平塚にあるキリスト教会 平塚バプテスト教会 

神奈川県平塚市にあるプロテスタントのキリスト教会です。牧師によるキリスト教や湘南地域情報、世相のつれづれ日記です。

女性たちの活躍

2011-08-30 15:22:47 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2011年8月21日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

 「女性たちの活躍」出エジプト記2章1-10節      
 
 エジプトは、かつてヨセフの夢を解き明かすという賜物や知恵、才覚によって国の危機から救われたという歴史があった(創世記47章)。しかし、長い年月が過ぎ、そのことを知らないファラオが権力を握った時(1:8-14)、寄留者のイスラエルの人々が増え、強力になったことを恐れ、重労働を課して虐待を始めた。
 
 抑圧政策はそれにとどまらず、ヘブライ人の助産婦に男の赤ちゃんを殺すように命令が出された。エジプトの絶対権力を目の前にして、抑圧されているたった二人の助産婦。「何もできない」、「従うしかない」と思っても当然かもしれない。しかし彼女たちは、「神を畏れて」(1:17)いた。その緊急事態の中で、具体的に「こうしなさい」という神の指示があったわけではない。けれども、彼女たちは神を畏れていたので、自分たちで考えて、決断した。自分に命を与えてくださったのも、目の前の赤ちゃんの命を創り出してくださったのも、主なる神であってファラオではない。彼女たちは「殺さない」という不服従の決断をする(1:19)。彼女たちがファラオを恐れず、神を畏れた結果である。神を畏れる信仰は、そのような決断や勇気を促す。

 しかし、ファラオはさらに抑圧の手を強めた。「生まれた男の子は、一人残らずナイル川にほうり込め」(1:22)。赤ちゃんだったモーセの命は風前のともし火。しかし、その赤ちゃんの命を大事に思った3人の女性たちの手が、神によって救いの計画の中につながれていく。まず、モーセの母は赤ちゃんを「かわいい」と思い、三か月の間隠しておく(2:2)。次に、ファラオの王女が赤ちゃんを見つけ、「ふびんに思って」引き上げる(2:6)。そこにモーセの姉が勇気を持って語りかけ、モーセの実の母が乳母として育てていくことになる(2:7-10)。こうしてモーセは川から引き上げられ、命を救われる。そしてこの赤ちゃんが、後に全イスラエルの救いのために神に用いられていく。この神の救いの計画に、女性たちが決定的な役割を果たしていった。権力を前にして、一人ひとりの女性たちはあまりに小さく無力である。けれども、一人ひとりの、神を畏れる思い、いのちを大事にする思いが神によって救いの計画の中につながれて、神の救いの計画は実現されていく。
 
 ここには女性たちの活躍がある。その活躍の源は、「神への畏れ」という信仰であり、「かわいい」と思う愛情であり、「ふびんに思い」という憐みであり、機転を働かせた勇気である。それらが組み合わされて、全体として神の導きを実現していく。美しいモザイク画のようだ。
 
 さらに、ここには二つの生き方が対比されている。一方は、自分だけを信じているファラオ。他者を利用してでも、自分だけが生き残る生き方。もう一方は、神を信じ、神を畏れる人々。ここでは女性たちのこと。彼女たちは、他者と共なる生き方を選ぶ。神の導き、祝福の様子は「共存」である。「共に生きる」。神の導きに従って互いに共存して、まったく異質な人々が集まって、互いに気に入らなくても、何とかやっていく、これが神が下さった共同体のあり方。「共に生きる」という信仰は国境や民族、人種、男女の性別、年齢、職業など様々な違いや壁を乗り越える。同時にそのような生き方は決断を迫られる。時に多くの危険や困難、傷つくこともある。しかし、神は傷ついた復活のからだを持って、いつも私たちと共にいて、私たちを慰め、赦し、癒してくださるのである。

信仰告白ってな~に?

2011-08-30 13:38:42 | 牧師室だより

牧師室だより 2011年8月28日 信仰告白ってな~に?

 信仰告白とは、神さまに対する信仰(神さまを真実に信頼すること)を明白に表現することです。ですから、それは神さまの愛に対する応答とも言えます。聖書によれば、神を信じるという行為そのものも神の恵みであり、聖霊のみわざ(働き)でありますが、信仰告白した私たちは神さまに対して誠実さと責任が求められるでしょう。いいかげんな気持ちではダメだということです。

 信仰告白の表現の仕方は時代によって、人によって多少の違いはあります。でも、基本形は「私は、○○は△△と信じます」という言い方になります。その最も簡潔なものは「私は、イエスを救い主と信じます」となります。この告白こそ、私たちの信仰の核心です。イエスの弟子のペトロの「あなたはメシア(救い主)、生ける神の子です」(マタイ福音書16:16)という告白や十字架刑に立ち会ったローマの百人隊長の「本当に、この人は神の子だった」(マルコ福音書15:39)という告白は有名です。

 信仰告白はこの核心の部分を中心にして、神、人間、救い、罪、教会、礼典などについて、聖書から聞いて、先ほどの基本形のような言葉で表現します。それは、同時に聞く者、読む者にとっては証しともなるでしょう。

 教会としての信仰告白は神に対して、またこの世(社会)に対して、私たちはこのような信仰をもっている集団です、と公に表明することになります。またそれは私たちが教会形成や伝道をしていくうえで常に確認し吟味していくものでもあります。もちろん私たちの信仰の規範は聖書にありますから、聖書に聞いていくのですが、人によって解釈や強調点や大切にしていることなどに違いがありますから、やはりその教会で共通理解を図って、明文化しておく必要があるでしょう。ですから、これから私たちの教会の信仰告白の明文化の作業を進めたいと考えています。

 最初に私が試案を作成しますので(解説付き)、時間をかけてじっくりと検討していきましょう。この作業が教会の成長につながりますように。試案はこの欄で1年間にとびとびに書きます。

信じる者になりなさい

2011-08-23 11:43:57 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2011年8月21日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

 「信じる者になりなさい」ヨハネ福音書20章24-31節      
 
 トマスは十二弟子の一人でありながら、復活の主イエスを信じることができなかった。そのトマスが復活の主を信じるように導かれた様子が、今朝の聖書の箇所に記されている。

 トマスはまず、他の弟子たちから「わたしたちは主を見た」と聞かされた。しかし彼は、はじめ信じられなかった。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言った。復活の主を信じられないトマスは、挫折や絶望の中でいらだち、人生の空しさや不安から解放されていなかった。
 
 では、何がトマスを信仰に導いたのか。その方は、指をここに当て、手を伸ばして私のわき腹に入れなさいと言われた。その言葉は、その方がトマスを良く知っていることを示している。これが一つ。私たちはよみがえられた方によく知られている。よく知られていることによって、そしてよく知られていると知ることを通して、信仰に導き入れられる。

 釘跡に指を入れてみるまでは信じないと言ったトマスの疑いの言葉を主は良くご存知だった。主は私たちの信仰の弱さも疑いもよく知っておられる。その上で「触りなさい」と言われる。トマスは疑っている自分が、知られているだけでなく、その不信仰にもかかわらず、赦されている、不信仰のままに受け入れられていると知ったはずである。これが第二のこと。私たちの不信仰も主によって赦されている。主は、トマスの疑いを知り、それを赦し、それを克服するために触ることを許された。トマスに「指を入れよ、手を差し伸べよ」と言われる。そして「信じる者になるように」と言われた。

 「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」というのは、命令ではなく、主の願いとも受け取れる。パウロは、「キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい」(第二コリント5:20)と書いている。そう書いたのは、パウロもまた「キリストの願い」に打たれたからであろう。トマスもまたキリストの願いに打たれたに違いない。
主に知られ、不信仰を赦され、そして主の願いに打たれた。復活したキリストの人格の真実に打たれたのである。まぎれもなく変わることのない主イエスの愛の真実。この愛に出会ったのである。この主イエスの変わることのない人格の真実が、トマスを変え、信仰に導いたのである。

 「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」。主イエスは信じることを重視しておられる。信じても、信じなくてもいいと言うのではない。信じる者になるように、主イエスは真実、願っておられる。主イエスを信じるとは、心のうちにイエスを「わが主、わが神」と呼ぶこと、そして主イエスと親密な関係に結ばれること、主のものとされることである。そして主を信頼することである。
 
 心の中で、または声に出して「わが主よ、わが神よ」と呼んでみよう。そのときあなたは「いのち」を受けている。世々のキリスト者はこのことを経験してきた。わたしも経験した。そして受けたその「いのち」には、主イエスが与えてくださった「平安」がある。この主の平安を受け取ろう。

お~い、お茶

2011-08-22 10:02:47 | 牧師室だより

牧師室だより 2011年8月21日 お~い、お茶

 某飲料メーカーに「お~い、お茶」という商品名のお茶がある。あまりにそのものずばりのネーミングに初めはびっくりしたが、現在では私の好きな緑茶飲料である。

 ところで、皆さんはこの「お~い、お茶」という言葉が、「お茶を入れて持ってきてくれ」と言われているように聞こえますか、それとも、「お茶を入れて持ってきてくれ」と言っている自分の言葉として聞こえますか。どちらともとれますね。いつもサービスを与える側にいるか、サービスを受ける側にいるか、その立場の違いでしょう。「お茶を入れて持ってきてくれ」といつも言っているあなた、たまにはお茶を入れてあげないと愛想つかされますよ。聖書にも「受けるよりは与える方が幸いである」(使徒言行録20:35)とありますからね。

 でも、どちらの立場にあっても、「お~い、お茶」と呼んだり、呼ばれたりする相手がいることは幸せです。サービスを受ける喜び、サービスを与える喜びがこのさりげない日常会話にはあります。お茶を介してお互いの信頼関係の確認。ちょっと考え過ぎかな。いずれにしてもささやかな幸せ。これって、大事ですよね。

 「お~い、お茶」と呼ぶ相手のいない人の寂しさを考えるとそういう人の相手になってあげたいと思う。教会がそういう交わりの場にもっともっとなったらいいと思う。「お茶でも飲もうよ」と気楽に声をかけあってみましょう。たまには「お酒でも飲もうよ」でもいいかな?

 愛は関係性のないところでは成り立たない。愛は相手があって成り立つ。だから出会わないと始まらない。「お~い」と呼ぶことから始まるといっていい。ホームレス支援の「平塚パトロール」の夜のパトロールは「こんばんわ」から始まって、「寒くない」「具合はどう」「何か困ったことない」などといった何げない声かけから始まる。それは関係性の回復を目指す。それは「わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする」(エゼキエル書34:16)神の愛の応答として行われていると言えるだろう。

苦難を越えて

2011-08-16 16:10:42 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2011年8月14日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

 「苦難を越えて」 使徒言行録27章13-26節      
 
 ローマへと向かう船旅の途中、パウロたちは「嵐」という困難、死と直面した。このような嵐は、何を意味するのだろうか。それは自然現象であると言えば、それまでのことであろう。こう考えると、自然そのものには、何も意味はないように見える。しかし、そこに信仰の人がいる時、それは意味を持ってくる。普通の人は、自然災害や苦難から、ただ恐れや無力感、絶望を引き出すのみである。ところが今、信仰の人パウロは、この災害から、神の摂理を導き出したのである。
 
 パウロは嵐の中、「パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ」(27:24)という神の声を聞く。それは、いかなる困難のなかでも実現する神の必然にほかならない。今、海に熟練した船乗りたちが、どうしようもなく、判断を誤ってしまった時、神に従う人パウロは、静かな示しを神から受けたのである。
 
 この神の御声は、だれにでも聞こえるといったものではない。それは、第一に、無欲な者に聞こえる。周りの利害や、自分の欲に捕らわれている人には聞こえない。船主は、船を少しでも早くつけたいという欲が働くから、冷静に事態を判断できない。次に、この上からの声は、使命に生きる人に聞こえる。パウロは、ローマを見るとの、ローマ伝道の使命感に燃えていたから、神の声を聞いたのである。第三に、常に望みを持つ人に、この御声は聞こえてくる。絶望する人は、悪魔のとりこになって、物の本当の姿が見えない。希望を持つパウロには、他の人々の見えない先が見えてくる。第四に、この声は、静かに信頼している人に聞こえる。あわてる人には見えないし、聞こえない。「あなたは立ち返って静かにするならば、救いを得、穏やかにして、より頼むなら力を得る」(イザヤ30:15)とあるとおりである。

 以上、見てきたように信仰の人パウロは嵐という死に直面する災難の中、神の御声を聞く。その御声は神の「必ず」という必然である。それはいかなる困難のなかでも実現する神の必然である。そのようにして神の摂理、神のご計画は実現に向かって進むということである。
 
 さて、私たち、今回の東日本大震災を前にして、何を語ることが出来るだろうか。いや、この大災害の中にどのような神の声を聞くことが出来るだろうか。それは、大震災だけに限らない。個人的な災難、困難。病気、事故、身近な者の死、リストラ、裏切り、借金、人間関係の不和などなど、そのような時にあって、神の声を聞く人は幸いである。パウロの言動から見てきたように、今この時、静まって上記の4点について我が身を振り返ってみよう。そのようにして、私たちも困難の中に「生きる意味」を神から示されていくであろう。
 
 誤解しないでおこう。神の「必ず」という必然の声は神の摂理であり、神のご計画である。私たちの「必ず」という必然ではない。私たちの思いや願いを越えた神の「必ず」であり、必然である。それを聞くことのできる人は幸いである。自然災害や困難に出会い、恐れと無力感と絶望の中にある時も、迷うことなく神の示された道を行くことが出来る。元気と勇気とやる気をもって前へ一歩歩み出していける。この信仰が与えられている恵みに感謝して歩み出そう。