平塚にあるキリスト教会 平塚バプテスト教会 

神奈川県平塚市にあるプロテスタントのキリスト教会です。牧師によるキリスト教や湘南地域情報、世相のつれづれ日記です。

罪の持つ重さ

2013-09-25 15:47:28 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2013年9月22日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

 「罪の持つ重さ」 レビ記5章1-6節

 謝ることは難しい。謝り方一つで問題がこじれることが多い。誰にでも失敗はある。しかし、失敗した時に正直に自分の非を認め、どんな相手であれ素直に頭を下げることができれば、誠意が認められ多くの場合、問題解決へと進んで行く。そのようにできる人こそ、真の意味で自由な人なのだろう、と思う。

 私たちは何か小さな失敗をすると「すみません」と謝る。それですめばいいが、「すみませんですむと思うのか」となどと言われると困惑してしまう。こんな時は口答えができないので黙っているしかないが、内心「それじゃ、どう言えばいいんだ」と反問したりする。

 しかし、「すみません」という言葉は、よく考えると「これではすみません」という意味なのだから、この言葉を言っただけですまそうとする方が間違いであり、「すみませんですむか」と言った方が正しい。だから、「すみません」という言葉ほど、不誠実な言葉はないのではないだろうか。しかも、この言葉にはもう一つ「すみません」と言いさえすれば許されるという、失敗に対する不真実さがある。

 レビ記5章には、証言の黙秘とか、汚れた物に触れたことによるケガレとか、軽々しい誓いなどについての贖罪の捧げ物のことが記されている。こうした日常生活の小さな過ちに対しては、私たちは「すみません」と謝りさえすればよいと考えやすい。しかし、聖書はそれがどんなに些細なことであっても、罪である以上は、謝っただけでは消えないこと、神の前に罪として残ることを教えている。そして、この罪のためにも、贖罪の捧げ物を神にささげることなしには済まされることはなく、「犯した罪の代償として、群れのうちから雌羊または雌山羊を取り、贖罪の献げ物として主にささげる」と規定されている。貧しい人のためには「二羽の山鳩または二羽の家鳩」、あるいは「小麦粉十分の一エファ」でもよいとされているが、これは罪というものはどんな人でも何かをもって償わなければ決して赦されるものではない、帳消しにされるものではないことを示している。
 私たちはこうした罪の持つ重さを知らない。その故に、このような規定を読むとき、一種の驚きさえ感じる。しかし、神の前に生きるとは、人間の側だけではことはすまされない世界に生きることである。いつも神の求めに対して生きていくことである。この厳しい現実を知らない者は、あのゴルゴタの十字架の恵みを味わうことはできない。どんなことでも、「すみません」ではすまされないのである。ただあの十字架の死によってのみ、すまされるのである。我々の喜びはここにある。
 
 この箇所では、贖罪の捧げ物は必要だといわれているが、それだけでなく、「罪の告白」(5節)をしてから罪の代償として贖罪の捧げ物をささげるのである。詩編50編15節にも「告白を神へのいけにえとしてささげ/いと高き神に満願の献げ物をせよ」とある。そして、その告白は「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心」(詩編51:19)である。

 そして、最後は神の赦し。十字架においての赦し。十字架の前に「打ち砕かれた霊、打ち砕かれ悔いる心を」ささげ、罪の赦しを請うのである。その時背負いきれない、償いきれない負債、重荷、罪を代わって、私たちの罪の贖罪の捧げ物として、生ける神の子イエス・キリストが神に捧げられたのである。そこに神の赦しがある。

大切な海をこれ以上汚染しないで!

2013-09-25 15:12:43 | 牧師室だより

牧師室だより 2013年9月22日 大切な海をこれ以上汚染しないで!

 長く佐賀の玄海原発問題に関わり、反原発の活動をされている鳥栖教会の野中宏樹先生から、緊急の反原発署名のお願いがきました。以下、先生のアピールを載せます。ぜひ、ご協力を。

 安倍首相はIOCのプレゼンテーションで「(汚染水をめぐる)状況はコントロールできている」「汚染水による影響は、福島第一原発の港湾内で完全にブロックされている」と発言しました。日々汚染水が漏れ出ており、政府の対応が後手後手にまわっていること、汚染水の影響が及ぶ範囲は不明であることが事実であり、安倍首相の発言には根拠はありません。

 東電福島第一原発事故による海洋汚染が深刻な状況です。地下水を通じた流出やタンクからの高濃度汚染水の漏洩について、緊急な対応が迫られています。もう一つの重大事故が起きたといってもよいほどです。(中略)

 溶けた燃料の冷却水を完全に閉じ込めるための対策は全く目処が立たない状況です。凍土方式が提案されていますが、その実現可能性や有効性にきわめて大きな疑問があります。命の源である海をこれ以上汚染してはなりません。国際的に大きな問題です。海の汚染に対して、漁業者は怒りをあらわにしています。

 東電に対応能力がないのは明らかです。しかし、日本政府はこの問題に正面から取り組もうとしていません。原子力規制当局は、原発再稼働のための審査に人員を割き、経産省は汚染水対策をゼネコンたちの営業の場として秘密会合を繰り返し、安倍首相は原発輸出のためのトップセールスに飛び回わっています。政府は、いまこそ、原子力推進機関から独立な立場にある、国際的な叡智を結集し、海の汚染を防ぐために最大限の努力をすべきです。タンク中の高濃度汚染水を処理して意図的に放出することが検討されていますが、これを絶対に行うべきではありません。(一部割愛しましたが、アピール文は以上です)。

 原発事故は決して収束なんかしていません。国を超えての努力が求められています。声を挙げていきましょう。

二人の息子の父のたとえ

2013-09-17 13:49:28 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2013年9月15日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

 「二人の息子の父のたとえ」 ルカによる福音書15章11-32節

 今朝の聖書個所は、昔から「放蕩息子のたとえ」と呼ばれている。しかし、放蕩息子である弟が出てくるのは前半の11節から24節が中心で、後半には兄が登場する。だから、このたとえ話は「放蕩息子のたとえ」ではなく、むしろ、一方的な愛を表わす父の姿から「二人の息子の父のたとえ」と呼ぶ方がふさわしいのではないか、と思われる。

 このたとえ話を主イエスがされた場面は、15章の1節~3節で説明されている。そこから連想したのは、主イエスと一緒に食事をしていた徴税人や罪人は、今日のたとえ話の「弟」で、その食事を非難していたパリサイ派の人々や律法学者たちは「兄」ではないかということ。だから、この話を聞いたり、読んだりする私たちは自分を兄、または弟と重ねつつ、このたとえ話を聞くように促されているようにも思われる。
 
 さて、弟はある時、父親に財産の分与を願う。しかし、父親の生存中に財産分与を要求することは、慣習の枠を超えている。さらに弟はその財産を「全部を金に換えて」しまう。それは弟が自分の欲望を満たすためだった。そして、そのお金で放蕩を尽くして、身を持ち崩した。弟は食べ物に困り、豚を飼う仕事についたが、ユダヤ人にとって、律法で汚れているとされていた豚(レビ記11:7)を飼うことは屈辱的で最低の行いだった。

 弟はそのどん底の中で本心に立ち返り、悔い改める。「もう息子と呼ばれる資格はありません」(19節)と父に言おうと考えた。弟は父のもとに帰った。その時、まだ遠くにいる弟に、父の方から走り寄って抱きついたのである。父は毎日、家の外で弟の帰りを待っていたのである。ここに弟の悔い改めに先立つ父の愛がある。弟は父に帰る道々考えた悔い改めの言葉を言う。しかし、父はその言葉を途中でさえぎり、「雇い人の一人にしてください」と最後まで言わせずに、弟に指輪をつけ、履物を履かせた。「指輪」は権威のしるし、「履物」は奴隷ではなく自由人であるというしるしである。弟は、今や、息子としての資格を回復した。私たちはここでも神の真実な愛(ローマ4:8、第一ヨハネ4:10)を知らされるのである。
 
 喜びの祝宴のただ中に、兄が仕事から帰って来た。兄はこの祝宴に怒った。父に「私はあなたに仕えて、一度も言いつけに背いたことはない」と言う。この「仕える」とは「奴隷として働く」という意味。兄は一途に真面目に働いていたが、奴隷のように屈辱的に働かされていると思っていた。その奉仕は喜びではなく、屈辱に他ならなかったのである。
 
 屈辱の奉仕は批判と嫉妬を生み出す。兄は弟の帰りを喜ばず、「肥えた子牛をほふった」ことを恨んだ。そして、父への言葉の中で、自分の弟を冷たく「あなたの子」(30節)と呼ぶ。兄には弟の帰りを喜ぶ愛はまったくみられない。
 
 そのように怒る兄に父は静かに言った。「あなたはいつも私と一緒にいる。私のものはすべてあなたのものだ」(31節)。ここに、父は弟の父であるだけでなく、兄の父でもあることが示される。対照的な兄弟、しかし、父はこの二人を愛する父なのである。

 主イエスはこのたとえにおいて、確かにパリサイ派の人々、律法学者たちを戒めている。しかし、パリサイ派の人々、律法学者たちも、また神の子であると締めくくられていることに、父なる神の愛の広さを思わざるを得ない。

東京オリンピック

2013-09-17 09:43:05 | 牧師室だより

牧師室だより 2013年9月15日 東京オリンピック

 2020年の夏季五輪の開催地として東京が決定した。1回目は1964年、私が中学3年生の時。出回り始めたカラーテレビを買って、家族でテレビ観戦したことを覚えている。

 五輪開催前年の1963年は地元山口県で国体が、翌年の五輪開催に向けて盛り上がる中で開催された。国体のため、競技場や体育館、プールなどが建設されたり、皇室がパレードされる道路が突然舗装されたり、国体の聖火リレーが行われたり(授業を中断して見学した)で、まるでミニ五輪のような騒ぎだったのを東京五輪と合わせて思い出す。

 今回の招致活動には少し違和感を持っている。私も含め国民の大半は五輪がくれば、あえて反対はしないという程度の気持ちだったと思う。だから今回の招致決定からのテレビのはしゃぎぶりは異様に感じる。しかし、開催決定は世代、地域間で少し違うようにも思う。私の子どもたち(20~30代)は今から楽しみにしている。孫たちは7年後は何歳だから、一緒に見に行こうかしら、などと話している。神奈川県のように首都圏だから言えることで、山口県の住民ならそんな発想は出てこない。

 決まった以上、成功に向けた取り組みを期待する。しかし、手放しでは喜べない。安倍首相はIOCの総会で「汚染水の影響は原発の港湾内の0.3平方キロメートル範囲内で、完全にブロックされている」と断言した。ではなぜ、汚染水対策として巨額の費用をかけ「凍土壁」の施工をするのか。また、放射能汚染を心配した質問に竹田会長は「福島から250キロ離れている東京は問題ない」とも言った。東京は安全で、問題ないと言いたいのだろうが、それは、250キロ離れた福島は問題があります、と言っているに等しい。事実、福島のみならず被災地の復興には問題が多すぎる。被災地のことは人ごとのようだ。

 五輪はスポーツの祭典であり、平和の祭典とも言われる。平和であってこそ、スポーツを楽しめる。世界平和を希求し努力する日本での東京五輪を期待する。

信仰の自由と責任

2013-09-12 11:45:48 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2013年9月8日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

 「信仰の自由と責任」 ルカによる福音書14章25-33節

 主イエスは、パリサイ派のかしらの家を出て(ルカ14:1-24)、今度は「群衆」に向かって語る(25節)。ここは、いつもの論敵であるパリサイ人、律法学者にではなく、主イエスのもとに集まった一般の群衆に語られた言葉である。群衆にとっては、厳しくキツイ言葉であっただろう。この言葉には包む愛ではなく、突き放す厳しさがある。「主に従う者の条件」の厳しさが語られている。

 主イエスは最初から否定的な言葉で「~でなければ、私の弟子となることはできない」と二度繰り返し、弟子となることの厳しさを表わしている。

 26節では家族を捨てて従うことが語られる。言うまでもなく、主イエスは十戒の第五戒「あなたの父と母を敬いなさい」を無効にすることを考えたのではない(ルカ18:19-20参照)。ここで問題とされるのは、大切な身近な人々に対する自主性と自由の問題である。私たちは、家族という人間関係に縛られた不自由な奴隷であってはならない。神の前にあって、正しい子離れ、親離れ、家族離れが求められている。そしてもう一度、関係をつくり直していく。共に主を見上げて歩む関係である。共に主に愛されている存在として、自分との関係をつくり直していく作業である。そのためにはいったん自由にならなければならない。自分を相対化していく必要がある。それは絶対者の前でしかできない。そうでなければ、比較しているだけである。だから、主の前で己をもう一度吟味していく作業が必要なのである。それが本当に自由になる、解放されるということ、救われるということになっていく。

 私たちは、生きることが辛くなると、「頼みもしないのに産みやがって」、「こうなったのは世間のせいだ」、「学校せいだ。会社のせいだ」と当たりたくなる。でも、そう言って他者を責めても物事は解決しないし、かえって惨めになるだけである。

 主イエスは、自分の十字架を背負いなさいと言われる。自分の人生は自分の責任であるとわきまえなさいということでもある。しかし、主イエスは、一人で歩きなさいとは言われない。私についてきなさいと言われるのである。そして背負っている重荷を重荷と言わずに「十字架」と言われる。それはゴルゴタの丘への道を歩いたキレネ人シモンを思い出させる。背負っているのは、私の重荷から主の十字架に代わっているということ。同じ重荷でありながら、意味が変わっている。私に代わって死んでくださるためのお方の十字架を背負っているということ。「十字架を負う」とは主イエスの痛み、苦しみを共にすることである。そのお方が死んでくださるので、私が生きることができる、そのためにその方の後に従っている自分がいるということである。さらに、深く考えるならば重荷を負いながらも、その方に従っている私がいるということである。その十字架を負って従って来なさいと主イエスは言われる。主イエスに従う道は平坦でなく、険しい山道である。

 主イエスの前にいるのは群衆である。彼らは病み、悩み、傷つく中で、主イエスに助けを求め、主イエスを慕っていたことだろう。しかし、主イエスはここで場当たり的な御利益や熱狂的な憧れを否定されている。主イエスに従う道は自分本位の熱狂的な道ではない。思慮深く自己吟味し、覚悟して生涯をかけて歩む道である。

私のストレス解消法

2013-09-09 07:22:22 | 牧師室だより

牧師室だより 2013年9月8日 私のストレス解消法

 以前、ストレス解消法について書いたが、私のストレス解消法の一つはお風呂である。それは家の内風呂ではなく、今はやりの日帰り温泉やスーパー銭湯、または公衆浴場である。

 なぜ、銭湯や温泉にはまったか。もう30年近く前になるが、毎日部活動や生徒指導で遅くまで忙しくしていた頃、思いがけず平日の午後に早く帰宅できたことがあった。そこで、幼稚園から帰った長男を連れて近くの銭湯に行った。「明るいうちからゆっくりと大きな湯船に入れるなんて、極楽、極楽。こんな安くて手軽なぜいたくはない」と、すっかり気に入ってしまった。親子の会話も弾み、本当にリラックスでき、それ以来、私のストレス解消法となった。

 それからは、時間ができると家族で近くのあちこちの銭湯に行くようになった。そのうち(1990年代)「スーパー銭湯」があちこちにできて、行くようになる。子どもも楽しみにするようになり、すっかり我が家のちょっとしたレジャーというか楽しい行事になった。今でも子どもたちが集まると「どこのお風呂に行く?」という話になる。

 今はもっぱら「日帰り温泉」。週に1,2度は行く。よく利用するのは、平塚総合公園のそばにある「湘南天然温泉湯の蔵ガーデン」と東海大学駅近くにある「秦野天然温泉さざんか」である。「湯の蔵」は何といっても近くて便利。「さざんか」では露天風呂から丹沢の山を眺めてリラックス。

 この二つに飽きると時々、茅ヶ崎の「日帰り天然温泉竜泉寺の湯」や秦野のスーパー銭湯「湯花楽」に行く。「竜泉寺の湯」は休日料金なしの年中600円が魅力。冬の時期には4階の露天風呂から富士山がきれいに見える。「湯花楽」は少し遠いが、楽しみは道中にあり、JA秦野の地場野菜の直売店「じばさんず」に寄ったり、渋沢丘陵から丹沢山系の眺望を楽しみ、近くの震生湖でしばし黙想にふける。
 
 その他、鶴巻温泉、箱根湯本、湯河原、熱海、御殿場など近場の温泉地もたまに行って楽しんでいる。銭湯・温泉めぐりは私の趣味の一つでもある。

人間の愚かさと惨めさ

2013-09-03 13:35:09 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2013年9月1日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

 「人間の愚かさと惨めさ」 エフェソの信徒への手紙2章1-8節

 私たち人間の愚かさは、神の愛とご計画を知らされながら、なおなかなか神を信頼し続けることができないところにはっきりと表れている。私たちは、いろいろと都合をつけて、神を賛美し、礼拝することを怠る。感謝をささげることも忘れてしまう。神が、まず私たちに仕えてくださったにもかかわらず、私たちは、むしろ神を思い通りに何かをしてくれる存在にしばしばおとしめる。

 ここに人間の惨めさがある。どうして私たちは、素直に神を信頼し続けることができないのか。それは、私たちが、神に信頼することも神から離れていくことも自分の意志でできるように創造されているからである。

 ルカ福音書15章の放蕩息子の譬えは、このことをよく示している。父親から財産を分けてもらった弟は、自分自身の意志で父の家を出て、遠い国へ旅立って行く。やがて、放蕩に身を持ち崩し、すべての財産を使い果たしてしまう。気づいた時には、豚の食べるいなご豆を食べて飢えをしのぎたいと思ったほどであった。やがて、弟は、我に返って、父のところに戻る決心をする。

 放蕩息子のように、私たちは自分の意志で神のもとを離れ、好き勝手な方角に赴くこともできる。神に信頼せずに、「自分は自分の力で生きているのだ」と考える自由も与えられている。しかし、同時に、私たちは悔い改めて、自分の意志によって再び神に心も体も向け、神のみもとに帰ることもできる。そのような自由も与えられているのが人間。罪を犯し、神の顔を避けていた人間は、再び神の愛を知ることもできる。神は、そのための準備をすべて整えてくださっている。神の独り子イエスの誕生とご生涯、そして十字架の死と復活は、すべて、放蕩息子が再び、天の父なる神のみもとに帰るために神ご自身が準備なさったことである。

 さて、私たちが神にしっかりと結びつくことができず、神の言うことを聞かない時、私たちは罪に囚われた惨めな状態にある。神のご命令に背いて、神から手を離してしまった時には、私たちは自分の力で生きているのだという思い上がりに陥って、罪によって支配されてしまっている。「肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動している」(2:3)のである。

 「しかし、憐れみ豊かな神は、私たちをこの上なく愛して下さり、その愛によって、罪のために死んでいた私たちをキリストと共に生かし」(2:4-5)、もはや罪の支配に置かれず、平和と喜びのうちに人生を歩むことができるようにしてくださった。それは、主イエスと共に歩む道であり、死に至る道ではなく、永遠の命に至る道である。主イエスは、「私は道であり、真理であり、命である、私を通らなければ、だれも父のもとに行くことはできない」(ヨハネ14:6)と宣言されている。
このことを聖書は次のように書いている。「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です」(2:8)。

ごまめの歯ぎしり

2013-09-02 07:31:30 | 牧師室だより

牧師室だより 2013年9月1日 ごまめの歯ぎしり

 先日の夕方、買い物で平塚駅周辺に行った時、駅前で衆議院議員の河野太郎氏がトレードマークのサスペンダー姿で秘書らと一緒に国会報告の広報紙を配っていた。そこで、思わず彼に近づいて、「脱原発、がんばってよ」と激励した。彼は「はい、わかりました」と力強く言ってくれた。

 なぜ、私が思わず近づいて河野氏にそう言ったかというと、彼が以前から「脱原発・反原発」の論者だということを最近知ったからだ。それは2年前のこと。「ひだまり」で報道写真家の樋口健二氏による「原発の被曝労働者の実態」の講演会を行った時に、河野氏の秘書が来て熱心に話を聞いてくれた。「なぜ、自民党の河野氏の秘書が?」と思ったが、その秘書が言うには「河野氏は以前からそうであり、今、少数ではあるが国会内で頑張っている」とのことであった。

 5年前に平塚に来てしばらくすると、街のあちこちに河野太郎氏の広報板が目につくようになった。その広報板には「ごまめの歯ぎしり」と大きく書かれ、彼の苦虫を噛み潰したような顔写真が貼ってある。政治家の広報板にしては珍しいキャッチフレーズ。「ごまめの歯ぎしり」とは「力のない者が、やたらにいきりたつこと」である。「なぜ、ごまめの歯ぎしり?」といつも思っている。彼一流の謙遜か、ユーモアか?今度会ったら聞いてみたい。

 その彼が配っていた広報紙には「医療改革」について彼の見解が書かれていた。増えていく医療費の中で、国民が負担できる医療費の範囲で、国民が満足できる医療サービスを提供できる体制をつくっていかなければ、といくつかの具体的な政策が提起されていた。「病気を治す」医療から「健康生活を維持する」医療への転換だとか、「出来高払いの診療から定額払いへ」とか、すべての国民が適切な医療にアクセスできる医療体制の構築、医療保険制度の見直しなどなど、なるほどと思われる内容であった。「ごまめの歯ぎしり」さん、頑張ってください。