(先週の説教要旨) 2011年7月24日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師
「存在証明」 出エジプト記1章1-14節
ヨセフの功績を知らないエジプトの王はイスラエルの子孫が増え、強くなってきたので、このことを恐れ、イスラエル人を奴隷とし、彼らに激しい労役をしい、彼らの産む嬰児のうち男児をナイル川に投げ込んで、その増加を抑えようとした。しかし王の策略、知恵は結局、それほど賢明でないことになる。イスラエルの民は抑圧されればされるほど数を増した。
それにしても、なぜイスラエルの民は、「虐待されればされるほど増え広が」るのか。そのカギはアイデンティティーである。存在証明、自己証明、自分が何者であるか、自分のよって立っているところは何なのか。それがはっきりしていたからなのではないか。
この一章の前半に「イスラエル」という言葉が何回もでてくる。イスラエルというのは族長ヤコブの別名。そのヤコブ、イスラエルの子孫をイスラエルの民と呼ぶようになった。だから、イスラエルという名称は、宗教的・民族的自覚を明確に示すものである。彼らは常に自分たちの父祖であるアブラハムの信仰を自覚し、継承していくこと、そして自分たちは神に選ばれ祝福された民であることを誇りとしていた。アイデンティティーが実にはっきりしていた。だから彼らはアブラハムの昔から誇り高い民族として歩んでいた。
さらに一章の後半を見てみると、イスラエルの別の名称、「ヘブライ」という言葉が3回出てくる。この言葉の原意は「渡って来た者」という意味。おそらくイスラエル民族に対するあだ名として呼ばれた言葉だったのだろう。そのあだ名が示すように、確かに彼らは「渡り人」であった。神の計画、約束のままに彼らは渡り歩く流浪の旅人であった。流浪の旅人であるがゆえに、そこに彼らの生きる真面目さ、真剣さがあった。
新約聖書の「ヘブライ人への手紙」では、「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。」(11:13)と記されている。旅人や寄留者の特徴は、目的地を彼方に持って生きているということである。彼らは約束のものをまだ受けていなかったが、その彼方の栄光の国を望み見て喜びながらそれをめざして生きたのである。ここにも、彼らのアイデンティティーがはっきり現わされている。
しかし、その彼らのアイデンティティーは、彼ら自らが手に入れたものではない。それは神からの祝福である。向こう側からやって来たのである。それは神から選ばれ、祝福され、約束として与えられたものだった。賜物、恵みである。それはアブラハムの祝福を通して、イサク、ヤコブと続き、イスラエル民族の祝福となっていったのである。だから、「イスラエルの人々は子を産み、おびただしく数を増し、ますます強くなって」(7節)いったのである。それは神のご計画、神の愛のご配慮だったのである。だから抑圧や虐待によって、それらは無くならない。神の約束だからである。神の祝福は永遠に続き、無くならないのである。この祝福に現代の私たちも、主イエスの十字架と復活の出来事を通して与っている。主の祝福に与るものとされている。私たちのアイデンティティー、それは信仰。イエスは主なり、イエスは私たちの救い主という信仰を私たちもはっきりと自覚して歩んでいきたい。