平塚にあるキリスト教会 平塚バプテスト教会 

神奈川県平塚市にあるプロテスタントのキリスト教会です。牧師によるキリスト教や湘南地域情報、世相のつれづれ日記です。

バチカン 自己批判 

2014-12-29 07:57:43 | 牧師室だより

牧師室だより 2014年12月28日 バチカン 自己批判 

 先週のクリスマスイブ、夕刊のある記事に目が釘付け。見出しに「バチカン 15の病」とある。記事を読んでビックリするやら驚くやら(同じことか)、感心するやら、う~んと考え込んだり。

 「自らを批判し、改善できない法王庁(バチカン)は病気だ」と、ローマ・カトリック教会のフランシスコ法王は、枢機卿らに向けたクリスマスのあいさつで、バチカンの官僚主義的で内向きな体質を厳しく批判した。法王の勇気に拍手。「バチカンが患う15の病気」とは?

 ①自分たちが不滅で不可欠だという感覚「自らを批判し改革できない法王庁は病気だ」
 ②働き過ぎ「仕事をしたら休むことが必要」
 ③心が石のように頑固になること「泣いている人と共に泣き、喜ぶ人と共に喜ぶ。人間的な繊細
  さを失うのは危ない」
 ④計画しすぎること「計画を変更しない方が楽かもしれないが、神のみ心に従う自由を失っては  いけない」
 ⑤調和なく動くこと「和が乱れれば、雑音が混じる楽団のようになる」
 ⑥精神的な「認知症」「神との出会いを忘れた者がいる」
 ⑦張り合ったり虚飾に走ったりすること 
 ⑧存在の「統合失調症」「現実の人と向き合わず、官僚主義的な仕事に収まっている」
 ⑨陰口を言う「はっきり物の言えない臆病者の病気だ。『蔭口というテロ』に警戒を」
 ⑩上司を神格化する「出世第一主義と日和見主義の餌食だ」
 ⑪他者への無関心 
 ⑫お葬式のような深刻な顔「伝道者は喜びを伝えなければならない」
 ⑬物欲 
 ⑭閉じられた「内輪」を優先する 
 ⑮世俗的な利益を求め、見えを張る。

 以上です。過激にして実直、そして信仰者としての主への熱い思いが伝わる。主イエスが祭司や律法学者、バリサイ派の人々を激しく批判したみ言葉を思い出す。同時にそれは我々に向けられているのだ。

元旦礼拝のご案内

2014-12-26 10:34:00 | 教会行事

一年の始まりは元旦礼拝から。

2015年1月1日(木)11時~12時
平塚バプテスト教会 礼拝堂

信者でない方もどなたでも出席できます。
とくに用意する物はありません。
礼拝の中で自由献金があります。金額は任意。
託児室有り、駐車場は会堂の裏に有り。

一年のスタートを聖書の御言葉を聞くことから始めませんか。

万軍の主の熱意

2014-12-25 12:17:25 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2014年12月24日キャンドルサービス 杉野省治牧師

 「万軍の主の熱意」 イザヤ書9章1~6節

 このイザヤの預言は、もともと前8世紀、アッシリアの侵略に対して、王なるメシア(救い主)を起こし、これを打ち滅ぼすことを告げたものだ。そのため王として生まれる幼子は「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と讃えられるのであり、神の支配を地上にもたらす者とされる。

 当時すでに北イスラエル王国は滅ぼされていた。そこでイザヤは、南ユダの国で新しく即位する王ヒゼキヤへの期待を込めて、預言した。それは、アッシリアに勝利し、その支配をはねのける軍事的メシアの姿だった。期待とは裏腹に、ヒゼキヤはそのようなことは実行できず、この預言は実現しなかったかと思われた。しかし、これが後に、幼子イエスのご降誕を預言するものとして読み継がれてきたのである。

 1節で「闇の中を歩む民は、大いなる光を見」とイザヤは告げている。この「見る」は過去形の言い方である。正確に言うならば、いまだ見ていないが「見た」と言えるほどに確かな約束であると言っているのである。だから、マタイ福音書では、主イエスがいよいよ伝道を開始されるときにこの預言を引用している(マタイ福音書4章14-16節)。

 2節は人間が自分の努力、自分の力で喜ぶのではなく、神がしてくださるゆえに神の前で喜ぶことを言っている。3節の「ミディアンの日」とは、士師ギデオンがミディアン人を打ち倒した日のことであるが、それは神がミディアン人を打たれたのであって、決してイスラエルの人々がミディアン人に勝ったのではない、神が業をなされているのである。

 4-6節は、そんなことができる可能性がどこにもなかった時に、イザヤが行なった預言である。この預言、必ず成就するとの信仰は、「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた」という過去形で表される。前にも言ったように、未来に起こることであっても、それが確かに起こることであるならば、すでに起こったと同じであるとの意味がここにはある。

 そして、長い時を経て、王なるメシア(救い主)到来の預言は、神の確かな約束に基づいてベツレヘムの家畜小屋に生まれた幼子イエスに成就したのである。マタイ福音書には、占星術の学者たちが登場し、幼子を拝し、黄金、乳香、没薬を捧げたとある。幼子が王であることを明らかにしているのである。しかも、彼らはそれを礼拝という形で表した。

 イザヤは言う。「万軍の主の熱意がこれを成し遂げる」。私たちは「万軍の主の熱意」、「神の熱い思い」「神の愛」、そのことの成就としてのイエス・キリストのご誕生とその生涯、とりわけ十字架と復活の出来事のゆえに、どんな(闇など)状況の中にあっても、望みを持って生きていけるわけである。神に信頼し、委ね、希望の光を見詰めつつ歩んでいこう。

マリアの信仰

2014-12-24 09:59:43 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2014年12月21日 クリスマス礼拝宣教 杉野省治牧師

 「マリアの信仰」 ルカによる福音書1章26-38節

 マリアは天使ガブリエルから突然、一方的に告げられる。「あなたは神から恵みをいただいた」(1:30)。それは主イエスを宿すというということだった。聖書はそこに「聖霊の働き」があることを伝えている。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」(1:34)。そう答えるマリアに、天使ガブリエルは答える。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」(35節)。マタイ福音書においても「聖霊によって身ごもっている」「胎の子は聖霊によって宿った」(マタイ1:18,20)と書かれている。

 クリスマスは神の出来事である。神の出来事というのは、突然であり、最初は神から、それも一方的に働きかけられる。聖霊の働きが必ずそこにある。だから、その事柄は私たちにはよく分からない。マリアが戸惑い、受け入れ難かったのは当然であろう。私たちの理性や経験、常識を越えている。人間が考えたり、つくり出した出来事ではなく、神のなさる出来事なのである。

 そして、聖霊はマリアを用いられる。マリアの信仰を通して働かれる。「マリアは言った。『わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように』」(38節)。これが聖霊によってもたらされたアドベント(待降節)の信仰告白である。そして教会の信仰の模範でもある。これによって、信仰者はキリストを受け取り、そしてキリストを世に伝え、世にもたらす。

 「お言葉どおり成りますように」というだけでなく、マリアは、「わたしは主のはしためです」と告白する。神の選びを肯定し、神が主であり自分は従であると告白する。だから「この身に成りますように」と服従の決意を表わす。漫然と信じているのではなく、恵みによる決定を受け入れ、「この身に成るように」と自分を差し出す。自分の身に引き受ける決意的な服従がある。そこには神への信頼がある。そして御言葉のなる場所として自分の身を捧げる献身がある。冒険がある。

 言うまでもなく、まだ夫のない身で「お言葉どおり、この身に成るように」ということは、非常に危険なこと。苦労の多いこと。イエスはヨセフの子ではなく、「マリアの息子」(マルコ6:3)と呼ばれ、さらには伝承ではローマ兵との間の子といった非難まで生じた。「この身に成りますように」には「信仰の勇気と冒険」が表わされている。それだけ真剣な神への信頼(信仰)があったということである。

 神と人間の出会いは真剣な信頼の冒険を伴っている。この冒険の内容は、神を信頼し自分をゆだねる冒険である。父なる神は独り子である御子を世に遣わされた。御子は人となって世に降り、十字架にまで身を低くされた。聖霊はおとめマリアに降り、私たちに注がれる。クリスマスはこのようにしてご自身を差し出された神を恵みとして受け取ることである。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」。このマリアの決意以前に、まず神がご自身を差し出しておられるのである。クリスマスの信仰には、根本にこの神への信頼(信仰)の冒険がある。勇気がある。「この身に成りますように」。恵みに対して謙虚であり、従順であることは、大胆な勇気を生み出すのである。

 クリスマスは、私たちの人生が無意味ではなく、神の恵みが成る場所とされ、神に仕えるものとされるときでもある。

愛・最高の道

2014-12-23 16:53:49 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2014年12月14日 主日礼拝宣教  杉野省治牧師

 「愛・最高の道」 コリントの信徒への手紙13章1-13節

 愛が最高の道であり、それを求めて熱心に励むよう(12:31)、パウロは続けて「愛の讃歌」と呼ばれるこの13章を書いている。

 1~3節では、異言、預言、知識、特別な信仰、施しや犠牲がなされても、「愛がなければ」すべては無に等しく、何の益もないと断定されている。つまり、どんなに優れた賜物でもそれを生かすか殺すかを決めるのは「愛」であるというのだ。それは愛の本質を言い当てている。
 
 次に、4~7節で愛の働く姿を示す。愛は具体的に働く姿として示されている。特に注目すべきことは、否定形で愛の姿が語られていること。「ねたまない、自慢しない、高ぶらない、礼を失しない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みを抱かない」。これはよく考えてみると、コリントの教会の中で、自分たちは霊の賜物を受けていると主張している人たちが実践していない働きではないか。では、私たちはどうだろうか。問われている気がする。

 よくキリスト教の愛は消極的ではなく、積極的であると言われるが、その前に愛はもっと慎み深く、他の人を傷つけたり苦しめない控え目な姿をとることを忘れてはいけないだろう。さらに、愛の働きのリストの初めと終わりに「忍耐強い」と「すべてを忍び、……すべてに耐える」と記されている。現代のように「キレる」時代に生きる私たちにはとてもよく分かる気がする。積極的には「情け深い、真実を喜ぶ、すべてを信じ、すべてを望む」と言われている。これはキリストが歩まれた道を思い出させる。
 
 8~13節には、他の賜物はこの世で一時的なものとして与えられているのに対して、「信仰と、希望と、愛」はいつまでも残ると言われていて、さらに「その中で最も大いなるものは愛である」とされている。預言も異言も知識もやがて、やがてというのはキリストの再臨の時だが、その時それらは確かに不要のものとされ、神によってすたれるものとされる。しかし、愛はそうではない。なぜなら、神ご自身が愛であるからである。完全な愛の支配が実現するからである。神の国こそ愛の支配する国そのもの。
 
 この神の愛が私たちの心に注がれ、私たちのうちに生きて働く。聖霊の導くによって。ここ示されている「愛」は「キリスト」と置き換えることができるだろう。私たちのうちに生きて働くキリストを見ることは可能である。だから、パウロは「あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい」と勧め、「あなたがたに最高の道を教えます」と言ってこの13章を書いている。教会で何が一番大切なものとされているだろうか。牧師も信徒も本気で、愛を一番大切な、最大のものとして、熱心に追い求めているだろうか。

イブ礼拝(キャンドルサービス)ご案内

2014-12-23 13:01:19 | 教会行事

イブ礼拝(キャンドル・サービス)のご案内

日時:2014年12月24日(水)19:30-20:30
場所:平塚バプテスト教会 会堂

キャンドル(ろうそく)の明かりの中で
聖歌隊の賛美、牧師の説教、お祈り、
みんなで賛美などのプログラムです。
美しいスライドも映し出されます。
信者でなくてもだれでも出席できます。
用意する物は特にありません。
礼拝の中で献金が有りますが、自由です。
会堂の裏に駐車場があります。
小さなお子さんがおられる方は託児室があります。
事前にお電話くださると幸いです。
0463-33-2320

よいクリスマスをお過ごしください。
お祈りします。


クリスマスの精神 

2014-12-22 16:22:44 | 牧師室だより

牧師室だより 2014年12月21日 クリスマスの精神 

 これは米国の作者不詳の文章です。「もしもヘロデ王のごとく、物質で際限なく人生を埋め尽くすならば、もしも自分自身に価値をまったく認めずに人生を行動で埋め尽くすならば、三人の博士たちのように砂漠を越える長い、遅々とした旅をする暇があるだろうか? 羊飼いのように星を見上げる暇があるだろうか? マリアのように子どもの誕生を待つ暇があるだろうか? われわれにはそれぞれ越えるべき砂漠がある。見つけるべき星がある。われわれの中に産み出さなければならない命がある。」

 私たちは博士たちのように砂漠を越える旅をする時間を取ること、羊飼いのように時間をかけて星を見つけること、命の誕生を心静かに待つことができるだろうか。「静まって、わたしこそ神であることを知れ。」(詩編46:10口語訳)の御言葉が響きます。

 さて、チャールズ・ディケンズ(19世紀の英国の作家、『クリスマス・キャロル』の作者)が嘆いています。「ああ、クリスマスが一年中続けばよいのに。クリスマスの精神が、心の中で一年中生きていたらよいのに」。

 クリスマスの精神とは何でしょうか?クリスマスの精神は、愛すべき神の本質と同じく、聖なる神秘なのかもしれません。クリスマスの精神とは、物はどんなに美しくてもしょせん物にすぎないのだ、と魂が知ることなのかもしれません。私たちは何かをするためばかりではなく、ただ存在するためにも創造されたのだ、と魂が受け入れることかもしれません。

 私たちの命は神からの贈り物であり、それをどう使うかが私たちの返礼の贈り物だと言われます。クリスマスのプレゼント交換だけに終わらせたくないものです。私たちの一日一日の命をいつくしみ感謝して生きていくこと、その命を隣人のために用いていくこと。クリスマスはそれを静かに思い起こし、決意する最適な時です。

 陽気な大騒ぎの陰で、静かな黙想と心の平安が持てますように。

クリスマスってな~に?

2014-12-15 07:48:35 | 牧師室だより

牧師室だより 2014年12月14日 クリスマスってな~に?

 今では日本でクリスマスという言葉を知らない人はいない。12月に入ると商店街やデパートではクリスマスセールが始まり、最近では大掛かりなイルミネーションがあちこちで輝き始める。プレゼント交換やクリスマスパーティーも盛んに行われ、クリスマスケーキは家庭のパーティーでは定番。

 でも「クリスマスってな~に?」と聞くと分からない人が多い。サンタクロースの誕生日だと思っている人もいるようだ。クリスマスは主イエスの誕生をお祝いする日である。12月25日に祝った最初の記録は336年のことだと言われている。

 もともと「クリスマス」はラテン語のChristes Maesse(クリスト・マス)で、「キリストのミサ(礼拝)」である。Xマスって書いてあるのは、キリスト(救い主)のギリシア語の頭文字Ⅹを用いて、Xマスと書き表わしているもの。

 クリスマスは「キリスト(救い主)礼拝」なので、金や富、地位や名誉を救い主(人生最高の価値)としている人にとっては単なるイベントでしかないだろう。また、マタイ福音書は主イエスの誕生の話を聞いて、ヘロデ王やエルサレムの人々は不安に思ったと記している。

 「メリー・クリスマス」は「クリスマスおめでとう」だが、なぜおめでたいのか、なぜお祝いするのだろうか。それは、なぜ主イエスはこの世に来られたのか、お生まれになったのかということになるだろう。ヨハネ福音書に「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(3:16)とある。

 主イエスご自身が「わたしは○○のために来た」と言っているところを見てみよう。「罪人を招くため」(マタイ9:13)、「仕えるため」(マルコ10:45)、「失われた者を救うため」(ルカ19:10)、「命を受けるため」(ヨハネ10:10)などある。ここに神の無条件で無限の愛がある。その愛を喜び分かち合うことこそ、クリスマス。

教会はキリストの体

2014-12-11 11:10:19 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2014年12月7日 主日礼拝宣教  杉野省治牧師

 「教会はキリストの体」 コリントの信徒への手紙12章12-31節

 教会はキリストの体である。これはパウロの教会理解の根本的命題である。ここでは二つのことが強調されている。一つは、教会のメンバーの多様性、他の一つは相互に依存していること。
 
 まず、教会は、一つの霊によって異なった社会的身分の者たちが「一つの体となるために」バプテスマを受けたこと(13節)。何か予め所有している性質とか背景があるので一つになっているのではなく、共に同じ一つの霊に与かることによって一つの体にされている、ということが大前提になっている。私たちの共通点は聖霊に導かれてバプテスマを受け、キリストの体と一つにされたことである。
 
 だから、体は多くの部分(メンバー)から成り立っているけれども体は一つであると言い、そのことが直ちに教会に当てはまることを「キリストの場合も同様である」(12節)と言って確認している。
 
 14~20節では足、手、耳、目などの例をあげて、体の部分の多様性とその尊さを語っている。「神は、ご自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです」と言い、多様性は神のご計画であると語っている。しかし、現実には教会のメンバーの多様性を神の祝福として受け止めるのは、それほど簡単なことではない。そこに、13章の愛の尊さが言われなければならない理由があるのだろう。
 
 21~26節では、多様性の中に相互に助け合うことの必要性と一致が語られ、特に「弱く見える部分が、かえって必要なのです」と強調されている。このことは、言葉としては分かる気がするが、実際に教会に中に弱い人(たとえば病気の人)がいて、いつも他の人に助けられなければ生きてゆけないとき、教会は苦しみを味わう。しかし、その苦しみを通して、愚かで高慢な私たちは、その人が教会に存在してくれることがどれほど教会の祝福になるかを、後になって学ぶのではないだろうか。
 
 26節で、その点をパウロは語っている。「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共によろこぶのです」。共に生きる教会の姿である。これは単なる現実というよりも、課題として主から期待されている教会の姿である。これを現実とするために霊の賜物が与えられているのだから。
 
 27節~31節では、再び霊の賜物に話を戻して、神が教会にお立てになった人を列挙している。使徒、預言者、教師などなど。これは霊の賜物を全部あげているわけではないが、皆が同じ賜物を与えられていない点が重要であろう。比較したり羨んだりしないようにとの意図がある。
 
 教会はキリストの体。その体は…多くの部分からなっているが、一つの霊、一つの体。部分はそれぞれ違う、その多様性を認め、互いに助け合う。特に弱い部分が必要。互いに必要としている。賜物は違う。もっと大きな賜物を受けるよう熱心に求めるよう勧められている。

二つの時の物語

2014-12-08 11:15:50 | 牧師室だより

牧師室だより 2014年12月7日 二つの時の物語

 時間を手中にした聖人、詩人、学者、賢人、哲学者たちは何世紀にもわたって時の謎について思索してきました。そして時の二重性を見つけました。彫刻家で詩人のヘンリー・ヴァン・ダイクは次のように説明します。「時は/待つ者には遅すぎる/恐れる者には速すぎる/悲しむ者には長すぎる/喜ぶ者には短すぎる……」。

 生きている日々に心の平安を得るためには、時の二重性、ギリシャ語でクロノスとカイロスと呼ばれているものを知らなければなりません。

 クロノスは時計、締め切り、カレンダー、スケジュールです。クロノスは追いかけます。クロノスは電車に乗り遅れないように老人が階段を駈け上がるようなものです。クロノスは自分のことしか考えません。待ってくれません。クロノスはこの世の時間です。

 カイロスは超越、無限、崇拝、喜び、情熱、愛、神聖です。カイロスは自由にします。カイロスでは闇のトンネルから抜け出せます。カイロスは大いなる存在(神)の時間です。

 私たちはクロノスの時間を生きています。そしてカイロスを憧れます。それが私たちの二重性です。クロノスは無駄に費やされないようにスピードを求めます。カイロスはゆっくりと体験できるように空間を求めます。クロノスで私たちは行動します。カイロスで私たちは存在するのを許されます。

 カイロスなんて経験したことがないと思うかもしれません。しかし、私たちはそれを知っています。愛しあうとき、瞑想したり祈るとき、音楽や文学作品に感動するとき、夕焼けに心静まるとき、情熱がほとばしり出るとき、そんなときがそうなのです。あなたにとってかけがえのないとき、時を忘れるようなときがそうなのです。

 私たちはカイロスで喜びを知り、カイロスで美を見い出し、カイロスで生きていることの素晴らしさを覚え、カイロスで神とつながるのです。自分の生活の中でカイロス(神の時)を持ちましょう。クロノスだけでは生きる喜びはありません。礼拝の時はカイロスです。