平塚にあるキリスト教会 平塚バプテスト教会 

神奈川県平塚市にあるプロテスタントのキリスト教会です。牧師によるキリスト教や湘南地域情報、世相のつれづれ日記です。

「共依存」から「共存在」へ

2009-12-28 17:16:01 | 牧師室だより

牧師室だより 2009年12月27日 「共依存」から「共存在」へ

 渡辺裕子先生(山形カウンセリングルーム)による「『共依存』を学ぶ」というカウンセリング講座がふじみ教会で行われた。月1回2時間の4回連続の講座。毎回、楽しみに参加した。大変有意義な学びをすることができた。

 共依存の学びの目的は、自分の人間関係の持ち方を見直してみること。そのことによって人間関係(付き合い方)が楽になること。

 「依存」といえば「アルコール依存症」が思い浮かぶが、アルコールに過度に依存することによって、自分自身の身体や人生、さらに身近な人間関係まで壊してしまうことになる。しかし、私たちはいろいろな人や物に依存して生きている。「共依存」そのものが悪いわけではない。幸福な共依存もある。たとえば恋愛関係の男女。共に相手にひきつけられ、求めあって幸せ。赤ちゃんは母親に完全に依存し安心しておっぱいを飲んでいる。母親はわが子の顔を見て喜びを感じる。

 ここでいう「共依存」とは不幸なのに離れられない関係。母親がわが子に「あなたのため」と心配し続ける(過干渉、過保護)。これは愛情という名の支配である。妻がダメ夫に対して「私がいないとダメになる」と暴力をされても世話をし続ける。世話をやくことで自己の存在、価値を確認しているにすぎない。共に「あなたのため」と言われて、また言ってやってきたのになぜか息苦しい、安らぎが感じられない。この関係はいずれ行き詰る共依存。

 共依存とは自分の問題を相手の問題にすり替えたり、相手の問題なのに、自分が解決しようとしたり、余計なお世話をしてしまうのが癖になっている状態。これを「誰の問題ですか?」「あなたの問題は何ですか?」と問うて、関係を「共存在」として一緒に生きるようにしなくてはならない。共存在として生きるためには、①非援助 ②タテ関係からヨコ関係にする ③アイメッセージで話す。アイ(私)メッセージとは「私は~思う」「私は~感じる」と言う話し方。④自分を楽しむ。

 共に生きることを今後も考えていきたい。

出来事となった神の言葉

2009-12-22 12:28:24 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2009年12月20日  杉野省治牧師

 「出来事となった神の言葉」 ルカによる福音書2章8~21節
 
 メシアの誕生は最初に羊飼いたちに告げられた。神殿の大祭司や祭司、宮殿の王侯貴族たちではなかった。羊飼いは納税の対象ではなかったので、住民登録の必要はない。羊飼いたちはいと小さき者、貧しき者の代表だった。神の使いは彼らを選んだのである。神の選びは不思議な、そして神の自由な選択である。社会的な地位や宗教的身分の高さゆえに、神の選びがあるわけではない。逆に弱さや貧しさの故に、神が選んだのでもない。強さも弱さも選びの条件ではない。それは全く神の自由な選択である。しかし、これが不思議なことだが、神は弱い者、貧しい者、いと小さき者である羊飼いを選んだのである。この不思議さは人間の判断によって合理化されてはならない。しかし、このことは私たちにとって、なんという慰め、また励ましだろうか。

 今朝の聖書個所では、羊飼いたちに大きな喜びを伝えるために御使いが「近づき」と記されている(口語訳では「現れ」)。「近づき」だから、遠くの空中に天使がいるのではない。文字通りには「近くに立つ」という意味。だから、羊飼いたちはこの喜びの知らせを遠くに聞くのではなく、まさにその知らせにぶつかるように出会うのである。大きな喜びが羊飼いたちにぶつかってくるのである。この言葉には「アタックする」という意味もある。この知らせに圧倒され、何より突き動かされる。じっとしていられない。羊飼いたちの反応がそれを示している。「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」(2:15)。御使いの知らせにぶつかって、じっとしていられない羊飼いたちは主イエスが生まれた家畜小屋の飼葉桶へと急ぐ。 

 ところで、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」(2:15)という、この「出来事」と訳されている言葉だが、丁寧に言うと、「実際に出来事として起こった言葉」である。出来事となった神の言葉である。この福音書を書いたルカが第2巻として書いた使徒言行録で、ペテロがこんな言葉を語っている。「神がイエス・キリストによって――この方こそ、すべての人の主です――平和を告げ知らせて、イスラエルの子らに送ってくださった御言葉を、あなたがたはご存じでしょう。ヨハネが洗礼を宣べ伝えた後に、ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事です」(10:36-37)。神からすべての人に与えられた平和のメッセージは、イエス・キリストによって伝えられたが、実はまた一つの出来事であった。ペテロはそのように言って、さらに、主イエスが人々を愛して生き、十字架につけられて殺され、よみがえられた出来事を語る。主イエス・キリストこそ、出来事となった神の言葉である。羊飼いたち、そして私たちは、クリスマスにこの出来事にあずかるのである。

 クリスマスこそ平和を告げる神の言葉である。平和のメッセージである。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」(2:14)。この神の御言葉が出来事となっていく。イエス・キリストを通して、神の言葉が出来事となっていく。イエス・キリストを救い主と信じる信仰を通して、平和へのメッセージを受け取り、そして平和のために働く者へと突き動かされていくのである。

日本最初のクリスマス諸説

2009-12-21 11:53:26 | 牧師室だより

牧師室だより 2009年12月20日 日本最初のクリスマス諸説

 日本最初の米国総領事タウンゼント・ハリスの日記が残されている。以下は1856(安政3)年、第13代将軍徳川家定に謁見する前日の日記の一節である。「待降節(アドベント)の第二主日である。私は祈祷書日課全部を声を出して読んだ。これはこの国において英語の聖書が読まれ、アメリカ聖公会の礼拝が初めて行われた日である。私はこのことを思って万感こもごもに至るを禁じ得ない」。宣教師ではなく、一信徒ハリスの胸に禁じ得なかった万感こそ日本伝道の原動力となったのである。
 
 もっともこの2週間あと、ハリスは一人寂しくクリスマスを祝うこととなる。しかも下田の玉泉寺というお寺で。「今日ぞ楽しきクリスマスの祝節なり。幸福なるかな、祖国にありてこの喜びの日の祝辞を交わす人々は。あわれ、余は病み、かつ一人寂しく、この牢獄のごとき所にて起居す」。

 幕府の厳重な監視下にある玉泉寺で、独りきりで祖国のクリスマスに思いを馳せながら祝ったのが、日本で最初の降誕祭であったといわれている。しかし、他説もある。それはさらにさかのぼること300年前。天文20年(1551)7月、フランシスコ・サビエルが山口で布教を始め、9月には大分へ移って行くが、サビエルが去ったあとも山口では他の司祭による布教活動がつづき、翌年、天文21年(1552)山口で、日本最初のクリスマスが祝われた。

 フロイスが著した「日本史」の第一部八章にははっきりと、山口において日本で初めて降誕祭の祝いが催されたと書かれてある。そのことは当時の弥蘇会士日本通信にのっている。曰く、「1552年の降誕祭の日に弥撤(ミサ)を歌い、良い声ではないけれどキリシタンの人たちはこれを聞いておおいに喜んだ。その日は一晩じゅう基督一代記を語り、6回弥撤(ミサ)を行い、これを行う理由を説明した」と(参考文献:「山口県史史料編中世1」)。

 それから450年、日本各地でクリスマスをみんなで盛大に祝うことができる。それはザビエルたち宣教師やハリスの独りきりのクリスマスがあってのこと。覚えておきたい。

ヨセフの信仰

2009-12-18 11:27:48 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2009年12月13日  杉野省治牧師

 「ヨセフの信仰」 マタイによる福音書1章18~25節

 昔から「生みの親と育ての親」ということが言われる。生みの父親とは「血のつながった父親」、育ての父親とは「父親の役割」を果たす人。父親の役割とは、母親が安心して子を産み、授乳できる環境を整えることである。女性がいったん妊娠をすると、女性にとって必要なのはこの父親の役割を果たす人である。そして、この父親の役割を果たす人はそれを引き受けようとする者ならば誰でも担えるということである。
ヨセフは生みの父親でないにもかかわらず、父親の役割を果たすことを引き受けたといえよう。ヨセフは最も寄る辺ない状況におかれたマリアに、「俺が父親を引き受ける。だから安心して子どもを産みなさい」と母親が安心して子どもを産み、授乳できる環境を整えてやった男なのである。ヨセフがその後も如何に誠実に、いったん引き受けたこの父親の役割を担い続けたかは誕生物語の続きを読むとよく分かる。横暴なヘロデ王が無力な幼児を次々に殺していく中で、ヨセフは幼児を抱えているがゆえに最も助けを必要としている母マリアに、体を張って安全な環境を確保し続けていく。このヨセフの誠実さは、育児中のマリアに身体的な安全ばかりか情緒的安定をもたらしたに違いない。
 
 ヨセフは明らかに「生みの親」でなかったために、最初から、「育ての親」(父親の役割)を引き受けるかどうか迫られた。そして最終的に自覚的に引き受ける決断をした。だからこそ、彼は本当の意味で「父親」になれた。このことは当時、系図がよく聖書に表れてくるように、血のつながりを異常な関心とそれに重要な価値をおいていたユダヤ社会において、「育ての親」(父親の役割)だけを引き受けようとしたヨセフの決断は、これまでないがしろにされてきた価値に光を当てた革命的な人物だとさえ思えてくる。
 
 しかし、ヨセフも最初からそのような革命性を帯びていたわけではなかった。やはり初めは血のつながりのある父になることにこだわっていた。だから、血のつながりのない子を宿したマリアを、離縁しようと思った。彼はマリアが身ごもったことにとまどい、混乱し一人で悩んでいた。口語訳では「思いめぐらしていた」(20節)とある。ヨセフのような状態を私たちも日常的に経験する。いったんこうと決断してもまだ揺らぎがあり、迷いがある。何か引き留めるものがあったり、こだわりが残っている。なかなか実行に移せない。そんな時、神の言葉が私たちに方向性を与える。

 ヨセフに新しい境地へと向かわせたのは、「インマヌエル」(神は我々と共におられる)なる神である。「共にいる」というのは、身体的な実感を持った表現。「寄り添う」とか「息づかいを感じながら」という言葉で表されるような状態ではないか。「インマヌエル」(共にいる神)は、小さい者に寄り添い、小さい者の息づかいを感じながらゆっくり歩む。「血のつながった父」になることではなく、「父親の役割」を引き受けることを選んだヨセフの革命的な行動は、このような「共にいる神」によって引き出されたのである。

 神は私たちと関係のないところに隠れているのではない。神は私たちと関係を持とうとされる。私たちと共にいて下さる。それは神の行為。私たちが神の方に接近して共にいるようになったとか、呪術的な儀礼によって神を引き寄せた、というのではない。神の方から私たちのところに来て下さるという、神の行為。だから、これら誕生の出来事一切は神から告げられることによって起こっていく。「神われらと共に」とは神の真実な行為であり、イエス・キリストにおいて起こった行為である。