平塚にあるキリスト教会 平塚バプテスト教会 

神奈川県平塚市にあるプロテスタントのキリスト教会です。牧師によるキリスト教や湘南地域情報、世相のつれづれ日記です。

サマーナイト礼拝のご案内

2017-06-26 18:36:43 | 教会行事

恒例の子どものためのサマーナイト礼拝のご案内

日時:2017年7月23日(日)16:00-20:00
場所:平塚バプテスト教会

参加申込を必ずしてください。先着20名まで。
電話:0463-33-2320
メール:hiratsukabap@pro.odn.ne.jp

幼児から小学生まで。
楽しい夏の思い出を作りましょう。

離れて見る 

2017-06-26 13:31:12 | 牧師室だより

牧師室だより 2017年6月25日 離れて見る 

 離れて見る。そうして見えてくるもの、気づくものがある。ときに離れて見ることは人生において必要。日常生活から離れ、非日常の時と場所に身を置くのだ。たとえば映画やコンサートに行く、旅をするなどは手軽な手段だ。日本を離れ海外へ旅するのもいい。家庭や職場から一時離れる。教会の礼拝に出席することは、まさに日常生活の場所、時間から離れて、自らを見る大切な時間となるだろう。

 個人のレベルだけではない。人類史上初めて自らの住む地球を離れて、自らの星を一つの対象として眺めるという体験をした宇宙飛行士。彼らの感想をまとめると次のようになるという。①この神秘的な、青く美しい、いのちあふれる星が、暗黒の宇宙のただ中に存在するのはまさに奇跡であり、とても偶然とは思えない。②それは一つの小さな星であり、もとより国境などのない星だ。人類はたった一つの乗り物に乗った運命共同体であり、争うことはむなしい。③その環境は非常にもろく、壊れやすく、はかない星であり、次の世代のためにこの星をあるがままの状態で守ることは、すべてにまさる急務だ(『星言葉』晴佐久昌英著 女子パウロ会 1997)。

 これらは、当たり前といってしまえばその通りだが、その当たり前のことに気づくために、人類ははるばる宇宙へ飛び立たなければとならなかったということだ。何かおかしいと感じていても、そのただ中にいるうちは、なかなか気づきにくい。自らの国や文化、仕事や家庭など、愛する対象を離れて眺めるまなざしを持ちたい。愛するがゆえに離れる勇気もときにはほしい。

 愛は、対象への盲目的埋没ではない。むしろ愛は、「私とあなた」を縛り付ける惰性と依存を振り切って、「本当のあなた」が見えるところに身をおいてこそ獲得できるのだ。子離れ、親離れ、時には夫離れ、妻離れも必要だろう。金離れ、物欲離れも必要か。あなたは離れられますか?

義とされる者は

2017-06-21 17:36:22 | 説教要旨

<先週の説教要旨> 2017年6月18日 主日礼拝 杉野省治牧師
「義とされる者は」ルカによる福音書18章9~14節
       
 このたとえの眼目は、義とされる者は誰か、ということ。義とされるとは、神に「よし」とされ、神に受け入れられること。神が私たちとの間に、欠けや不安のまったくない十全な交わりを結んでくださり、共に生きてくださることである。

 ファリサイ派の人の祈りは、「わたしはほかの人たちのように、……でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します」とあるように、人と比べて見下している傲慢さに問題がある。それは、祈りながら、彼の目は、神さまにではなく、人に向いていることにある。見比べて自分を誇っている。そこに、生活態度としては申し分のないこの人の祈りに隠された偽善が見え隠れしている。

 もう一人の登場人物、徴税人の態度は正反対。「徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください』」(13節)。人は、無意識の内に過ちの言い訳を探して生きている。そしてその道はいつでも、いくらでもある。自分の生きている現実を誤りなく、ごまかしなく見ることは本当に難しい。人には厳しく、自分には甘い、それが人間の本性。 しかし、この徴税人は「罪人のわたし」と告白している。それは、神の前に出てはじめて明らかになる生の現実である。

 では、神の前に出るとはどういうことだろうか。それは神はどのように見ておられるか考えてみることではないか。神の言葉である聖書に照らして自分を返り見ることである。聖書のみ言葉をどう読むか、どのように聞くかでもある。

 ファリサイ派の人の顔はおそらく堂々と天に向けられていただろうが、心は神にではなく、人に向いている。しかし、顔を天に上げようともせず、うつむいて胸を打つばかりの徴税人の心は、すべてを知っておられる神の前に一人立っている。もし、ファリサイ派の人がこの徴税人と同じように神のみ前に立っていたら、人を見下して自分を誇る偽善が暴かれ、徴税人と同じ告白をせざるを得なかっただろう。

 そして、イエスは言われた。「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない」(14節)。聞いていた人々は、この言葉に言いようのない衝撃を受けたと思う。だれもがファリサイ派の人が義とされ、徴税人は捨てられると思っていた。恐らく徴税人自身もそうだろう。このイエスの言葉は、その世間的常識を根底からひっくり返す、驚くべき宣言である。

 イエスに「義とされて家に帰ったのは」と言われた徴税人は、その後、神と共に、それまでの生活を清算して新しく出直したことだろう。彼は、目の前に開かれた、まだ一度も歩いたことのないこの新しい道に踏み出していったことだろう。

 イエスは、このたとえを通して、この出発点にすべての罪人を招いておられる。罪の現実を認め、御前に告白する者を丸ごと受け止め、義としてくださる神の前に私たちを招いておられる。そこから、神が私たちの全存在を担ってともに歩いてくださる神との新しい生活が始まるのである。義に生きる生活。

平塚バプテスト教会前史

2017-06-19 11:10:00 | 牧師室だより
 
牧師室だより 2017年6月18日 平塚バプテスト教会前史

 今日(6月18日)は当教会の教会組織67周年に当たる記念の日である。そこで少し教会の歴史を振り返り、神の導きと恵みの数々を想起し感謝したい。

 当教会の『創立50年誌』(2000年発行)の年表に「1946年(昭和21年)10月 長尾三二牧師居宅にて伝道開始」とある。これが平塚バプテスト教会の伝道開始とされている。しかし、教会の前史ともいうべき苦難の歴史がある。『創立50年誌』にO兄が次のように書かれている。「この度、数少ない資料や写真を整理しながらある感慨をもった。私たちの教会は、上記の歴史以前に、幾人かの先達が戦時下宗教弾圧の中でも堅く保持した“生ける神の子キリストを告白する信仰(岩)”の上に建てられていること、それを継承していくことが私たちの責任であると深く思わされたのでる」。

 初代牧師である長尾先生は戦時中信仰弾圧に遭われた。以下、O兄の寄稿を参照にしてまとめてみた。1942年(昭和17年)6月26日に元ホーリネス教会の牧師たちが治安維持法並びに宗教団体法に対する違反容疑で全国一斉に96名が検挙された。その中に長尾牧師も含まれていた。当時37歳。その後、10ヶ月間拘留され、1943年(昭和18年)4月23日に釈放される。獄死した牧師もおられた。

 今まさに日本はかつての悪法「治安維持法」に通ずる「共謀罪」法案を国会で成立させた。特定秘密保護法、安全保障法制なども数の力で成立させている。他人ごとではない。教会も共謀罪の捜査の対象にならないという保証はどこにもない。

 さて、戦後いち早く平塚で伝道されていた長尾先生は、1946年、目白ヶ丘教会の熊野清樹(ゆや きよき)牧師によってバプテストの群れへと導かれ、その後(1948年10月)目白ヶ丘教会平塚伝道所として福音宣教を進められた。その間、1947年4月、目白ヶ丘教会を含む全国16の教会によって、日本バプテスト連盟が結成されている。今年は連盟結成70周年である。

 このような教会設立までの前史を持つ平塚教会はこの平塚の地において「世の光、地の塩」として福音を宣べ伝える働きをこれからも担っていきたい。先輩たちの苦難の歴史を忘れてはいけない。

あなたの信仰があなたを救った

2017-06-13 12:13:46 | 説教要旨

<先週の説教要旨> 2017年6月11日 主日礼拝 杉野省治牧師
「あなたの信仰があなたを救った」 マルコによる福音書5章25~34節

 12年間も長血を患っていた女性は、「イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた」(27節)。そこに彼女の信仰が表現されている。この信仰によって、彼女は主の恵みの力にあずかり、癒された。そして主イエスから「あなたの信仰があなたを救った」と言われた。しかし、この女性を癒し、救ったのは、彼女自身の力ではなく、「イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて」(30節)とある通り、主イエスの内にある癒す力であった。

 彼女は、主イエスの癒しの力をその身に感じ取っただけである(29節)。主の力が感じ取られ、救いが「私のもの」となったのである。それが彼女の信仰である。そのような信仰とは、何の資格も能力もないのに、にもかかわらず、恵みの力を受け取ること、癒しの力に捉えられることによる。だから信仰は、自分には何の資格もないという困難を越えていく。自分はふさわしくない、自分には価値がない、しかしその価値なき状態にもかかわらず、それを超えて生かされること、赦され、癒されたことを受け取ることによる信仰である。そしてそれは聖霊の導きによる。
 
 しかしなぜ、彼女はそうできたのか。それは、「『この方の服にでも触れれば癒していただける』と思ったからである」(28節)と記されている。しかし重大なことは、いずれにせよ、彼女があらゆる「迷い」や「ためらい」を越え、あるいは「妨害」を越えて、「キリストの服(衣)に触れた」ということである。その理由は一つ。彼女はいかなる障害にでもなく、主イエスご自身に捉えられていたということである。言い方を変えれば、主は、その背中で赦し、招いてくださっていたのである。神の愛の招きが、その背にはっきりと表れていた。だから彼女は主に触れることが出来た。それが聖霊の導きによる信仰である。彼女は病に捉えられていた。しかしそれ以上に主イエスに捉えられたのである。そして信仰によって癒しを受け取ったのである。

 信仰とは、主の恵み、主の愛にどんな時にも、何にもまして捉えられることである。そしてその招き、呼びかけにどんな時にも応えることである。恵みに捉えられていることによって、あらゆる障害、妨害を越え、その恵みの方、主イエス・キリストに触れていくことである。それによって病から自由になることである。癒しを受け取ることである。それが信仰である。そしてそこから命が与えられる。そして義が、また健やかさが与えられる。

 信仰は誰にとっても、常に、障害を越えて行かなければならないものである。信仰生活で、試練を受けない生活はない。しかし越えることの出来ない障害は何一つない。主イエス・キリストの愛に捉えられ、癒しを受け取る信仰にとって、越えることのできない障害は、何一つない。主の愛と癒しの力が、あらゆる障害を越えて、私たちを捉え、生かしてくださるからである。

育てる 

2017-06-13 12:08:30 | 牧師室だより

牧師室だより 2017年6月11日 育てる 

 かつて先輩の教師と雑談をしていた時、「私、庭の花にお水をやる時、花に話しかけるのよ。そうするときれいに咲くのよね」と言われた。聞いていた私は「そんなことってあるのかな?」と半信半疑だった。そのあと、その教師は続けた。「子どもたちにも言葉がけが必要なのよ」。

 何の変哲もない一粒のトマトの種から、一万二千個のトマトの実る巨木を育てた、有名な植物学者野澤重雄氏は次のように語る。「種によしあしはない。大事なことは、まだ小さい苗のときに、自分はどんどん成長しても必要なものは十分に与えられるんだという安心感があること。そうすれば苗は世界を信じ、疑うことなくどこまでも伸びていく」。

 昔から「親はなくとも子は育つ」といわれ、一方で「親の背中を見て子は育つ」といわれる。どちらも真実だ。すなわち子どもは自力(生命力)で育つが、それにはよいお手本(モデル)が必要ということだろう。本当に子どもは見よう見まねで生きる力、知恵を獲得していく。

 子どもの育つ力には、本当に驚かされる。未熟な親がおろおろしている間に、まるで魔法の木が伸びていくかのようにどんどん成長していく。いったい、この小さな体と幼い心にどんな魔法が働いているのだろうかと、畏敬の念すら覚える。

 子どもは天からの授かりものという。親の所有物ではない。親の言うとおりに育つわけではない。一人の別人格を持った存在として生きる。だから、子どもというかけがいのない宝を大事にしながら、その成長を喜ぶ、感動しながら。

 育てるといっても、親が子どもをつくるわけではない。親や大人にできることは、子どもが育つお手伝いをすることでしかない。お手伝いとは、子どもの育つ力が十分に発揮できるように環境を整えることだ。光と水と空気、栄養と遊べる空間と走り回れる大地、あたたかい人間関係と信頼できることばと明日への明るいビジョン、そして親の愛。これだけそろってゆったりと見守れば、子どもは安心してのびのび育つ。

 「子どもプロジェクト」は教会や地域の子どもたちの成長のお手伝いをさせていただく。私たちにできるお手伝いは?

天からの力を受けよ

2017-06-06 11:47:35 | 説教要旨

<先週の説教要旨> 2017年6月4日 ペンテコステ礼拝 杉野省治牧師
「天からの力を受けよ」 使徒言行録2章1-13節              
 
 エルサレム市内にある「屋上の間」(1:13)で、弟子たちを含む「百二十人ばかりの人々」(1:15)が集まっているところに、聖霊が降ったのは、「五旬節の日」(2:1)であった。この日は過越の祭りから七週間後、すなわち50日目(ギリシア語で「ペンテコステ」)に行っていた祭りの日。旧約聖書の「小麦の刈り入れの初穂の祭り」(出エジプト23:14-17など)に根拠があるとされ、後にユダヤ教ではこの日をシナイ山において、神から十戒を与えられた記念としている。
 
 その日、「みんなの者が一緒に集まって」いた。これは、「教会として集まる」ことを意味していた。炭火もばらばらではうまく燃えない。「呼び集められ」、心を一つにし、共に祈る時、主は私たちの信仰を燃え立たせてくださる。弟子たちは「あなたがたは間もなく聖霊によって、バプテスマを授けられるであろう」(1:5)という主の約束の言葉を信じ、この日も集まって、一緒に集いを持っていた。彼らが祈っていると、突然風が吹くような音が家いっぱいに響き渡った。こうして、復活のイエスが約束された聖霊は、主の約束を心から信じ、熱心に待つ人たちに与えられた。
 
 私たちにとって神の国はすでに来た、五旬節も来た。聖霊はすでに注がれている。そこで私たちの責任があらためて問われる。聖霊が注がれているのに、それを受けていないとすれば、みんなの者が一緒に集まって「約束を信じて待ち望む」ことが欠けているのである。私たちの努力と関係なくすでに五旬節は来た。だから私たちにとっては、一緒に集まって聖霊が注がれるのを待つことが大切なのである。
 
 「突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起こって」とある。聖霊が下るのは突然であり、地上からではなく天からである。このことが示していることは、聖霊が降るとか、聖霊の働きなどは、神ご自身の働きであって、人間的な努力や考えで起こることではないということである。だから、そこに当然、私たち人間の側からすると、戸惑いや驚きが起こるのである。
 
 ルターは次のように言っている。「私が来たのは、平和をもたらすためではなく、剣をもたらすためであると主が言われるように十字架の福音が説かれると世の中が騒然となる。もし私たちがキリストの福音を聞いて疑ったり、驚いたりするようなことがあれば、それこそキリストがそこで働いていてくださる証しである。もし私たちがキリストの福音を聞いて、その通りだと思い、何の疑念も残さないなら、私の知恵は働いているかもしれないが、キリストは働いておいでにならない」。神の起こされる出来事に人間が驚くのは当然であって、驚きがないなら福音ではないということである。神の出来事は全て神の側からの働きかけを受けてなされていくことを覚え、主のみ業を祈り求めよう。そして、私たち一人ひとりが聖霊によって、主に用いられるよう祈りに励もう。

複眼で見、通念を乗り越えて社会を見る 

2017-06-06 11:36:11 | 牧師室だより

牧師室だより 2017年6月4日 複眼で見、通念を乗り越えて社会を見る 

 経済学者の伊東光晴氏(1927年生)が中学生向けに書かれた『君たちの生きる社会』(筑摩書房 1978年)は名著である。この本は、複眼――つまり、いくつもの違った目で、しかも通念(多くの人はそう思っていること)を乗り越えて、社会を見ていくことの大切さを教えてくれる。

 私は、40年前、この本で原子力発電所の「安くて安全」という神話が嘘であることを知った。伊東先生は経済学者らしく、エネルギー量と効率の計算を示しながら、こう結論される。「原子力発電所ほど大飯食らい、つまりたくさんの石油やエネルギーを消費するものはないのです。しかもそれは、多くの人が言うように、発電したあとで出てくる燃えかすが、五百年間にわたって有害な放射能をもつ物質であり、これを封じ込めておくためには、大変なお金と手間とがかかり、今の技術では、それをどうしていいかよく分からないのです。大飯食らいの大ぐそたれと原子力発電所が言われるゆえんです」と40年前にすでに喝破しておられる。

 次の話も興味深い。雷が電気であることを証明したベンジャミン・フランクリンはストーブの発明者でもあるが、彼は特許をとらなかった。それは多くの人が少しでも安く利用できるようにと願ったからだ、という。一方、有名なノーベルはダイナマイトを発明したが、特許をとり、それをもとに工場を作り、会社を経営した。それだけでなく、利益を守るために、親会社(トラスト)を作って、利益を独占した。二人の話を紹介して、伊東先生は次のように言われる。

 「ノーベル賞のノーベルといえば偉い人だと普通は考えられているでしょう。確かに発明したという点では偉い人には違いないのです。だが少し見方を変えると、ノーベルは独占という反社会的なことを行なった人で、偉いどころか、問題の人なのです。社会のことを考える時には、こうした、いくつもの見方が一人の人についてもできるし、する必要がある――これが大切なことの一つです」。

 複眼で見、通念を乗り越えて考える。大切なものの見方、考え方である。神がどう見ておられるか、それも一つの視点。