確かに厳しい社会を生き抜くには「自立と自律」が必要だ。しかし、「いっしょに」と言ってもらうと、自分は独りぼっちじゃない、見捨てられていないと感じて、少しは頑張れそうな気がしてくるから不思議だ。

 良い親は「こうしなさい」「ああしちゃいけない」と模範を示しながら、「いっしょにやってみよう」「お母さんも我慢するから、あなたも守ってね」と、いっしょの低い目線で励ます。良い教師は「さあ、ここまでこい」と目標を示したり、「何でそんなことをしたんだ」と反省を促しながら、一方「いっしょに学ぼう」「おれも背負うから、お前も頑張れ」と励ます。共に汗を流す。

 たぶん人間は、いっしょにいるように造られているし、いっしょにいるときが一番うれしくなるように定められているのだろう。旧約聖書の創世記には、神は始め一人の人間を創造したが、やがて「人が独りでいるのはよくない。彼に合う助け手をつくろう」と言って、もう一人の人間を創造し、二人をいっしょにいるようにしたとある。

 つまり、「他者」とは、「いっしょにいるべき助け手」なのだ。いっしょにいてもちっとも助けてくれない、と感じることもあるかもしれないが、いっしょにいること自体が、すでに助けなのだ、ということである。独りでいることはそれ自体がすでによくないのだ。この世で、他者から言われて最もうれしい言葉の一つは、間違いなく「あなたといっしょにいたい」だと思う。 
 聖書にはイエスの別名として、「インマヌエル」という名が記されている。これは、「神はわれわれとともにおられる」という意味である。ともかく神は、どうしても、あなたといっしょにいたいのである。それは神の愛から出てくる必然である。

愛の実践手帳

2014-06-27 07:56:34 | 牧師室だより

牧師室だより 2014年6月22日 愛の実践手帳

 愛の行動を実践して「愛の種まき」を続けよう!という活動を展開している陣内俊さん(「声なき者の友」の輪メンバー)が提唱する「愛の行動の3ステップ」。それは、「1週間にひとつ、自分の周りにいる人々の必要を見つけ、その必要に応答するための具体的行動を計画し、それを実行する」こと、だという。大変興味深く、教えられることも多かったので、紹介したい。 
 ステップ1は「周りにいる人々の必要を見つけよう」だ。そのためのキーワードは「関心・観察力・想像力」。さあ、身近にいる人々に関心を向け、観察し、もし自分がその人の立場だったらどう感じるだろう?どうして欲しいだろう?そのように想像してみよう。

 ステップ2は「必要に応答するための、最も小さな行動を計画する」。ここでのキーワードは「創造性」「最小」「手帳に書く」。時間やお金がないという「言い訳」から解放されて、自分ができることはなにか、創造してみること。次に、この必要に応答するために自分に出来る、最も小さな行動は何だろう?と考えることが大事。私たちは大きなことを考え過ぎ、完璧を目指すあまり、結局何もしない、ということがあまりにも多いのではないだろうか。「小さな親切運動」に似ているか。小さいことを考えよう。

 創造性を発揮し、必要に応答する小さな「種まき行動」を計画したら、それを手帳に書き込もう。隣人を愛する行動は、手帳に書かなければ、それを実行する可能性は著しく低いものになってしまう。例えば、自分の歯が痛くて歯医者にいかなければさらに痛くなるが、おばあちゃんを歯医者に連れていくのを忘れても自分の歯は痛くならない。他人事になる。そこで大事なのは、愛の種まきの内容と日付を、具体的に手帳に書いてみることだ。私はこの提唱に大変感心させられた。さっそく、新しい小さな手帳を買って、「愛の実践手帳」を作った。「愛の実践」に限らず、メモをとることは実践力を高める。

 ステップ3は「実行する」だが、紙幅がないので割愛。興味・関心のある方は、「声なき者の友」の輪を検索して見てください。

自分らしく生きる

2014-06-27 07:52:04 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2014年6月15日 伝道礼拝宣教 杉野省治牧師

 「自分らしく生きる」 マタイによる福音書25章14-30節

 タラントンのたとえ話は、ある主人が僕たちに自分の財産を預けて旅に出たという話。主人は自分の財産を、信頼できる家族・親族や友人にではなく、自分の僕たちに預けた。人間はどこまで信用できるのか。金銭をめぐって、信頼が裏切られることはよくあることだ。このたとえ話は主人が主なる神で、僕が私たち人間であると理解するなら、神は信用できるかどうかも分からない私たちに、それでも信頼して大切な財産を預けたということになる。これが神の愛というものではないか。我が子をどこまでも愛して信頼する親心に似ていると言えるだろう。
 
 このたとえ話では、僕に預けられた財産には、5,2,1タラントンという違いがあった。今のはやり言葉で言えば、それは格差社会を認めているということになり、差別があると批判する人があるかもしれない。しかし神は人間一人ひとり個性がある者として創造し、自由に、その人らしく生きることを良しとされたのではないか。十人十色である。
 
 パウロはこう記している。「神は教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、……皆が使徒であろうか。皆が預言者であろうか。……あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい」(第一コリント12:28-31)。人それぞれの能力に応じ、その立場に立って、愛をもって生きなさいと勧めている。
 
 人と比べて自分を評価したり、同じでなければ不公平だという考え方は、聖書的ではない。人みな違っている。しかし、一人ひとりが価値と使命と責任をもって生きる。そして愛に生きることが最も大切だと教えている。ナンバーワンよりオンリーワン。
 
 このたとえ話では、主人の財産を預かった僕たちのうち、5タラントンを預かった人は働いて別に5タラントンを儲けて10タラントンにし、2タラントン預った人も2タラントンを儲けて4タラントンにしたとある。しかし、この二人に対する主人の言葉は、まったく同じであり、一字一句違っていない。「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。」(25:21,23)
 
 主人は儲けた金額によって僕を誉めているのではない。5タラントン預った僕が5タラントンにふさわしく生き、2タラントン預った僕が2タラントンにふさわしく生きた、そのことを主は良しとされて、同じ言葉で誉めている。「忠実であった」ということにおいて、同じ。良しとされている。
 
 私たちの社会では地位や知名度や収入の高さによって人が評価される。嫌な表現だが、勝ち組・負け組と区別される。しかし、聖書の見方は違っている。人はそれぞれ自分の道を生きること、精一杯に生き抜くことが求められている。神の前に忠実に生きることである。金額ではない。成績ではない。

 タラントンのたとえ話は、あなたの人生の主は神であり、この神の守りと信頼の中で、この世を自分の力に応じて、忠実に仕えて生きることを勧めている。私たちは歴史の主である神の前に、預けられ、託されたタラントン(才能)を生かしていきたいものである。そのためにも、人生の主を「わたし」から「神」におきかえる歩み、そこに「信仰」による生、今日のテーマである「自分らしく生きる」人生が始まる。

日本語は難しい

2014-06-16 12:06:56 | 牧師室だより

牧師室だより 2014年6月15日 日本語は難しい

 日本語には同音異義語(同じ音読みで、意味が違う熟語)が多くある。「医療」と「衣料」、「信仰」と「侵攻」、「園芸」と「演芸」などは聞き違えると話が通じないことがあるが、これらはまだ話の前後の文脈でまず間違えることはない。

 しかし、意味の区別がつきにくい同音異義語も多くある。例えば、「以外」と「意外」、「異常」と「異状」、「保障」と「保証」、「清算」と「精算」。違いが分かりますか?難しいですね。「以外」はそれよりほか、「意外」は思いのほか。「異常」は普通でないこと、「異状」は普通と違う状態。それでは「いじょうなし」と書く場合どちらを書くでしょうか?「保障」は安全をうけあう、「保証」は確かさをうけあう。「清算」は始末をつけること、「精算」は計算をし直すこと。

 日本語の難しさはまだある。たとえば、川端康成がノーベル文学賞を受けた時の記念講演の題は「美しい日本の私」でした。「美しい」が「私」ではなく「日本」にかかると解釈するのは、自分をほめるはずはないという日本人の社会通念からであって、そう解釈するのが一般的であろう。しかし文法的には「美しい」のは「私」だと解釈できる。まあ、そんな人はいないでしょうが……。しかし「私」でなく「女性」であれば、「美しい」は「女性」にかかると多くの人は解釈するだろう。

 日本語の難しさはまだある。「私が好きな人」は二つの意味に読み取れる。文字どおり「私が」「好きな人」と、「私」のことを「好きな人」とも読み取れる。「娘の写真」も幾通りも解せる。「娘」が撮影した「写真」、「娘」の所有する「写真」、「娘」が写っている「写真」。う~ん、なるほど。

 聖書にも同じような例が多くある。有名なのが「信仰義認論」の重要な聖句「イエス・キリストの信仰(ギリシア語直訳)」(ローマ3:22)である。「の」を主格的にとって「イエスがもっていた信仰」とするか、対格的に取って「イエス・キリストへの(に対する)信仰とするかは論争されている。あなたはどちら?

 *朝日新聞2014年6月7日土曜版のコラム記事を参照。






キリストは教会の土台

2014-06-12 15:38:06 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2014年6月8日 ペンテコステ礼拝宣教 杉野省治牧師
 
 「キリストは教会の土台」 コリントの信徒への手紙一3章10-23節
 
 パウロは教会のことを様々な言葉で表現している。ここでは、「わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました」と言っている。そして自分を建築家、教会を建物にたとえている。この建物で要となるのはイエス・キリストという土台である。

 パウロはここで、「神からいただいた恵みによって……土台を据えた」と言っている。教会は神の恵みによって建てられるということが良く分かる。私たちは自分で何かを始めたとしても、そこには神の恵みがあってのこと。そのことを忘れないで、常に神にご栄光をおかえししたい。
 
 次に問題となるのは、この土台の上にどのような素材を用いて家を建てるのかである。パウロは、たとえとして、金、銀、宝石、木、草、わらの六つをあげている。それは、教会を建てるために働く奉仕者の働きの多様性とその価値を示している。さらに、それぞれの働きが試され、真価を問われる日が来ると言っている。
 
 パウロはその話を何のためにしているのだろうか。問題の核心は次にある。パウロは、「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」(16節)と、多少の皮肉を込めて教えている。ここで「あなたがた」とは個々人ではなく、教会を指す。その教会は神の霊の住みたもう神殿、聖なるものである、ということ、これこそ決定的に重要なことだ、と言うのである。
 
 今日はペンテコステ。教会の誕生日と言われている。教会の誕生の歴史的出来事(使徒言行録2章参照)からも分かるように、教会は神の霊が住んでいるところだと言うのもうなずける。それは、同時に教会を形作る私たち一人ひとりが全存在を持ってつくる教会だと言っているわけである。多くの宗教が、とかく多額のお金をかけて大神殿を建てる。しかし、本来のキリスト教会は、そのような大神殿を建てる必要を知らない。私たちが神殿だからである。私たちの体と別のところに神の霊が祀られている神殿があるのではない。私たちのからだが宮。もちろん私たちの魂もそう。魂と体を持ってつくっている私たちの全存在が神殿である。
 
 だから、私たちが自分自身を損なうようなことをする時、それは、キリストに罪を犯すことを意味する。唯一の救いであり、この方以外に望みを持つことを知らない方に対する罪を犯す。このことをよくわきまえるということはとても大切なことである。教会の土台はイエス・キリストだということを忘れるな、ということ。教会は、そのように具体的に、ただ一人の救い主である方と共に生き、その方のために生きる。そこに私たちが、まことに深く、親しく主イエス・キリストと一つになって生きる道があるのである。
 
 そのために、いやだからこそ、私たちは、教会に住みたもう神の霊、聖霊に満たされるよう、また生き生きと聖霊が働かれることを祈り求めなければならない。聖霊よ、来たりませ。

領収書の祈り

2014-06-10 16:27:50 | 牧師室だより

牧師室だより 2014年6月8日 領収書の祈り

 請求書の祈りから、領収書の祈りへ。何のことか分かりますか?アサヒビールの会長さんだった樋口廣太郎さんは、ある本の中で、次のようなことを書いています。樋口さんはクリスチャンですが、神に祈る時に、「~してください」「~をください」というお願いの祈りを一度もしたことがないそうです。

 聖書には、祈りは、祈った時に神によって必ずかなうと書かれています(ヨハネ一3章22節、5章14節参照)。樋口さんはその神の約束を確信し、ただ感謝の祈りをしたそうです。いわゆる「請求書」の祈りではなく、「領収書」の祈りです。「お願い」の祈りではなく「感謝」の祈りです。
 
 彼がアサヒビールに来た時、市場でのシェアは一ケタで、会社は潰れる寸前でした。そこで、取引銀行から再建のために送られてきたのが樋口さんだったのです。その時、彼がどう祈ったか。「神さま、どうか私をライオンにしてください。なぜなら、キリンを食い殺したいからです」とは祈りませんでした。「神さま、シェアが一番になりました。これで従業員もその家族も喜び、またそれを飲んでくれる人も喜んでくれます。ありがとうございました」と「領収書」の祈りをし続けたといいます。私なら「シェアを一番にしてください」と祈るところです。

 なかなかできることではありませんが、信仰の根幹にかかわる真実を表わしています。領収書の祈りは、イエスさまもされています。死んだラザロをよみがえらせた時の祈りです。イエスさまは墓の前に立ち、「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します」(ヨハネ福音書11章41節)。願い事が本当にかなう前に感謝しています。

 私たちの信仰生活は感謝する祈りが大切です。すでに恵みをいただいてもいるのですから(恵みの先行)。まず感謝してみよう。そうした祈りを重ねていくと、きっと違った景色が見えてくるはずです。不安や悩みの中にあって喜びと希望がわいてきます。

 *『聖書力』(中野雄一郎著 いのちのことば社 2011) 56-57p参照