平塚にあるキリスト教会 平塚バプテスト教会 

神奈川県平塚市にあるプロテスタントのキリスト教会です。牧師によるキリスト教や湘南地域情報、世相のつれづれ日記です。

ストレス対処法の気晴らし

2016-12-27 14:31:31 | 牧師室だより

牧師室だより 2016年12月25日 ストレス対処法の気晴らし

 現代はストレス社会だといわれている。大人だけではなく、子どももストレスを抱えている。キレる、という言葉が日常会話の中で頻繁に出てくる。ストレスの原因については他日に譲り、今日はその対処法について考えてみたい。書店に行くとストレス対処関連の本がたくさん並んでいる。そんな本を買って読むこと自体がストレスだ、というような笑い話にならないように、気軽な対処法はないだろうか。それは「気晴らし」。

 気晴らしはなるべくささやかで、しょうもないほどよい。北九州にいた頃、所用である牧師を訪ねたら、教会の庭でしゃがんで何かしている。雑草取りでもない、苗を植えているのでもない。「何してるの」と聞くと、「土いじりだ」と言う。私はその時、「しょうもないことをして、よほど暇なのか」と思ったのだが、その牧師曰く、「ストレス解消だよ」と。そう、手軽でささやかでしょうもないほどよい。

 たとえば、星を見る、石を拾う、散歩する、テレビのドラマを見る、音楽を聴く、料理をする、映画を観る、お風呂場で鼻歌を歌う、友人とおしゃべりをする、本を読む、好きなお菓子を食べる、スーパーで買い物をする、ペットをかわいがる、お気に入りの服を着る、おしゃれする、スポーツをする、観る、花に水をやる……。じつにいろいろある。

 大事なのはたくさんの気晴らし法を持っていることだ。たくさん持っていると、どこでも小刻みにそれらのどれかを使うことができ、ストレスをためないですむ。散歩好きな人は雨が降ればできなくなるが、その時は室内でストレッチ体操をして気晴らしをするという具合に。

 さて、私の気晴らしはというと、銭湯や温泉に行く、新聞や本を読む、おいしいコーヒーを飲む、散歩する、夜お気に入りのテレビ番組を見る、本屋で立ち読み、ストレッチ体操、夕食にビールを飲む、落語を聞くなど。皆さんはどんなことでしょう。

 *『人生の後半戦とメンタルヘルス』(藤掛明 キリスト新聞社 2016)を参考にしました。

水について考える

2016-12-20 06:59:51 | 牧師室だより

牧師室だより 2016年12月18日 水について考える

 水について考えることは生きることについて考えることになる。日本では昔から、生まれた時に産湯をつかい、死に際には末期の水が与えられるように、人の一生は水に始まり、水に終わるといってもいいだろう。

 いうまでもなく水は人間が生きていく上で必要不可欠である。特に災害時には、まず困るのは「水」と「トイレ」だと言われている。トイレはいざとなれば工夫して簡易トイレなど作れるが、水(特に飲み水)はそうはいかない。

 水資源の豊富な日本では、日常生活で水飢饉という実感を覚えることは少ないが、世界では深刻な水不足で命を落とす人たちが大勢いる。栄養不足で飢えに苦しむ人々の数は世界で8億人以上といわれているが、それと密接な関係があるのが水の問題であると言われている。現在、開発途上国を中心に世界の3分の1が水不足の状態にあり、12億の人が安全な水を手に入れることができないでいる。そのため、水に関する病気で毎年200万人もの子どもが命を落としている(国際飢餓対策機構の資料より)。

 ペシャワール会の中村哲医師からの報告もそのことを裏付ける。「私たちの現地活動は、いよいよ核心に迫ってきました。医療から飲み水へ、そして更に灌漑計画を進めて農業=食糧増産へと発展しましたが、決して唐突な変身ではありません。干ばつという追いつめられた状況で、病と抗争の背後には、清潔な飲み水と食糧の不足があるからです」(ペシャワール会報№76)。

 日本の食糧自給率は40%、そのため世界最大の農産物輸入国である。それらを輸入することは、その生産に必要な「農業用水」を間接的に輸入していることになる。たとえば穀物1トンの輸入は水・約1000トンの輸入に相当し、これらを年間で試算すると、日本の生活用水の2.7倍にあたると言われる。このように、食物の輸入を通して、私たちは世界の水問題と密接に関係している。世界の水問題は日本の私たちの問題でもある。目先の儲けや安さ、美味しさに目を奪われることなく、共に生きる地球人として資源を大切にしたい。

教会堂を飾るクリスマス・イルミネーション

2016-12-15 10:51:19 | 教会行事
今年もクリスマスの時期を迎えました。
この時期のことをアドベント、待降節と言います。
救い主、イエス・キリストのご降誕を待ち望む時です。
クリスマスツリーやクリスマスクランツ(王冠をかとどった飾り物)など
飾りつけを始めます。イルミネーションもその一つ。
米国ではもう一つ大変な作業があります。それは、家族や知人に贈る
プレゼントの買い物です。みんな楽しみだけど、選ぶのに悩むそうです。

サンタの贈り物

2016-12-12 07:21:40 | 牧師室だより

牧師室だより 2016年12月11日 サンタの贈り物

 今まで何度もサンタさんになったことがある。恥ずかしがり屋の私が喜んでできたのは、正体が分からないという前提があったからだ。少しものの分かった小学生が「あのサンタは誰々だよ」と言って正体を暴こうとしても、私はサンタ役をやり通すことに喜びを感じたものだ。

 別室で扮装し、合図で子どもたちのいる部屋へ向かう。「ホーッ、ホーッ、ホー」(トナカイを御するためのかけ声)と叫び、そして「よい子の皆さ~ん」と言って、子どもたち一人ひとりにプレゼントを渡していく。照れる顔、興奮した顔、喜びにあふれた顔、顔。口々に「ありがとう」と言うお礼の言葉を聞きながら、何ともいえないすがすがしい喜びに満たされたのである。その喜びは正体のばれない、匿名で贈る喜び、すなわち「お返しのできないプレゼント」を贈る喜びであった。

 一方、私たちの贈り物には、残念だがいつも小さな打算が忍び込んでいる。「お世話になりました」と贈るお歳暮も、「結婚してください」と渡す指輪も、「いい子にしていたら」と条件付きのクリスマスプレゼントも、実は「もっと愛して」「もっと言うことを聞いて」という本音の隠された、いわばある種の取引を含んでいる。取引と言わないまでも、人間関係をよくしたいという潤滑油の役割は期待しているだろう。

 サンタ・クロースのモデルになったのは、貧しい子どもたちの家へ匿名で金品を投げ込み続けた司教、聖ニコラウスである。この逸話がやがてクリスマスのシンボルとなっていったのは、ある意味で必然のことだ。

 クリスマスとは、神が人間に無償かつ無条件で一方的に贈り物をした記念日だからだ。神は無償かつ無条件で何の見返りも求めず、この世界に救い主(メシア=キリスト)という贈り物を下さったのである。それはすべての人に贈られる。

 今年のクリスマス、自分ができる「お返しのできないプレゼント」は何かを考えて、誰かのために、そっとサンタになってみませんか。「受けるよりは与える方が幸いである」(使徒言行録20:35)。

終末医療(ターミナル・ケア)

2016-12-10 16:16:24 | 牧師室だより

牧師室だより 2016年12月4日 終末医療(ターミナル・ケア)

 I姉は11月24日に日野原記念ピースハウス病院で天に召されました。ピースハウス病院は、日野原重明先生(聖路加国際病院理事長、玉川平安教会員)が日本での終末医療(ターミナル・ケア)の充実を訴え、20数年前に中井町に開院された、日本初のホスピス緩和ケアを専門とする独立型ホスピスです。その日野原先生がある本の中で、死について次のように書かれています(『日野原重明のいのちと生きがい』青春出版社 2003年 221-222頁)。

 「私たちは有限のものです。死に向かっていずれ体は衰えていきます。しかし、死を避けられないものと諦観し、終末に向かって人間として成熟していくのが人の生涯です。そして死が近づくにつれ、いろいろな雑念もとれ、自分の来し方を内省し、だんだんと謙虚な気持ちになってくる。いよいよ最期には、家族や友人に、自分なりの言葉を残す。死ということは自己実現の最後の機会といえます。しかし、死に臨んで自分の言葉を残し、最期の自己実現をして逝ける人は少ないものです」。

 そのような日本の終末医療の現実を見る時に、人間が「人間として終焉を迎えることができるように、死の備えができるようお膳立てをするのが、医療に携わる者や、宗教家の任務ではないか」とも書かれている。

 しかし、現実の日本では、今までの宗教家の怠慢もあったとは思うが、医師は死ぬまで患者を手放さず、家族や宗教家の手になかなかゆだねさせてくれない。「死の備えができるようお膳立て」をさせてくれない。その一翼の務めを家族や宗教家に任せてほしいのだが。死の備えのためには、できれば事前に患者本人が、または家族や宗教家が一緒になって、そうなるように環境づくりをし、患者に人間らしい最期が迎えられるよう努力する必要がある。

 キリスト教でいうならば、最期の時に私たちは神と人から愛されている、赦されている、そして、神の国に入ることが約束されている、その希望を持って迎えるための備えである。ピースハウス病院はそのことができた。院長が私(牧師)に「医療的な緩和ケアはしますが、心(精神)のケアは先生の方でお願いします」と言われた。I姉は亡くなる2日前に訪問した私たちに向かって、穏やかな表情で「ありがとうございました」と静かに二度繰り返して目を閉じられた。それが最後の言葉であった。医療関係者の温かいケア、友人や教会員の祈りとお世話があってこそ迎えることのできた死であったと思う。

クリスマスのご案内

2016-12-02 14:12:20 | 教会行事

クリスマスのご案内

子どもクリスマス会
12月10日(土)10:30-12:00
親御さんもどうぞ。

キャンドルサービス(イブ礼拝)
12月24日(土)19:30-20:30
ろうそくをともして、聖歌隊の賛美と聖書の朗読の礼拝です。

クリスマス礼拝
12月25日(日)11:00-12:15

イエス様のご降誕を共にお祝いしましょう。
どなたでもお出かけください。

礼拝の中で自由献金(金額は自由)があります。

今日からアドベント

2016-12-02 13:52:28 | 牧師室だより

牧師室だより 2016年11月27日 今日からアドベント

 昨今はしきりに新しいベンチャー産業を求めています。冒険的事業が必要だというのです。それにはしかしまず「冒険する心」がなければならないでしょう。

 そもそも人生には、何かしら冒険の要素があります。またそれが必要なのではないでしょうか。誰もすべて分かりきった人生を生きるのではありません。思いがけない出会いもあります。

 「冒険」とは何でしょうか。他の人がめったにしない危険なこと、スリリングなことをすることでしょうか。「冒険」という言葉には、日本語では「危険を冒す」という意味合いが確かにありますが、ベンチャーというのは、アドベンチャー(冒険)、あるいはフランス語ならアバンチュールも同じで、いずれも「来る」「やってくる」という言葉から由来しています。

 何かが来る、思いがけないことが起きる、その時新しくやってくることの中に信頼をもって入って生きる、それが冒険ということでしょう。

 今日からアドベント(待降節)です。ベンチャーもアドベンチャーもアドベントも、そしてなんとイベント(行事、事件)も語源は同じ「VEN、VENT」(来る)です。

 神が危険を冒してやって来ます。神の冒険的事業がクリスマスです。この冒険で神は御子の尊い血を流しました。私たち人間の冒険はこの神に応えるものです。神を信頼し、その摂理に信頼して成り立つのです。

 現代はベンチャー精神に期待していると言われますが、それは実はキリスト教精神に期待しているのではないでしょうか。神は今朝、私たちを新しく召しておられます。私たちも神の国を待望し、神を信頼して、この世の旅路を新しく出発したいと思います。「冒険する心」をもって。

 「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、我らのために救いの角を、/僕ダビデの家から起こされた。昔から聖なる預言者たちの口を通して/語られたとおりに」(ルカ福音書1:68-70)。