平塚にあるキリスト教会 平塚バプテスト教会 

神奈川県平塚市にあるプロテスタントのキリスト教会です。牧師によるキリスト教や湘南地域情報、世相のつれづれ日記です。

信仰によって生きるとは

2018-01-30 18:05:30 | 説教要旨

<先週の説教要旨>2018年1月28日 主日礼拝 杉野省治牧師
「信仰によって生きるとは」 コリントの信徒への手紙二 4章7-15節

 この聖書箇所には、神を信じる者の生きる姿が描かれている。この手紙を書いたパウロは8-9節で次のように言っている。「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。」
 
 ということは、逆に考えれば、神を信じるから苦労しないとか、生活が楽になるとか、そういうことは言われていない。あるいは信仰を持っているから物事がうまく運ぶとか、成功するとか、そういうことも言われていない。おそらくここで書かれていることはすべて、パウロ自身が経験してきたことだろうし、今も経験していることだろうと思う。信仰を持って、つまりイエス・キリストを信じてずっと生きてきた。しかし、四方から苦しめられる経験をする、人から虐げられる経験をする。あるいは途方に暮れる、道が見えなくなってしまう、これからどう進んでいいかわからなくなってしまう。
 
 その中でパウロはこう言っているのである。四方から苦しめられても行き詰まらない。道が全く見えなくなって途方に暮れることがあるけれども、それでも失望しない。あるいは人々から虐げられる、ひどい目に遭う。しかしそれでも自分が見捨てられないのだ、と彼は言うのである。打ち倒されても自分は底力によって立ち上がるというのではない。打ち倒されるのである。しかし滅びない、と彼は言う。打ち倒されても滅びないというのは、神が自分を滅ぼされないという意味である。つまり、絶体絶命の中で、しかし滅ぼされはしない。追い詰められてしまうけれども、しかしそこで終わらない。そこで生きるというのである。
 
 人は誰でも普通、追い詰められたらもうおしまいだと思う。自分の力で頑張ってきたけれども、もう立てなくなって、打ち倒されてしまったら、それで終わりだと思う。そして、それが自分の運命か、あるいは宿命なのか考え、諦める。しかし、神を信じる者は、まさにその状況の中で生きる、とパウロはここで言うのである。つまり、そのどん詰まりの場所で、神を信じる者は生きるのである。虐げられて弱り果てている。しかし見捨てられはしない。神に見捨てられてはいない、とパウロは言う。それが彼の支え、だから彼はそこで生きる。
 
 詩編の46編2節にこういう言葉がある。「苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。」 神は私たちが苦難の中にいる時に、私たちを天から見守っておられるというのではない。苦難の中に必ずそこにいまして助けてくださる。だから私たちは苦難の中で生きられるのである。神が共にいてくださるから。それが、イエス・キリストの約束。神が、この私たち罪人と一緒にその場所にいてくださる。四方がふさがっても、逃げ道がもう何も見えなくなったとしても、そこで呼吸ができる。生きる道がある。あるいは、生きる道がそこに生まれる。必ずそこにいまして私たち助けてくださる。パウロは「死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために」と書いている。
 
 死ぬはずのこの身に、終わるはずのその場所に、イエスの命は現れる。行き詰ったところで死なず、倒れたところが終わりではなく、そこで神と出会い、交わり、そこで生きる、生かされる。そこが私たちの生きていく原点になる。追い詰められたその場所が、私たちが倒れたその場所が、私たちが生きていく原点になる。新たな出発点となる。より深い恵みの世界への出口となる。
 
 信仰によって生きるって、なんと素晴らしいことだろう。信仰に生きるって、なんて恵みに満ちあふれていることだろう。この恵みに感謝しつつ、歩んでいこう。

執事さんのために祈り支えましょう

2018-01-29 12:12:59 | 牧師室だより

牧師室だより 2018年1月28日 執事さんのために祈り支えましょう

 先週の臨時(執事選挙)総会で、5名の執事が再選されました。選んでおしまいではなく、これからが本番です。執事の働きは教会の要です。その大切な執事の働きについて理解を深め、祈り支えていきましょう。

 『執事/役員と牧師の協働』(日本バプテスト連盟宣教部 2007)に次のように書かれています(34p)。「執事は牧師の協働者であり、教会員の模範であることが期待されています。どういう人が執事に選ばれるかは、教会の最重要課題です。執事を見ればその教会がわかると言われたりします。選ばれた執事たちに、その方々を選んだ教会員の選任基準や伝道・教会形成の姿勢が見えてくるからです」。

 聖書では、教会の「執事」はディアコノス(ローマ16:1他)の訳で、もともとは動詞ディアコネオー(給仕する、仕える、奉仕する、世話する、助けるなどの意)に由来します。一言で言えば、執事とは伝道・教会形成のために神と人とに仕える奉仕であり、その模範は「わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である」(ルカ22:27)と言われた主イエスです。伝統的には、ステファノはじめ7名の人々(使徒言行録6:1以下)が執事の始まりだといわれています。

 以前にも書きましたが、もとより牧師も執事もいつでも途上にしかありません。大切なことはどこを向いて歩んでいるかでしょう。誰のために奉仕をするかです。「そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい」(コロサイ3:17)。執事に限らず、私たちの奉仕は、常に頭なるキリストにしっかり結びついたものでありたいと思います。

 執事の働きは祈りなしには出来ません。ですから教会の皆さんが祈り支えることが本当に大切であり、必要です。「牧師だから、執事だから、ああしてほしい、これをしていない」という見方ではなく、真心からの祈りと具体的な支えが求められます。教会が信頼して立てた人々が十分に神のご用を果たせるよう、教会全体で祈り支えましょう。

愛の広さ、長さ、高さ、深さ

2018-01-23 11:43:00 | 説教要旨

<先週の説教要旨>2018年1月21日 主日礼拝 杉野省治牧師
「愛の広さ、長さ、高さ、深さ」 詩編23篇

 この23篇は、何千年もの間、貧しさ、不安、あるいは戸惑い、どうしようもない行き詰まりの中にあった人たちに、大きな力を持って臨み、励ましてきた。それはこの歌が、乏しい中で主に養われ、渇いているときに憩いのみぎわにともなわれた経験を通して「主がそれをなしてくださった」と告白しているからである。そしてそれが私たちの希望であり、信仰の立ち所なのであることを教えてくれる。

 羊飼いである主は私に青草を豊かに与え、命の水に導かれる。穏やかで何不自由ない営みが繰り広げられているかのような光景である。しかしながら、生きていることが平穏無事に守られている以上に、人は生きるための命をどのように養われているかの確認の歌でもあることに気付かされる。「主はわたしを……」「あなたがわたしを……」「あなたはわたしに……」というように、この詩人は告白している。生きるための命を養ってくださるのは、羊飼いであるお方、主であると告白しているのである。

 主イエスも言われた。「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ10:11)。激しいまでの過酷な労働を伴うのが羊飼いであり、ついには一匹のために命を捨てるのが羊飼いであるなら、私たちの命のためにどれほどの代償が払われているかをあらためて見つめ直してよいのではないか。命の育みのためには、目に見えないところで羊飼いとしての主なるお方の働きがあることを覚えねばならない。

 親が子に対して、どれだけの代償を払い、子どもの気づかないところでいろいろな世話をし、養育してくれたか、子どもは何も知らず、気づかずに過ごしていることがあるが、そのことを思わせられる。ことわざに「親の恩、子知らず」とある。 「神の恵み、人知らず」ではないか。

 私たちは教会生活、信仰生活の中で、ともすると無気力さに陥ることがある。礼拝に出ても単に守るべきものとして出ているだけで、そこには何の喜びも力も感じない。また、どんなに聖書のことを知っていても、知っていることからは本当の信仰のメッセージ、力は湧いてこない。

 信仰は気づかなければならない。しかし、気づかせてくださるのは聖霊の働きである。気づいて、「ああ、そうだったのか」とあらためて確認し、新しく主と出会う。出会って、そこで、「主はわたしに……」と言って告白し、そして神に望みを置くという、そこに立つことが大事。

 そういう意味で主に出会った人々が、何千年もの間、この詩篇を読むたびに、心の中でアーメン、アーメンと唱えながら、この詩篇を歌い続けたということは、なんとすばらしいことだろうか。

 5節にあるように、私たちは「主の食卓」に招かれている。そして主はいつもあふれるばかりの恵みと慈しみを与えてくださっているのである。いや、追いかけてまで、私たちに恵みと慈しみを与えてくださるのだ(6節)。これにまさる喜び、感謝はない。今朝も主は私たちに呼びかけておられる。招いておられる。





力を抜くこと

2018-01-23 10:37:55 | 牧師室だより

牧師室だより 2018年1月21日 力を抜くこと

 朝日新聞(1月14日)の「加藤登紀子のひらり一言」に「力を抜くことに、力を入れましょう‼」とあった。思わず膝を打った。言いえて妙。力を抜くのに力を入れる。矛盾したことだが加藤登紀子は次のように言っている。「冗談言ってるんじゃないのよ、これ整体の先生のセリフ。そう、力抜くことさえ出来れば、全部うまくいくのよ。それで体幹も鍛えられる!」。

 これって、生き方にも当てはまる。いつも全力投球じゃ、疲れていつかポキリと折れてしまう。付き合う方だって(例えば家族や友人、同僚など)疲れて付き合いきれない。昔20代の頃、校長に言われた。「杉野先生はいつも直球勝負の全力投球だね。時にはカーブを投げることを覚えなさい」。直球の全力投球がカッコいいと信じ込んでいた私。でもいつもそれでは相手の生徒は疲れてしまう。静かに聞いているようだが、実は聞き流すようになる、というわけだ。また。若い時はいいが、年を取ると直球だけでは勝負にならなくなる。校長の一言にハッとして、そんなことを気づかされた。それからは、生活に仕事にメリハリをつけることを意識するようになった。

 力を抜く、リラックスする。時には休みが必要だ。しかし、この休みをうまく休めない人がいる。本気で(力を入れて)休めない、遊べない人のことだ。リフレッシュできていない。次に備えて鋭気を養うためには思いっきり遊んだり、趣味を楽しんだり、息抜きをちゃんと考えて行うことだ。呼吸と同じ。思い切り息を抜く(息を吐く)と次は自然と(気張らないでも)息は入ってくる。よくしたものだ。

 日本では昔から「ハレ」と「ケ」ということを言った。「ハレ」は 儀礼や祭、年中行事などの「非日常」、「ケ」は普段の生活である「日常」を表している。ハレの日はごちそうや酒を飲み、晴れ着を着たりして、日常とけじめをつけていた。信仰生活でいうならば、日曜日に日常の生活から離れて教会へ行き礼拝を守る。そして日常の生活へと帰って行く。この一週間のリズムは、長い人生において、メリハリというかケジメがついて有益だろう。だらだらと流されないために。

日々死に、日々生きる

2018-01-16 11:46:56 | 説教要旨
 
<先週の説教要旨>2018年1月14日 主日礼拝 杉野省治牧師
「日々死に、日々生きる」 コリントの信徒への手紙一15章29-34節

 この手紙を書いたのはパウロだが、彼はここで「わたしは日々死んでいます」と言っている。これはもちろん本当に死んでいるという意味ではなくて、たとえて言っている。つまり、日々死ぬということは、自分を捨てているという意味にとれるし、あるいは自分を何かに委ねている、というふうに読むことができると思う。

 普通、誰でもそうだが、自分の力で一生懸命、道を切り開きながら頑張って生きている。信仰を持つ前にはパウロもそうだった。しかし、今彼はそうではない。日々死んでいると言っている。自力では生きていないという。それは、赤ん坊が、母親の両腕に抱っこされて、ぐっすり眠っている状態に似ていると思う。つまり自分を守ってくれる、支えてくれる存在、母親を信じているから赤ちゃんは安心して眠っているのだ。自分で周囲の危険や敵から守るため目を覚まして身構えているというのではない。よく見れば危険はあるだろう。しかし、そんなことに対して身構えているということではない。むろん力も能力も持ち合わせてはいない。ただ自分を守っていてくれる、自分と一緒にいてくれる者への絶大な信頼において生きている。信仰というものはそういうものではないか。

 この後にこう書いてある。「単に人間的な動機からエフェソで野獣と戦ったとしたら、わたしに何の得があったでしょう」。パウロはエフェソに伝道した時に大変な迫害に遭った。訳のわからない大勢の群衆が、パウロに追い迫るという出来事があった。神殿の銀細工人達がパウロの伝道に大変腹を立てて、このままでは自分たちの仕事が成り立たなくなると言って暴動を起こしたと書いてある。パウロはそのことを「野獣と戦った」とたとえて言っているのだろう。

 私たちの人生には自分である程度処理できることもあると思う。しかし、処理できない力、例えば自然の力だとか、どうしようもない大きな力を持った敵、例えば死など、そういうことや状況が現実にある。パウロが野獣と戦ったみたいに、私たちの力や知恵では処理できない大きな力、大きな闇というものがあって、その大きな闇に取り囲まれて私たちの命があるのではないか。その時に私たちは弱さを感じるし、自分自身の限界を思い知らされる。なんて自分は無力なのだろうと考えさせられる。ちょうど小さな子どもが暗闇の中で急に目が覚めて、不安になり怖くなって、泣き出して、そして叫ぶように、人間の命は圧倒的な闇の中にあるのだ、ということを誰もがどこかで思い知らされる。堂々と自分の力で何もかも突破して生きていく、そんなことはできない。

 「日々死んでいる」とパウロは言う。これは自分を捨てているという意味であり、同時に、自分を何かにまかせているという意味だと思う。それが信仰。信仰は自分が強くなって、力を蓄えて、そして様々な困難を一つひとつ突破していくというようなことではない。むしろ、神に自分をまかせることができることを知るということが信仰だろうと思う。

 イザヤ書30章15節に有名な言葉がある。「お前たちは立ち返って/静かにしているならば救われる。/安らかに信頼していることにこそ力がある」。神に信頼する。それが信仰、信じる者の力である。あるいは信じる者の強さである。自分の力で立っている、あるいは立っていると思っている人は、どこかでポキリと折れてしまう。なぜなら耐えられない風が吹いてくるからである。誰にでも、自分では耐えられない風が吹いてくる。委ねている人間は、倒れてもそこで支えられてまた起き上がる。したたかといえばしたたか、しぶといと言えばしぶとい強さである。

 パウロが「日々死んでいる」というのは、そういう意味である。そしてここでは、十字架に死んで復活されたキリストに自分をまかせているという意味である。十字架にかかり、この私の罪を贖い、罪を赦してくださったその救い主が、復活して一緒にいて下さる。その方に自分をまかせる。信頼して生きていく。

 詩編23編4節にこうある。「死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。/あなたがわたしと共にいてくださる。」 詩人はここで、災いを恐れない、と言っている。なぜなら、あなたが私と共におられるから。私の心が揺るがないから恐れないというのではない。そんなことはあり得ない。あなたがわたしと共におられるから恐れない。この場合の「あなた」とは神を指しており、同時にキリストを指している。私の罪を背負って下さった方が、私の罪を贖って下さった方が、死の陰の谷を一緒に歩いてくださるから、私は災いを恐れないというのである。私の死にはもはや災いはない。死の災いは取り除かれた。みんなそうです。つまり罪の問題を清算していただいている。そしてこの死の陰の谷は、その向こうに命につながる道になった。
 
 「日々死んでいる」という言葉は、別の言葉でいえば、そういうふうにして日々生きているということ。神に委ねて、私は日々死に、そして日々生きているのである。その信仰の道を歩んでいきたい。



駅伝の苦い思い出

2018-01-16 11:13:54 | 牧師室だより

牧師室だより 2018年1月14日 駅伝の苦い思い出

 今年も孫二人を連れて、箱根駅伝の応援に行ってきた。すごい人気で毎年大勢の人が応援に駆け付けている。応援の旗をもらって、ただガンバレ、ガ
ンバレと声援を送るだけであるがこちらも元気をもらうから不思議。帰り道あるおばあちゃんが、今年も応援に来られてよかったね、と嬉しそうに話し
ていた。孫たちは帰宅してから今度はテレビの前で旗を振りながらガンバレガンバレとやっている。

 応援場所は往路3区の平塚中継地まで2キロ弱の134号線の八間通り入口付近である。たいていの選手は20キロ近く走っているので苦しそうに、それでも最後の力を振り絞って走り抜けていく。そんな姿を見ていると、かつて中学・高校で走った駅伝を思い出す。それも苦い思い出。

 中学2年の市内新人駅伝。最終区の私は、なんとコースを間違え、追い抜かれて入賞を逃してしまったのだ。2月の寒い時期、山口では珍しく前日
に大雪。当日雪はやみ、行われることになった。例年、コースの曲がり角には石灰の白線が引いてあり、道を間違えることはない。しかし、私の区間は
郊外の田んぼのあぜ道を走る。雪は残り、道は真っ白。白線は積もった雪の下に消えていた。ゴールを目指して走っていた私は広い田んぼの十字路で迷
って間違えたのである。しばらくすると応援の友だちが「杉野、こっち、こっち」と遠くから叫んでいるではないか。しまったと思ったが後の祭り。

 閉会式に集まってきた仲間はみんな下を向いて何も話さない。私を責めるわけでなく、かといって慰めてくれるわけでもない。ただみんな悔しかったの
だと思う。最後まで何を話すでもなく、その日は別れた。翌日から何事もなかったようにまた一緒に練習に励んだ。私はその無言という仲間の態度に救
われた気がした。

 そんなこともあってか、3年になってから、今度こそは入賞をと団結して練習に励んだ。結果、3年生にとっては最終で最大の駅伝大会に2位入賞した。失敗から多くのことを学んだ。3年間苦楽を共にしたと言っていい7人の同級生は私の人生の宝の一つである。