平塚にあるキリスト教会 平塚バプテスト教会 

神奈川県平塚市にあるプロテスタントのキリスト教会です。牧師によるキリスト教や湘南地域情報、世相のつれづれ日記です。

救い主の誕生の意味

2011-12-29 13:51:45 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2011年12月25日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

 「救い主の誕生の意味」 ルカによる福音書2章1-21節
 
 シリヤ総督キリニウスが最初の住民登録をした時にイエスは生まれたと、ルカは記しているが(2節)、ルカの意図は年代の確定にあるのではなく、むしろ救い主の誕生は歴史的な事件である、ということを主張することにある。皇帝アウグストゥス、住民登録、若夫婦の旅行、旅先でのイエスの誕生はこれを意図している。救い主の誕生は神の出来事であるが、それが私たちの歴史の出来事としてある、ということである。
 
 イエスの誕生の場所についてみると、メシヤは旧約聖書の預言の実現である、とルカが主張していることがわかる。預言によると救い主はダビデ王の家系から産まれる(イザヤ9:6)。またイエスはダビデの町ベツレヘムで生まれる(ミカ5:1)。メシヤは全世界のために生まれたが、具体的な場所としてベツレヘムで生まれた。それは旧約聖書の預言の実現である。

 生まれた幼子は布にくるんで飼い葉桶に寝かされた。それは宿屋ではなくて家畜小屋。飼い葉桶は十字架の先取りでもある(ピリピ2:6以下)。
 
 メシヤの誕生はまず最初に羊飼いたちに告げられた。神殿の大祭司、祭司たちや宮殿の王様、貴族たちではない。羊飼いは納税の対象ではなかったので、住民登録の必要はなかった。言うなれば逆差別。彼らはいと小さき者、貧しき者の代表である。神の使いは彼らを選んだ。神の選びは私たちにとっては不思議な、神の自由な選択である。社会的な地位や宗教的身分の高さ故に、神の選びがあるのではない。また、弱さや貧しさの故に、神が選んだのでもない。強さも弱さも選びの条件ではない。神の自由な選択である。しかし、これが不思議なことであるが、神は弱い者、小さき者、羊飼いを選んだ。この不思議さを私たちは合理化してはならない。
 
 天使の出現に羊飼いたちは非常に恐れた。彼らは自分たちを襲ってくるかもしれない狼や強盗や暗闇自体を恐れはしなかった。彼らは恐れるべき方の出現を恐れたのである。恐れるべき方が誰であるかを知るが故に、それ以外は何も恐れなかった。その恐れるべき方が、「恐れるな」と語りかける(1:30も参照)。喜ばしい知らせを聞いて、彼らは幼子の所に行き、神をあがめた。天使が救い主の誕生を羊飼いたちに知らせた後、おびただしい天使たちが大軍をなして現れ、讃美した。「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ」(14節)。
 
 この世の人々にとっては意味もないように見える飼い葉おけの出来事、取るに足りない野宿の羊飼いたちに知らされたイエス誕生の知らせは、実は神の国においては大いなる出来事であった。また、神の御心を知る者たちにとっては、平安と平和の到来の出来事なのである。だから天使たちは喜びのあまり、じっとしておれなかった。彼らは歓喜の大合唱を始めた。
 
 ボンヘッファーは獄中より婚約者のマリアと両親に宛ててクリスマスの手紙を書き、それに詩を加えた。1944年12月19日のこと。「善き御使いらに真に静かに囲まれて、こよなく護られ、慰められて、私はあなた達と共にこの時期を過ごし、新年へと歩んで行こう」と始める。第5段では「暗闇の中に置いて下さったロウソクの火を、今日ばかりは、暖かく、明るく、輝かせて下さい。御心ならば再び私たちが会えるように導いて下さい。あなたの光は夜、輝くことを、知っているのですから」と歌う。婚約者のマリアと再会することなくやがてヒトラーに殺される定めを前にして、ここでもあの天使たちの讃美への一つの応答の讃美が歌われている。

平塚バプテスト教会信仰告白(試案) 6 救い ②

2011-12-28 14:35:14 | 牧師室だより

牧師室だより 2011年12月25日 平塚バプテスト教会信仰告白(試案)6救い②

 「救いは、自らの罪を悔い改めて告白し、イエス・キリストを救い主と信じる信仰によって与えられる。これによって神に義とされて、永遠の生命に招かれる。救いは、ただ神の愛と恵みによる」。


 罪人が神によって義なる者とされるのは、信仰によってのみである。これが「信仰義認」である。この「信仰のみ」は、律法の「行いによる」義認という、ユダヤ教的・中世カトリック的な教義に対立している。

 パウロによれば、罪に堕ちた人間は律法の遵守や徳の行為によっては、神の栄光を受けることはできない。ただイエス・キリストによるあがないによって、神ご自身が義となることによって、キリストを信じる者を義とされるのである。この時、信仰を人間の心の行為と考えてはいけない。それなら、信仰は、律法の外的行為に対する信仰の内的行為(心がけとか熱心さとか真面目さとか)という、もう一つの「行い」になってしまうからである。信仰義認における信仰とは、第一義的には神の真実(神の約束であり神の愛)であり、これに基づいて第二に人間の応答的信仰という、この二つの合わさったものなのである。

 信仰によって義とされるということは、新しく生まれる(新生)ことでもある。信仰は単に心の内のことではなく、心身の全体に関わることである。キリストの十字架によって新しく生まれ変わった者は、身体も心も根本的に変えられていく。それは自己中心の生活ではなく、神中心の生活、具体的には教会の出来事や交わりを大事にする生活、助けを求めている人々に答えようとする生活である。

 そうすれば義とされるのだということではないが、しかし、信仰は新しい、神と隣人にむかって開かれた、ライフ・スタイルを生み出していく。ここに新生者の自由がある。

万軍の主の熱意

2011-12-21 15:20:59 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2011年12月18日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

 「万軍の主の熱意」 イザヤ書9章1~6節
 
 イエス・キリストの誕生は、旧約聖書の預言が実現された出来事、神の出来事である。そこに主イエスの誕生の大きな意味がある。

 イザヤ書9章のこの箇所の前、8章の終わりの方には絶望の預言が記されている(8:21-23)。しかし、9章の初めのこのところでは希望の預言が書かれている。聖書は絶望、さばき、滅び、そういうことを告げるものでは決してない。そうではなくて、聖書の告げる最終のメッセージは「赦しであり、希望であり、平安」の約束である。そのしるしであり、約束の実現がイエス・キリストの誕生である。

 だから、この聖書箇所は、もともとは前8世紀、アッシリアの侵略に対して、神が王なるメシア(救い主)を起こし、これを打ち滅ぼすことを告げたものだが、これが、幼子イエスのご降誕を預言するものとして読み継がれてきたのである。

 1節で「闇の中を歩む民は、大いなる光を見」とイザヤは告げる。この「見る」は過去形の言い方である。正確に言うならば、いまだ見ていないが「見た」と言えるほどに確かな約束であると言っているのである。だから、マタイ福音書では、主イエスがいよいよ伝道を開始されるときに、この預言を引用している(マタイ福音書4:14-16)。
 
 2節は人間が自分の努力、自分の力で喜ぶのではなく、神がしてくださる故に神の前で喜ぶことを言っている。3節の「ミディアンの日」とは、士師ギデオンがミディアン人を打ち倒した日のことであるが、それは神がミディアン人を打たれたのであって、決してイスラエルの人々がミディアン人に勝ったのではない。神が業をなされているのである。
 
 4-6節は、そんなことができる可能性がどこにもなかった時に、イザヤが行なった預言である。この預言は必ず成就するとの信仰は、「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた」(5節前半)という過去形で表される。さきほども言ったが、未来に起こることであっても、それが確かに起こることであるならば、すでに起こったと同じであるとの意味がここにはある。
 
 そして、長い時を経て、王なるメシア(救い主)到来の預言は、神の確かな約束に基づいてベツレヘムの家畜小屋に生まれた幼子イエスに実現したのである。マタイ福音書には、占星術の学者たちが登場し、幼子を拝し、黄金、乳香、没薬を捧げたとある。幼子が王であることを明らかにしているのである。しかも、彼らはそれを礼拝という形で表した。

 イザヤは言う。「万軍の主の熱意がこれを成し遂げる」(9:6)。私たちは「万軍の主の熱意」、「神の熱い思い」「神の愛」、そのことの実現としてのイエス・キリストのご誕生とその生涯、とりわけ十字架と復活の出来事のゆえに、どんな(闇など)状態の中にあっても、望みを持って生きていくわけである。神に信頼し、委ね、希望の光を見詰めつつ歩んでいこう。

平塚バプテスト教会信仰告白(試案) 6 救い ①

2011-12-19 10:43:00 | 牧師室だより

牧師室だより 2011年12月18日 平塚バプテスト教会信仰告白(試案) 6 救い ①

▲「救いは、自らの罪を悔い改めて告白し、イエス・キリストを救い主と信じる信仰によって与えられる。これによって神に義とされて、永遠の生命に招かれる。救いは、ただ神の愛と恵みによる」。

 う~ん、これではキリスト教用語のオンパレードで、門外漢には難しいでしょうね。これをわかりやすく解説するなどということは至難の業です。でも挑戦してみましょう。

 救いは第一に、イエス・キリストを救い主と信じ受け入れることによって与えられます。これにはもちろん大前提があります。それは、キリストにおいて神が私たちを信じ受け入れて下さっているということ(神が私たちを愛して下さっているということ)です。この愛は無条件で、神からの私たちに対する一方的な働きかけで、すべてに先行している大前提です。ここに神の真実(愛)があります。このことが「救いは、ただ神の愛と恵みによる」という告白です。

 この神の真実は、しかし、応答を求めます。神の恵みは決して「安価な恵み」ではありませんし、また「アヘン(麻薬)」でもありません。むしろ、私たちを目覚めさせ、立ち上がらせ、さらに身体を突き動かします。これらを通して、人間は神に応答することができるようになります。これがイエス・キリストを信じ受け入れることです。

 信じるとは、キリストにすべてをまかせて信頼すること、この方を自分の主としてはっきり認識すること、また外に向かって告白することです。これらすべてを通して、キリストが私たちを受け入れて(愛して)くださったように、私たちもキリストを受け入れる(愛する)ということ、これが信仰の意味です。

 そして第二に救いは、罪の悔い改めが求められます。信仰においてキリストの十字架を自分のものと受ける時、私たちの罪深さが明らかにされます。同時に、キリストのみを主として生きるという方向転換が、つまり悔い改め(回心)が起こります。

 第三に、救いにあずかった私たちは、感謝と喜びを持って、全身全霊をもってキリストに従う者とされます。(次回に続く)

約束は未来に、恵みは過去に

2011-12-13 10:46:55 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2011年12月11日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

 「約束は未来に、恵みは過去に」 フィリピの信徒への手紙1章27~30節
 
 29節の「恵みとして与えられている」は、原文では一語で、直訳すれば「恵まれた」。過去の一回的事実を表す言葉が使われ、バプテスマの時が暗示されている。将来いつか恵まれるであろうというのではなく、過去の事実として、恵まれたというのである。

 そして、ここでまず「信じること」が、神の恵みであると言っている。聖書では一貫して、信じるということの重大さが、強調されている。主イエスはからし種一粒ほどの信仰があれば、山を移すことができると言われた(マタイ17:20)。またパウロは信仰によって人は義とされる、救われると強調している(ローマ1:16など)。現実がどうであれ、恵み深い神に守られ、愛されていることを信じ抜くのが、私たちの信仰。この信仰一つが、私たちの人生における、最高の恵み、賜物、いのち、宝なのである。何がなくても、信仰一つが人生を切り開き、不可能を可能にするのである。
 
 ところが続けて「苦しむこと」が、恵みであると言っている。フィリピの人たちはキリストを信じるようになって、思いがけず迫害や苦難に遭い、神から見放されたのではないか、何かの罰があたったのでないかと思ったかもしれない。しかしパウロは「苦しむこと」は、決して神の罰ではなく、むしろ恵みだと言うのである。それは、特に「キリストのために苦しむこと」は、キリストの苦難にあずかり、復活の力を知り、救いに至ることなのだと、3:10-11でも述べている。 
 
 ところで、私たちも福音に生きようとする時、迫害や苦難に遭うことがある。そうでなくても、人生には思いがけない艱難や問題が、絶えず襲ってくる。パウロ自身も伝道の働きを妨げる敵対勢力に悩まされ、今や獄につながれるに至った。しかし、このような苦しみもまた神の恵みであると言う(29節)。もちろん、人は信仰によって慰めを得たいと思う。事実、信仰によって慰めを得ている人も大勢いるだろう。けれどもキリストを信じる信仰は、慰めを求めて信じる信仰ではないことは、私たちのよく知るところ。慰めは、信じた結果として与えられる恵みである。そういう意味では、恵みは歩んできた過去の足跡の中に数えるものである。「数えてみよ主の恵み」と賛美歌にあるとおりである。約束は未来に、恵みは過去に、である。先々の恵みを期待する信仰を持とうとするなら、不都合なことが起これば、さっさと信仰を捨ててしまうだろう。私たちは恵みを数える者である。

 パウロは、彼の福音伝道に敵対する勢力によって投獄され、思わぬ苦しみを味わうことになった。しかしこれもまたキリストを信じる信仰の結果だった。そうであるなら、これもまた恵みであるとパウロは受け取ったのである。受け取れたのである。このように信仰に生きる者は、したたかに生きることができることのモデルがここに示されている。約束は未来にある。希望は未来にある。その希望は約束されたもの。だから、信仰に生きる者は、したたかに、しなやかに生きることができる。

クリスマスの精神

2011-12-12 07:22:59 | 牧師室だより

牧師室だより 2011年12月11日 クリスマスの精神

 チャールズ・ディケンズ(『クリスマス・キャロル』の英国の小説家)が嘆いています。「ああ、クリスマスが一年中続けばよいのに。クリスマスの精神が、心の中で一年中生きていたらよいのに」。ところでクリスマスの精神とは何でしょうか?クリスマスの精神は、愛すべき神の本質と同じく、聖なる神秘なのかもしれません。

 ここにクリスマスの精神について書かれた興味深い文章があります。ある本の中で見つけたものです(『シンプルな豊かさ』サラ・バン・ブラナック著 早川書房)。「もしもヘロデ王のごとく、物質で際限なく人生を埋め尽くすならば、もしも自分自身に価値をまったく認めずに人生を行動で埋め尽くすならば、三人の博士のように砂漠を越える長い、遅々とした旅をする暇があるだろうか?羊飼いのように星を見上げる暇があるだろうか?マリヤのように子どもの誕生を待つ暇があるだろうか?われわれにはそれぞれ越えるべき砂漠がある。見つけるべき星がある。われわれの中に産み出さなければならない命がある。」(作者未詳)

 クリスマスの精神とは、物はどんなに美しく高価でもしょせん物にすぎないのだ、と魂が知ることなのかもしれません。私たちは何かをするためばかりではなく、ただ存在するためにも創造されたのだ、と魂が知ることなのかもしれません。クリスマスの精神とは、砂漠を超える長い遅々とした旅をする時間を取ること、自分の星を時間をかけて見つけること、私たちが愛すべき神によって創造された目的である、真の誕生をうやうやしく待つことを、やさしく思い出させる印なのかもしれません。

 私たちの命は神からの贈り物であり、それをどう使うかが私たちの返礼の贈り物なのだ、とよく言われます。クリスマスはそれを思い出すのに最適な時期です。アドベント(待降節)をそのような時として過ごしましょう。この一年の神からの贈り物(恵み)を数えてみるのもいいでしょう。

神にゆだねて生きる

2011-12-08 17:40:59 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2011年12月4日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

 「神にゆだねて生きる」 フィリピの信徒への手紙1章20~26節

 ここでパウロは「わたしにとって、生きるとはキリストであり」と言っている(1:21)。ガラテヤの信徒への手紙2章20節でも、「生きているのは、もはや私ではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」と述べている。苦しみや悩みの多い人生の中で、キリストが私の内に生きておられる。キリストがわたしの主体となって生きて、いのちを充満させてくださる。あるいは迷いの多い私の中に、キリストが生きて導いてくださるというのである。
 
 しかし私たちはなおこの世にある。肉において生きている存在である。私たちは本当に弱く、罪深い。それでパウロは「体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています」(第二コリント5:6)と告白する。この世にある限り、いのちの主と完全に一つではなく、大きく離れているから、パウロは続けて「わたしにとって、死ぬことは利益なのです」(1:21)と言うのである。なぜなら、死においてこそキリストと真に出会い、交わり、キリストの救いにあずかることができるからである。パウロにとって死は、獲得と利益、勝利と希望、喜びと平安なのである。
 
 画家ミケランジェロに次のような言葉が残されている。「生命が私たちに好ましいものであるなら、死もまた私たちにとって不快なものであるはずがない。なぜなら死は生命を創造した巨匠の同じ手によって創られたのですから……」。天と地の創造者なる神は、生命を造られただけではなく、死をも造られたのであるというのである。私たちの生も死も、神の愛のみ手の中にあるということである。だからパウロは、「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」と告白するのである。

 私たちはすべてを神の愛のみ手ゆだねて生きるようにと造られている。だから神に信頼して生きていく。それは喜びをもたらす。「あなたがたの信仰を深めて喜びをもたらすように」(1:25)とあるとおりである。しかし、ゆだねたからもう自分は何もしなくていいというのではない。私たちの神にゆだねて生きるというのは、ゆだねるからこそ、希望と勇気と生きる力が与えられ、主の働きへと押し出されるのである。なぜならキリストが私たちのうちにいて働いてくださるからである。
 
 パウロは続けて22節以下で次のように言っている。「肉において生き続ければ、実り多い働きができ」、さらに、肉にとどまり、この世に生き続けることが「あなたがたのためにもっと必要です」と言う。パウロは自分の切願によってではなく、フィリピの教会の必要のため、むしろ教会の主である神ご自身の必要のために、生き続けなければならないと言うのである。
 
 さらに25節でパウロは「信仰を深めて喜びをもたらすように」と言う。「信仰を深めて」は、直訳すると「信仰の前進」。「前進」とは、先発隊が道なき道を開き、困難を乗り越えて進むこと。私たちは一度、信仰を持てばそれでよいというのでなく、信仰はたえず前進し、成長すべきものなのである(第二コリント10:15)。パウロとフィリピの信徒たちの間には親しい関係があったが、それに満足しないで、さらに信仰が前進するよう願っているのである。
 
 だれひとりとして完成された信仰の人はいない。パウロ自身も「捕らえようと努めている」と言っている(3:12以下)。そして信仰の前進のあるところこそ、大きな喜びがあるのである。生きた信仰は苦難をも喜びに変えて、前進する。それには生も死もすべて神にゆだねていくこと。キリストが共にいてくださる。キリストが私たちの中で働いてくださる。ゆだねて前進。
 

クリスマスのご案内

2011-12-06 11:08:29 | 教会行事
今年もアドベント(待降節)の時期になりました。
平塚市豊原町にあるキリスト教会の平塚バプテスト教会の
クリスマスの予定です。
12月17日(土)子どもクリスマス会 10:30-12:00
12月24日(土)キャンドルサービス 19:30-20:30
12月25日(日)クリスマス礼拝・祝会11:00-
地域の皆さんの教会です。地域の皆さん、どなたでもお出かけください。

「ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」。
(新約聖書 ルカによる福音書2:6-7)