平塚にあるキリスト教会 平塚バプテスト教会 

神奈川県平塚市にあるプロテスタントのキリスト教会です。牧師によるキリスト教や湘南地域情報、世相のつれづれ日記です。

存在証明

2011-07-26 16:39:19 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2011年7月24日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

 「存在証明」 出エジプト記1章1-14節
 
 ヨセフの功績を知らないエジプトの王はイスラエルの子孫が増え、強くなってきたので、このことを恐れ、イスラエル人を奴隷とし、彼らに激しい労役をしい、彼らの産む嬰児のうち男児をナイル川に投げ込んで、その増加を抑えようとした。しかし王の策略、知恵は結局、それほど賢明でないことになる。イスラエルの民は抑圧されればされるほど数を増した。

 それにしても、なぜイスラエルの民は、「虐待されればされるほど増え広が」るのか。そのカギはアイデンティティーである。存在証明、自己証明、自分が何者であるか、自分のよって立っているところは何なのか。それがはっきりしていたからなのではないか。

 この一章の前半に「イスラエル」という言葉が何回もでてくる。イスラエルというのは族長ヤコブの別名。そのヤコブ、イスラエルの子孫をイスラエルの民と呼ぶようになった。だから、イスラエルという名称は、宗教的・民族的自覚を明確に示すものである。彼らは常に自分たちの父祖であるアブラハムの信仰を自覚し、継承していくこと、そして自分たちは神に選ばれ祝福された民であることを誇りとしていた。アイデンティティーが実にはっきりしていた。だから彼らはアブラハムの昔から誇り高い民族として歩んでいた。
 
 さらに一章の後半を見てみると、イスラエルの別の名称、「ヘブライ」という言葉が3回出てくる。この言葉の原意は「渡って来た者」という意味。おそらくイスラエル民族に対するあだ名として呼ばれた言葉だったのだろう。そのあだ名が示すように、確かに彼らは「渡り人」であった。神の計画、約束のままに彼らは渡り歩く流浪の旅人であった。流浪の旅人であるがゆえに、そこに彼らの生きる真面目さ、真剣さがあった。
 
 新約聖書の「ヘブライ人への手紙」では、「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。」(11:13)と記されている。旅人や寄留者の特徴は、目的地を彼方に持って生きているということである。彼らは約束のものをまだ受けていなかったが、その彼方の栄光の国を望み見て喜びながらそれをめざして生きたのである。ここにも、彼らのアイデンティティーがはっきり現わされている。

 しかし、その彼らのアイデンティティーは、彼ら自らが手に入れたものではない。それは神からの祝福である。向こう側からやって来たのである。それは神から選ばれ、祝福され、約束として与えられたものだった。賜物、恵みである。それはアブラハムの祝福を通して、イサク、ヤコブと続き、イスラエル民族の祝福となっていったのである。だから、「イスラエルの人々は子を産み、おびただしく数を増し、ますます強くなって」(7節)いったのである。それは神のご計画、神の愛のご配慮だったのである。だから抑圧や虐待によって、それらは無くならない。神の約束だからである。神の祝福は永遠に続き、無くならないのである。この祝福に現代の私たちも、主イエスの十字架と復活の出来事を通して与っている。主の祝福に与るものとされている。私たちのアイデンティティー、それは信仰。イエスは主なり、イエスは私たちの救い主という信仰を私たちもはっきりと自覚して歩んでいきたい。

夏休みと朝顔

2011-07-26 13:51:13 | 
子どものころの夏休みの思い出といえばいろいろあるが、
朝顔もその一つ。観察日記をつけたり、押し花を作ったりと
楽しい思い出。そうそう、葉に銀紙を貼って、光合成の実験を
したこともあった。6年生の時だったな。
今年は子どものころ以来何十年ぶりで朝顔を育ててみた。
やっと大輪を咲かせた。

教会って何をするところ?

2011-07-26 13:42:54 | 牧師室だより

牧師室だより 2011年7月24日 教会って何をするところ?

 「教会成長」を考えるには、教会って何をするところか、しっかりと押さえておく必要があります。もし、そのことがあいまいであったり、やることが不活発だったりすると、健全な教会、成長する教会とはならないでしょう。

 簡潔に言うならば教会は、礼拝と伝道の使命に励むところです。教会は公の礼拝を守り、福音を正しく宣べ伝える働きをします。ところで、公の礼拝でない礼拝って何のことでしょう。私的礼拝、つまり家庭や学校や病院、職場の礼拝で、限られた人だけが出席できる礼拝のこと。私的礼拝で無いものがあります。主の晩餐とバプテスマの二つの礼典です。「バプテスマと主の晩餐の礼典を執り行い、愛のわざに励みつつ、主の再び来りたもう日を待ち望む」と教会のなすべきことが告白されます。

 「愛のわざに励む」とは具体的に何のことでしょうか。長い歴史の中で教会は三つのつとめを大切にしてきました。ギリシア語でいうと、①マルチュリア(証し。イエスを救い主と証しし宣教する)、②コイノニア(交わり。主にあって共に生きる)、③ディアコニア(奉仕。他者の苦しみに連帯し、愛をもって仕える)です。さあ、どうでしょうか。私たちの教会は喜びをもって、この三つのつとめに励んでいるでしょうか。

 愛のわざに励むには、教会はいつでも誰にでも開かれていなければなりません。「開かれた教会」とよく言います。教会の門や扉が開かれているということではないのです。それも必要でしょうが、もっと大事なことがあります。それは教会に集う人々の心がキリストによって開かれていることです。

 心が開かれると三つの「あ」が教会に与えられます。一つは「明るい」、二つ目は「暖かい」、三つ目は「あやまる」です。自らの誤りを素直に認め、あやまる。教会は「十字架の下なる教会」であると共に「常に改革されるべき教会」ですから、悔い改め、謝り、出直す、このことが求められます。平塚教会って明るいわね、暖かいわね、と思われているでしょうか。常に変革を恐れずチャレンジしているでしょうか。自己吟味しましょう。

喜ばしき交換

2011-07-21 11:29:31 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2011年7月17日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

 「喜ばしき交換」 マルコ15章6-15節
 
 マタイによる福音書の11章28節に「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」という有名な聖句がある。この聖句によってどれだけ多くの人が教会の門をくぐり、救いに与ったことだろうか。どれだけ多くの人が慰めを与えられたことだろうか。しかし、私たちは、うっかりすると主イエスのところへ行けば、辛いことや悲しいことはすっかりなくなってしまうと単純に受け止めがちである。しかし、主イエスは、信仰さえあれば、幸福と健康を手にすることができると単純に教えておられない。
 
 この有名な聖句のあとに、「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」と主イエスは言われた。主イエスは言われる。あなたのくびきは、実はわたしのくびきなのだと。私の背中のくびきが主イエスのくびきと成り代わっているので、背負いうる者となっている、そこになおもって生きる勇気の源泉を発見するというのである。
 
 ルターは、キリストを信じる時、「喜ばしき交換」が起こると言う。キリストのものが私のものとなり、私のものをキリストが引き受けてくださる、そこにこそ信仰による慰めがあるというのである。その結果、私たちは疲労困憊の最中にあろうとも、重荷で押しつぶされそうになっていようと、なおしたたかに生きている自分の姿を見るのである。
 
 この「喜ばしき交換」だが、その原点ともいうべきもの、究極なものといっていいのが十字架の出来事なのである。それはどういうことなのか。その十字架の出来事が記されている聖書の箇所を見てみよう。マルコによる福音書15章。

 「十字架につけろ」との群衆の声は、暴徒として、本来なら死を宣告されるべき一人の囚人を主イエスの命と引き換えに救うという結果をもたらした。その名はバラバ。主イエスが死ぬことによってのみ、バラバは命を得たのだった。それこそ主イエスの十字架の死の贖いによる赦しを一身に受けたのだ。バラバは赦されるにふさわしい功績があるはずはなく、それどころか、赦されることはあり得ないのであり、信仰すら彼には無縁であった。ただただ主イエスが死んでくださったことにおいてのみ、赦しが与えられたのである。それ以外の何ものも彼を命へもたらすものはない。まことにこれは、救いの極致とでもいうべきことである。

 しかしながら、これは私たちの身に起こっていることでもある。どうして私のような者が赦されて、今日ここにいるのか、何の功績もなく、ただ主イエスがわたしの命と引き換えに死んでくださったので生きることが赦されている。わたしもまた、一人のバラバであることをひしひしと感じない人はいないだろう。
 
 私たちは、自分の重荷を主イエスのもとにおろそう。自分のありのままの姿を、現実の、本音のところを、いやすべてを主イエスのもとにおろそう。そして、主イエスの負いやすい、軽い軛を背負いましょう。それが信仰の決断です。そこに「喜ばしき交換」が起こる。

大震災に想いをよせる

2011-07-19 11:02:55 | 教会行事
今年の教会学校・小学科の夏季学校は、
3・11の東日本大震災に想いを寄せて、
地震や津波、原発事故などの被害者の
実状をしり、うちわに励ましの似顔絵とメッセージを書いて
被災地のお友だちに送ることにしました。
その一環として、消防署から起震車に来てもらい、地震の体験をし
防災の話を聞きました。非常食のご飯も食べてみました。
炊き出しのおにぎりもみんなでにぎりました。
一日も早く復旧・復興することをみんなでお祈りしました。



教会ってな~に?

2011-07-19 10:51:49 | 牧師室だより

牧師室だより 2011年7月17日 教会ってな~に?

 今年度は「教会成長」について共に考えたいと願っています。そこで、教会って何だろうと原点に返って考えてみました。

 以前、名刺を作った時に「平塚バプテスト協会」と間違えられたことがありました。その時気づいたのですが「協会」の「協」は十字架の横に力が三つ。主の十字架のもと、みんなが力を合わせるということでなかなかいいなと思ったのですが、やはり「教会」が正しいので、すぐ作り直してもらいました。

 では「教会」は読んで字のごとく、教えるところでしょうか。教会はギリシア語でエクレシア(召し出す、呼び集めるの意)といいます。ですから「集会」と訳した方がいいかもしれません。教会は集いなのです。建物、組織である前に集いです。「教会の約束」に「教会は人によって成ったものではなく、神によって成ったもの」とありますように、招集するのは神ご自身です。教会は神に呼び集められた群れということになります。

 また教会は「キリストの体」(コリントⅠ12:27)とありますから、教会を教会たらしめるもの、教会の主体はキリストです。その辺があいまいになると、教会はボスが横行したり、私物化が起きたりして、ひどいことになります。教会成長を妨げる原因の一つです。特に牧師、執事、長老格の人たちは要注意です。

 では、「キリストの体」以外に聖書では教会をどのように表現しているのでしょうか。「神の神殿」(コリントⅠ3:16)、「天のエルサレム」(ガラテヤ4:26)、「真理の柱」(テモテⅠ3:15)、「信じた人々の群れ」(使徒4:32)、「神の家」(ヘブライ3:5)、「神のイスラエル」(ガラテヤ6:16)、「花嫁」(黙示録19:7-8)等々、多くあります。
 
 最後に、聖書の中で教会をして聞くべき御言葉をいくつか紹介しましょう。「神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会」(使徒20:28)、「キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになった」(エフェソ5:25)、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」(マタイ16:18)。「イエスは主なり」の告白が教会の土台。これなくして教会は建たない。

ピンチはチャンス

2011-07-12 10:40:31 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2011年7月10日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

 「ピンチはチャンス」 使徒言行録25章1-12節
 
 当時、イスラエルの国を統治していたのはローマ皇帝から派遣されていた総督だった。総督フェリクスの後任はフェストゥスであった。彼は有能なローマの役人であったらしく、着任すると、ただちにエルサレムに上った。祭司長や最高法院の議員たちは、再びこの機会をとらえて、パウロを殺そうという陰謀を図り始めた。彼らは、フェストゥスに、パウロをエルサレムに呼び出すように取り計らっていただきたいと、しきりに願ったが、フェストゥスが、この特別な要求に応じてくれないので、次に、彼らは、カイサリアまで訴え出て、正式な裁判を開く手続をとった。
 
 エルサレムから下ってきたユダヤ人たちが、前回と同様(24:5-7)の罪状を申し立てた。①律法違反 ②神殿を汚す ③皇帝に対して騒乱罪。しかし、証拠となるものがなにもない。フェストゥスは、ユダヤ人の訴えが、事実に基づかない偽りのものであることをよく承知していたが、ユダヤ人たちの歓心を買おうと思って、「パウロさえよければ、エルサレムで裁判してもよいのだが」と、パウロの意思を聞いた。この質問こそ、パウロが長い間望んでいた、首都ローマ行きを実現させるきっかけになった問いだったのである。
 
 パウロは、「ローマへ行って皇帝から、直接に裁きを受けたい」と、はっきり、力強く答えた。パウロの願いは、何としても、ローマに行き、キリストの福音を宣べ伝えることだったのである。パウロは、総督の交代の間2年間、獄につながれていた。しかし、今ここで見たように、総督の交代の時が来た。そのことが、新しい局面を開き、パウロが長年切望していた、ローマ行きが実現しようとしているのである。けれどもパウロは、全く思いもよらない仕方で、ローマに行くようになった。つまり未決の囚人として行くのである。パウロがローマ書の最初のところで書いているが、「ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです」(1:15)という願いが、今、達成されようとしている。祈りは聞かれた。しかし、それは全く別な形で聞かれたのである。扉が開かれる時、それは向こう側から開かれる。しかも、私たちの側には、何もないような仕方で開かれる。そうなると、もうパウロの計画ではない。まして初代教会の伝道計画などではない。ただ神の偉大な計画が行われているにほかならないと言えるだろう。「エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない」(23:11、19:21、27:24参照)という神の必然(ご計画)が遂行されるためであったのである。
 
 人生おいてピンチ、全く状況がよくない、もう駄目だと思うことがある。パウロはこのピンチを今皇帝に上訴するということで活路を見いだそうとする。そのことが、思いがけない形、未決の囚人としてではあるが、結果的に彼のローマ行きを約束するものになった。ピンチの時こそ、信仰がチャンスをつかむ時でもあるということではないだろうか。ここで教えられるのは、常に私たちの人生の背後に、神の愛の配慮、ご計画があると言うこと。しかし、私たちはそのことが分からない、気づくことの鈍い者である。私たちにできることは、きっとそこに神さまの深いお考えがあるということ、神さまは決して私たちを見はなさない、万事を益としてくださると信じること、神の愛に信頼して、願いを持って励むことである。その時にピンチがチャンスとなるであろう。

祈れない時の祈り

2011-07-11 09:29:39 | 牧師室だより

牧師室だより 2011年7月10日 祈れない時の祈り

 3週続けて「祈り」について書いてきましたが、今週は祈れない時の祈りについて考えてみました。
 
 神への祈りは、常に感謝と賛美の言葉で祈らねばならないのでしょうか。人は時に辛い思いをもって今日という一日を生きねばならないこともあるでしょう。朝目覚めると今日一日の重苦しさを体に感じ、夜寝る時にはいっそこのまま眠り続けて目覚めないでほしいと願うことも珍しくありません。そのような時、口から出る祈りが感謝と賛美にあふれるとはとても思えません。むしろ愚痴と嘆きではないでしょうか。
 
 聖書の詩編5編は嘆きの歌と言われています。「主よ、……つぶやきを聞き分けてください。……朝ごとに、わたしは御前に訴え出て」(1-4節)とあります。朝目覚めるごとに、この詩篇作者はつぶやきが口について出てくるのです。これを不信仰というのでしょうか。これを不信仰というならば、口先だけの感謝と賛美の方がもっと不信仰と言わねばならないでしょう。

 この作者は、神が「つぶやきを聞き分けてくださる」お方であることを知っています。いや、確信をもって信頼しています。だからこそ、「あなたに向かって祈ります。……わたしは御前に訴え出て/あなたを仰ぎ望みます」と祈るのです。

 「つぶやきを聞き分けてください」とは、つぶやきだけを聞いてくださいと言っているのです。神はつぶやきを聞いてくださいます。神に向かって、つぶやくことができる信仰を持っている人は幸いです。神は本音を聞いてくださるお方であります。

 しかし、私たちは耐え難い嘆きの時、果てしない悲しみが続く時、神は一向に慰めを与えてくださらないかのように思われて、「わたしたちはどう祈るべきかを知りません」(ロマ書8:26)と途方に暮れることがあります。祈りどころではないのです。しかし、聖書は「“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださる」(ロマ書8:26)と約束しています。それもなんと私たちと同じように「言葉に表せないうめき」でもってとりなしの祈りをされるのです。ここに神の愛があります。

ミニトマト

2011-07-09 15:16:38 | 
昨年は育て方も知らず、テキトーだったのであまり収穫もできず、
今年は改めて挑戦。毎日水やり、摘芯、適度な肥料と手入れすると
たくさんの実をつけ始めた。
人を育てるのと同じ。適度な手入れが大切。
過干渉、過保護は子育てに失敗する。話が飛びましたね。
子育て論議はまたの機会に。

桔梗

2011-07-09 15:00:39 | 
昨年、150円で買った苗でしたが、冬を越えて、
今年は何倍も増えて、見事に咲いています。
いとおしく思われます。品のある色、形、咲き方で、
すっきりして好きですね。
桔梗は秋の七草。ちなみに秋の七草は次の通り。
女郎花(おみなえし)、尾花(おばな、ススキのこと)、桔梗(ききょう)、
撫子(なでしこ)、藤袴(ふじばかま)、葛(くず)、萩(はぎ)