平塚にあるキリスト教会 平塚バプテスト教会 

神奈川県平塚市にあるプロテスタントのキリスト教会です。牧師によるキリスト教や湘南地域情報、世相のつれづれ日記です。

遣わされて生きる その3

2014-01-30 15:30:15 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2014年1月26日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

 「遣わされて生きる その3」 詩編126編5-6節

 「遣わされて生きる」と題して、元旦礼拝と第2の主日礼拝で説教をした。今日は「その3」。

 「思考は地球規模で、実践は足元から」という言葉がある。伝道も同じである。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」(マタイ28:19‐20)という主イエスの宣教命令を覚えつつ、平塚の地にしっかり足をつけて伝道することが大切である。同時に伝道する教会へと成長していくことが求められている。教会なくして伝道なし、伝道なくして教会なしであって、この二つは表裏一体。伝道しない教会は消滅する。

 しかし、50人余りの小さな教会が平塚25万人を相手に宣教の働きをするにはあまりに小さな群れであり、非力である。しかし、主の命令は私たちの働きを通して果たされる。「私は世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる」(マタイ28:19‐20)。この主イエスの言葉こそが私たちを慰め、励まし、「疑い」を克服させ、希望を持って、伝道の業へと参与させられていく。
 
 「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」という復活の主が言われた大宣教命令。それと呼応するように心に響いてくる御言葉、「涙と共に種を蒔く人は/喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は/束ねた穂を背負い/喜びの歌をうたいながら帰ってくる」(詩篇126:5-6)。困難な道であることは承知、しかし必ずやその働きは実を結ぶ。この約束に生きる。

 「ヴ・ナロード!」(民衆の中へ!)、これは革命家たちの合言葉だった。それは私たちにとっても同じだろう。主イエスは群衆の中へ入って行き、教え、宣べ伝え、いやし、その中から個をとらえ、救い、再び群集の救いのため遣わされた。だからキリスト者も民衆の中へ入り込んでいく。そして地の塩、世の光として用いられていくことを喜びとする。仏教でいう「出世」にあたるのだろうが、民衆と哀歓を共にしつつ歩む姿勢は負けず劣らず強くあるはずだ。

 教会に人が来るのを待つだけでなく、こちらから出て行くこと。家庭に職場に学校に地域に出て、そこで御名をあがめ、証しすることこそ私たちに与えられた使命であり、願いにほかならない。「風向きを気にすれば種は蒔けない。雲行きを気にすれば刈り入れはできない」(コヘレト11:4)。風向きや雲行きばかりを気にして、御言葉の種を蒔かないでいれば、刈り入れが与えられるはずはない。
 
 教会に閉じこもり、自分のことだけに引きこもる有様を打破するのが伝道への招きである。悪しき教会安全主義は教会エゴイズムとなり、独善性と自己満足の温床となること必死である。み言葉を携え出て行こう。同時に、窓やドアを開いて新しい風を入れよう。水は流れないとよどんでくる。いつも流れる川にしよう。ガリラヤ湖の水はいつもヨルダン川へ流れ出てく。だから魚は豊富。死海は常にヨルダン川の水を受けるだけ。その死海には住む魚はいない。受けるよりも与える教会になろう。

「そーなんです」から「あっ、そうか」へ

2014-01-27 17:27:43 | 牧師室だより

牧師室だより 2014年1月26日 「そーなんです」から「あっ、そうか」へ

 人から話を聞いてもらって、相手からこちらの思いを十分に汲み取ってもらったと感じると、思わず「そーなんです」という言葉が出てしまう。すっかり自分の思いが相手に伝わって、ひとりで悩んでいた自分の傍らに、もう一人の同じ悩みを共有する存在を持ったかのような思いが湧いてきて気持ちが軽くなるのを感じるのだろう。

 相談事など、他者の悩みを聞く時には共感的理解が必要だといわれる。相手の気持ちに寄り添いながら話を聴くことを意味する。どのような気持ちでいるのかを知ってもらうと、それだけで相談者の心の中の負担は軽くなる。「そーなんです」という言葉が相談者の口から出てくるときは、共感的な理解をしてもらったという反応なのである。

 気持ちをよく分かってもらえたというステップを踏んだ相談者は、次のステップに向かって歩み出す。今までの自分と違う、新しい自分の姿を発見するのだ。そうなると、それまでの生き方と違う何かが生まれてくる。その瞬間「あっ、そうか」と言うだろう。今まで考えてもいなかった世界が自分の中にあることを発見した驚きである。「そうか。こういう生き方もあるのだ」と同じ自分の世界でありながら、今まで見えていなかったものが見えてくるのだ。

 伝道も同じではないかと思わされる。「伝道」というと、「出て行って福音を宣べ伝えることだ」とばかりに話すことに一所懸命になって、人の話を聴かない傾向がある。しかし、自ら心を開いて真摯に相手の話を傾聴して共感することから、伝道は始まるのではないだろうか。

 人が自分自身の課題に気付いて、新しい生き方を獲得するときは、上記に書いたように、共感的理解と自己洞察を得たときである。そのとき人は思わず「そーなんです」と言い、「あっ、そうか」とうなずく。伝道は傾聴から始めよう。

 *『気持ち整理&生き方発見』(賀来周一著)102-104p一部引用。

主よ、憐れんでください

2014-01-21 09:15:42 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2014年1月19日 新年礼拝宣教 杉野省治牧師

 「主よ、憐れんでください」 ルカによる福音書18章9-14節

 主イエスは「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して」(18:9)、対照的な二人の祈りのたとえを語っている。主イエスは「祈り」はそのまま「信仰の姿」に現れるということを語ろうとしている。関係性が人間を形成するように、神との関係がその人の信仰の姿を作る。

 たとえの中の二人はあまりにも対照的。一人は律法を忠実に守るユダヤ人のリーダーであるファリサイ派の人、もう一人は同じユダヤ人でありながら、ローマ帝国への税金を取り立てていたため、人々から嫌われていた徴税人。

 二人は祈りにおいても対照的。ファリサイ派の人の祈りは喜びの祈り。ただし、その喜びは人の低さを喜び、自分の高さを喜ぶ、「人と自分の比較」の中の喜びである。この他者を冷たく切り捨てる姿は神の愛とはかけ離れた姿。彼は価値基準を自分の手の中に持っている。基準が自分にあるということは自分を神としていることに通じる。だから、彼の祈りは自分を賛美するだけの神無き祈りとなる。

 それに対する徴税人の祈り。「神さま、罪人のわたしを憐れんでください」(18:13)。確かに徴税人は罪人と呼ばれていた。そして他者から行為を否定される中で、彼もいつしか自らの行為を汚れたものとし、さらには自分で自分の存在さえ否定していた。彼は「わたしの罪」ではなく「罪人のわたし」と、自分の存在を否定し、自分に対してとことん絶望している。

 この二人の姿に「罪」の姿を見る。ファリサイ派の人の罪は自分を基準(神)として他者を裁く罪。徴税人の罪は自分で自分を裁く罪。自らを正しいとする人は他者を裁き、他者を傷つける。自らを否定する者は自分を裁き、自分を傷つける。他者を裁いて傷つけることも、自分を裁いて傷つけることも私たちには許されていない。裁くことができるのは神だけである。

 しかし、「憐れんでください」と訴える祈りが、絶望の中の徴税人に希望を与える。「憐れむ」とは「同じように痛み苦しむ」ということ。「神さま、あなただけは誰も分かってくれない私のこの心の痛み、分かってくれますよね」と祈る中で、彼は対話する相手、神の存在を確認する。祈る相手がいるということは孤独ではない。神は共におられる、そこに希望を得た徴税人は「義とされて家に帰った」(18:14)と主イエスは言われる。「義とされる」とは神から「それでよいのだよ」と言われるということ。共におられる神は、決してその関係を閉ざされない。赦すために神はいつも私たちの祈りを待っておられる。

 さて、皆さんは、「憐れんでください」と祈ることがあるだろうか。私は、たびたび「憐れみたまえ」「憐れんでください」と祈ることがある。その時の私は自分の無力を強く感じる時である。だから、そう祈らざるを得ない。カトリック教会の礼拝で歌うミサ曲の最初は「キリエ・エレイソン」。「主よ、憐れんで下さい、キリストよ、憐れんで下さい」と繰り返す。それは悔い改めの祈りでもある。

 主イエスはたとえの中で、徴税人を次のように語られている。「徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』」(18:13)。ここには、ただ憐れみによって生かされる罪人としての自覚がある。自分の罪に途方に暮れ、ただ赦しを乞うばかりの祈りがある。罪の中にある者は、神を仰ぎ見ることもできない。徹底した悔い改めと、だから神に憐れみを乞うしかない主への信頼がある。それこそが主イエスが求められる信仰なのである。

なんとなく?

2014-01-21 07:28:04 | 牧師室だより

牧師室だより 2014年1月19日 なんとなく?

 皆さんは、お風呂で身体を洗う時、どこから先に洗いますか?そんなこといちいち考えていない、という方もおられるかもしれませんね。私は昔は首から、そして手と洗っていました。ある時ラジオで落語家が、頭から洗うことを先輩から教わったと言っていました。その先輩は、汚れは下へ落ちるから頭から洗った方が合理的だと言ったそうです。それを聞いた私は、なるほどと妙に感心して、それ以来、頭から洗っています。

 では、手を洗う時は右からですか左からですか?足の場合は?その時の気分だよ、と言われそうです。でも、私たちは無意識でも、何となくいつも同じ動作、しぐさ、順番でやっているそうです。靴下をはく時は右から、左から?ズボンをはく時は?どうでもいいではないですか、と言われそうです。確かにどうでもいいんですが、ちょっと意識して自分を観察してみませんか。

 さて、食事の話に移りましょう。あなたは好きな物(おいしそうな物)から食べますか、それとも最後に残しておく方ですか?心理学者によると、好きな物から食べる人は積極的な性格だということです。私はどちらかというと好きな物から手をつけます。順番は汁物から箸をつけますか?それともご飯、おかず、ですか。決まっていますか、その時の気分や食欲によっていろいろですか?マナー本によると、和食の場合は汁物からだそうです。

 仕事(家事など)の場合を考えてみましょう。いろんな仕事が待っている。どれから片付けますか。簡単な、単純作業的なものからですか、それとも大変な、複雑な仕事に取り掛かりますか?私はどうもいつも簡単な事務的な仕事から始めます。ですから、いつも締め切りや時間に追い込まれて、はじめてスイッチが入り、それから集中してやってしまうタイプです。助走時間がかなり必要です。

 と、まあ、いろいろ見てきましたが、自分がどういうタイプで、どういう癖や習慣を持っているか観察して、よりよい生き方を探求してみてください。

合奏する三人の天使

2014-01-16 13:56:54 | 絵画
「合奏する三人の天使」
平塚在住の放浪画家 武井実

あちこちに放浪しながら丹沢の山々や
湘南の海や相模川などのスケッチをする合間に
天使の絵を描き続ける。
「なぜ天使なの?」と聞くと「好きなんだよなあ……」と返事。
三枚の絵を譲ってもらった(もちろんお金を払って)。
「俺的にはもっとシンプルな線で描いてほしんだけど」と素人の私。
注文通り描いてくれるかな。

遣わされて生きる その2

2014-01-14 15:56:30 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2014年1月12日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

 「遣わされて生きる その2」 マタイによる福音書28章16-20節

 元旦礼拝で「遣わされて生きる」という説教をした。今日は「その2」ということで、最初に元旦礼拝のおさらいをしておこう。

 「思考は地球規模で、実践は足元から」という言葉がある。伝道も同じである。私たちの祈りの射程にはいつもどこかに全世界に福音が宣べ伝えられますようにという祈りがある。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」という主イエスの御命令がいつも響いているからである。

 しかし、伝道の実践はやはり足元からであろう。私たちはこの平塚の地にしっかり足をつけて伝道することが大切である。私たちの教会は平塚の人々の救いのために主から遣わされ、立たされ、用いられている。だから、この地にしっかりと根を張って伝道する教会へと成長していくことが求められている。
 
 弟子たちは主イエスから「すべての民を私の弟子にしなさい」との宣教命令を受け、派遣される。けれども十二人の弟子は、すでに十一人となり(28:16)、中には主イエスを疑わしく見る者もいたとある(28:17)。福音宣教の働きを負う者は十全の資格を持つ者ではないことを弟子集団に見ることができる。使命を果たすにはあまりにも任に耐え得ないかのようである。

 振り返って私たちを見ても、50人余りの群れが平塚25万人の市民を相手に宣教の働きをする。あまりに小さな群れであり、いろいろな面で非力である。弟子たちと同じく欠けの多い者である。しかし、主の命令は私たちの働きを通して果たされる。「私は世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる」。この主イエスの言葉こそが私たちを慰め、励まし、「疑い」を克服させる。そして、希望を持ち、力を与えられ、励まされ、伝道の業へと参与させられていく。
 
 さて、その伝道だが、伝道をめぐる定義の一つにこうある。「伝道とは、教会がキリストの福音を持って人々に接触し、その福音によって人々が悔い改めキリストを救い主として受け入れるように導くわざである」。
 
 伝道の主体は「教会」。そして、その教会の働きの最も重要なものは伝道。教えない学校、治療しない病院などありえないように、伝道しない教会はありえない。教会はそのようにして伝道のために存在している、と同時に伝道は何のためになされるかと言えば、教会を形成するためにこそ、とも言える。教会なくして伝道なし、伝道なくして教会なしであって、この二つは表裏一体。伝道しない教会は消滅する。

 私たちは教会形成のために信徒会などで継続して学んでいる。今日もバプテスト主義についての学びをする。併せて、教会の幻についても話し合う。なぜ、このような学びと幻を語り合うのかと言うならば、言うまでもない、伝道するためである。「伝道する、伝道できる教会」を形成する必要があるからである。

 み言葉の種をまく業としての伝道は、ただやみくもになされ、種を播きっ放しということではない。祈りをもって準備し、提供されたメッセージとともに種は神の宮に収穫され納められる。つまりキリストの体なる教会につなげられてこそ結実を見る。そのようにしてなされる主の愛による共同体の形成こそが私たちの願いである。一人ひとりの魂を導く救霊の業が、教会の中でこそ完成し、救われた者がまた救うために用いられていく、こうした循環こそが大切である。常に水は流れていなければ濁る。教会は伝道するために立てられ、伝道は教会形成のためになされる。個が生かされることによって全体も生きてくる。この不即不離の大原則にあって伝道をとらえ、実践していこう。