平塚にあるキリスト教会 平塚バプテスト教会 

神奈川県平塚市にあるプロテスタントのキリスト教会です。牧師によるキリスト教や湘南地域情報、世相のつれづれ日記です。

祈り続けよ

2017-10-30 15:26:45 | 説教要旨

<先週の説教要旨> 2017年10月29日 主日礼拝 杉野省治牧師
「祈り続けよ」 ルカによる福音書11章5-13節
               
 ある夜更け、しきりに戸を叩く音に目が覚めた。門を開けると、そこには旅姿の旧友が立っている。聞けば、長旅の途中に立ち寄ったとのこと。何か出してあげようにも心づもりがなく、何もない。

 急いで近所に走り、寝静まったある家の戸を恐る恐る叩いてお願いした。「友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達が私のところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです」(5-6節)。すると家の中から迷惑そうな声が聞こえてくる。「面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子どもたちは私のそばで寝ています。起きてあなたに何かあげるわけにはいきません」(7節)。
 
 もし私たちがパンを借りに行った人の立場に立ったら、この返事をどう受け止めるだろうか。事情があるとはいえ、真夜中に人に食べ物を借りに行くのは非常識なこと。当然、断られても仕方がないと引き下がろうとするだろう。
 
 これに似た引け目を主の祈りを祈りながら感じることがある。「私たちの罪を赦してください、私たちも自分に負い目のある人を、皆赦しますから」(4節)という個所である。赦し難い痛手を受けた人を前にすると、赦せない自分がいることに気づかされる。だからそう簡単に「皆赦しますから」とは祈れなくなり、戸惑いというか、引け目というか、腰が引けて、声もいくぶん小さくなってしまう。
 
 神の独り子イエスの命という途方もない犠牲によって赦された私たち。にもかかわらず、その自分がどこまででも人を赦そうとはしない。そういう自分がこの祈りを祈ることはとうていできないと、引き下がろうとするのは自然なことだ。
 
 しかし主イエスは、ここで、そういう私たちの常識を覆す、思いがけないことを言われた。「しかし、言っておく。その人は、友だちだからということでは起きて何かを与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう」(8節)。
 
 主イエスは、引き下がろうとする私たちに待ったをかけておられる。「引き下がるな、祈り続けよ」と。そして言われた。「求めなさい。そうすれば与えられる。……開かれる」(9節)。
 
 口にすることが苦しいその祈りを、それでも祈り続けて生きていく時、天の父はそれを必ず開いてくださると言うのだ。祈ることができなくなったその地点こそが、実は主の祈りを真に祈って生きる出発点なのだ、と。
 
 祈ることができなくなったその地点で苦闘しながら祈り続ける時、主の祈りをそのように実現する力は、私たち自身の中からは決して出てこない。祈り続ける中で与えられるもの。それが聖霊。
 
 「あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子どもには良いものを与えることを知っている」(11-13節)。そのとおりだ。ならば「まして天の父は求める者に聖霊を与えて下さ」らないはずはないと、主イエスは言われた(13節)。
 
 なぜ、求める私たちに与えられるのものが、聖霊なのか。それは、主の祈りを実現する主体は、私たち自身ではなく、聖霊だからである。主イエスを通して主の祈りを与えてくださった神さまは、祈る私たちに聖霊として臨み、ご自身のみ力でその祈りを私たちの上に実現して下さるのである。
 
 主の祈りは、どの一言をとってみても、私たちから自然に出てくるものはない。主イエスにこう祈れと言われて、はじめて祈ることができる祈りである。しかも、そうして与えられて見れば、これこそが私たちが祈るべき本当の祈りであることがわかる。
 
 神に何を求め、祈ればいいのか、私たちは何も知らなかった。それを知っておられた、ただ一人のお方である主イエスが、一つひとつ口移しで教えてくださり、その祈りを聖霊が必ず実現すると約束して下さった。
 
 だから、私たちは、祈ることをやめてはいけない。主の祈りの一言一言に立ち止らざるを得ない今日であっても、それでも祈って、明日に向かわねばならない。

傷があってもいい

2017-10-30 14:49:59 | 牧師室だより

牧師室だより 2017年10月29日 傷があってもいい

 人間にとって最も精神的につらいことの一つは、人から批判されたり、そしられたりして心が傷つくことではないかと思う。人によっては、その傷がなかなか癒えないため、その後の人間関係に様々な問題が出てくる場合がある。それはちょうど怪我をして、その打ち所が悪く、傷の回復が長引いて日常生活に何かと支障が出てくるのと似ている。

 しかし、傷つけられ心に痛みを覚えるということは、確かにつらいことではあるが、必ずしもすべてがマイナスばかりではなく、視点を変えれば、プラスとも必要とも考えられる面もあるのではないだろうか。

 たとえば、足にとげが刺さって「痛い」と感じたら、すぐにその傷の手当てができ、次からはとげを踏まないよう気をつけるというように身体にとって安全装置となるように、人から傷つけられて心が痛むという感覚も一種の心の安全装置と言えよう。もし痛みを感じる心がなければ、人が何で傷つくか分からない。それは人間関係においては危険なことである。そういう意味から考えると、痛みの感覚というのは人間生活にとって必要なものであると言えるだろう。

 もう一つ、人は自ら痛むという経験がないと、対人行動が奇妙で不可思議なものになってしまう可能性がある。ソロモンは『箴言』の中で、「心の痛める人の前で歌をうたうのは、寒い日に着物を脱ぐようであり、また傷の上に酢を注ぐようだ」(口語訳:25:20)と言って、人の心の痛みに対する無感覚を戒めている。そういう視点から痛みの問題を考えると、心が傷つくということは、ある意味において精神の健全性のしるしでもあるだろう。

 痛みの感覚を持つ者は、他人の痛みの現実をよく知り、その苦痛に共感できるようにされていくことが大切。性急な指導や助言ではなく、寄り添っていく中で信頼関係を作り、共に癒されていく関係作りが求められるだろう。そこから、共に祈り、共にみ言葉に聞いていくことが可能になっていく。

*『〈新版〉こころの散歩道』(堀 肇著、いのちのことば社、2008年)36-41p参照。

日々恵みに追われて

2017-10-25 15:19:26 | 説教要旨

<先週の説教要旨> 2017年10月22日 主日礼拝 杉野省治牧師
「日々恵みに追われて」 詩篇23篇             
  
 23篇は、何千年もの間、貧しさ、不安、あるいは戸惑いや行き詰まりの中にあった人たちに、大きな力を持って臨み、励ましてきた。それはこの歌が、乏しい中で主に養われ、渇いているときに憩いのみぎわにともなわれた経験を通して「主がそれをなしてくださった」と告白しているからである。そしてこれが私たちの励みとなり、希望となっていき、信仰の立ち所なのであることを教えてくれる。

 羊飼いである主は私に青草を豊かに与え、命の水に導かれる。穏やかで何不自由ない営みが繰り広げられているかのような光景である。しかしながら、生きていることが平穏無事に守られている以上に、人は生きるための命をどのように養われているかに気付かねばならない。「主はわたしを……」「あなたがわたしを……」「あなたはわたしに……」というように、この詩人は告白している。この告白は、生きるための命を養ってくださるのは、羊飼いであるお方、主であることを私たちに気づかしてくれる。

 現実の羊飼いがどれほど過酷な職業であるかはヤコブの姿によく表れるところである。「わたしはしばしば、昼は猛暑に夜は極寒に悩まされ、眠ることもできませんでした」(創世記31:38以下)。主イエスも言われた。「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ10:11)。激しいまでの過酷な業を伴うのが羊飼いであり、ついには一匹のために命を捨てるのが羊飼いであるなら、私たちの命のためにどれほどの代償が払われているかをあらためて見つめ直してよいのではないだろうか。命の育みのためには、目に見えないところで羊飼いとしての主なるお方の働きがあることを覚えねばならない。

 私たちは信仰生活の中で、ともすると無気力さに陥ることがある。礼拝に出ても単に守るべきものとして出ているだけで、そこには何の喜びも力も感じない。また、どんなに聖書のことを知っていても、知っていることからは本当の信仰のメッセージ、力は湧いてこない。

 信仰は発見。信仰は気づき。信仰は与えられるもの。信仰は出会い。出会って、そこで、「主はわたしに……」と言って告白し、そして神に望みを置く。そこに立つことが大事。そういう意味で主に出会った人々が、何千年もの間、この詩篇を読むたびに、心の中でアーメン、アーメンと唱えながら、この詩篇を歌い続けたということは、なんとすばらしいことだろうか。

 5節にあるように、私たちは「主の食卓」に招かれている。そして主はいつもあふれるばかりの恵みと慈しみを与えてくださっている。いや、追いかけてまで、私たちに恵みと慈しみを与えてくださる。これにまさる喜びはない。今朝も主は私たちに呼びかけておられる。招いておられる。その主に祈りをもって応えていっこう。

オーケストラに学ぶ 

2017-10-25 14:46:25 | 牧師室だより

牧師室だより 2017年10月22日 オーケストラに学ぶ 

 音楽オンチで門外漢の私は、10数年前にオーケストラに関するある話を聞き、大変感動を覚えました。音楽ファンやクラッシックファンなら誰でも知っていることだろうけれども、私には新鮮で今まで以上にオーケストラに興味を持つようになりました。

 オーケストラを聴きに行きますと、演奏の始まる直前に「ブォー」と、それぞれの楽器が音合わせをします。以前の私は音合わせなんかまったく興味もなく、「さあ始まるぞ」という期待感でその時を過ごしていました。

 最初に音を出すのは「オーボエ」という楽器の奏者です。次に、それに合わせてコンサートマスターと呼ばれるバイオリン奏者が音を出し、そして残りの楽器奏者が次々に音を合わせていくのです。

 そんなことも知らなかった私ですが、感動したのは、なぜ「オーボエ」を基準にするのか、という話なのです。「オーボエ」は奏者自身がナイフを使って削った2枚のリードを振動させることによって音を出すために、音の高さを変えるには、そのリードの幅や長さを調整するしかありません。演奏当日にその場で音程を調整するのは無理なのだそうです。だから周りの楽器が「オーボエ」に音程を合わせるのだそうです。

 この話は、私に一つの真理を教えてくれました。フルオーケストラでは一般的に100名前後の演奏家たちが音を創り出していくわけですが、オーケストラが調和を保ち美しい音色で演奏されるのは、即座に音程調整の難しいオーボエに、他の楽器が合わせ、お互いがお互いの音を尊重しながら、自分の出すべき音を出しているからです。

 これと同様、教会や家族においても、その集団に属する全員が調和して生きていくには、そのメンバーが最も弱い者(最も小さき者)に合わせ、手を伸ばして、そしてお互いを尊重し行動するときに美しい世界が出来上がっていくのではないだろうかということです。

 「あなたがたに勧めます。怠けている者たちを戒めなさい。気落ちしている者たちを励ましなさい。弱い者たちを助けなさい。すべての人に対して忍耐強く接しなさい」(第一テサロニケ5:14)。

赦せない苦しみからの解放

2017-10-21 12:04:24 | 説教要旨

<先週の説教要旨> 2017年10月15日 主日礼拝 杉野省治牧師
「赦せない苦しみからの解放」 ルカによる福音書11章4節

 私たちは、ふと思いがけない時につらく悲しい、そして悔しい経験を思い出すことがある。職場の誰か、家族の誰か、学校の誰か、それらの人間関係で経験した激しい痛みや苦しみ、悲しみを思い出し、暗く、憂鬱で、ときにはイライラし、腹が立ったりすることがしばしばある。

 そのように「赦すことのできない」苦々しい感情を引きずったまま、時を過ごし、人生の時を過ごしている人が少なからずおられる。誰かのことを赦すことのできない人間関係は、私たちの生活を時に非常に苦しいものにしていく。

 幼いころから親に傷つけられて、親のことをずっと赦せない人がいる。その赦せない思いが、やがて自分が親になったときに、自分の親にされたと同じように、自分の子どもにしてしまうということもこともしばしば聞く。赦すことのできない思いは、赦せない罪の連鎖を生み出し、その罪の鎖を、自分の周りの関係にも広げていってしまうのである。

 自分を傷つけた人を「赦せない」と思うのは人間の自然な感情である。でも赦さない思いは、人をその地点にがんじがらめにしてその人自身を傷つけ続ける。相手は赦されなくても何の害も受けないが、私たちの心の中では栗のイガがゴロゴロと転がり続け、時折それを握りしめて血を流すことになる。

 しかし、この主の祈りは私たちにこう語る。「私たちも私たちに罪を犯してきた人を赦しますから、私たちの罪をお赦しください」。これはどういう意味だろうか。何かの取り引きのように見えるが、そうではない。私たちが、主の祈りに従って、私たちに罪を犯した誰かのことを赦そうとしたとき、そう簡単に赦せない自分に必ず出会う。だから私たちは、まず「赦せない」自分の罪を正直に認めたいと思う。そして赦せない自分を、神さまの前に差し出していくこと。このことから、この主の祈りは始まっていくのではないか。

 主の祈りが赦しを祈り始める時、急に祈りに生々しさが加わる。ある人が言いった。「本当に赦されたという経験がないと、ゆるすことはできないものだ」。なぜなら、私たち人間の赦しには限界があるからだ。私たちは、「もういいよ。赦したよ」と言いながら、本当のところは、その人を赦していないことがある。そして、そのことをだれよりも自分が知っている。

 私たちが誰かを赦そうとしたとき、赦せない自分に出会う。その時、真の赦しは、神の赦し以外にないことを知る。十字架の赦しを受け取らない限り、この赦しの中に生きない限り、私たちは本当の意味で赦しを知ることはできない。今日、人を赦すことができずにもがき続けている私たちの限界の前に、神からの本当の赦しをもって、あなたを赦そうとする神の愛が、私たちの前に差し出されている。

 主イエスの赦しは、十字架の上でなされた。主イエスは自分を殺そうとする者たちを前にして、祈られた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分で分からないのです」。こんな祈りをだれができるだろうか。この赦しを前にした時、今までの自分の赦しがどれほど小さく、本当の赦しにはほど遠いかを知る。そして、いまだに赦せない自分自身の罪深さをも知らされることとなる。

 この無条件の祈りが、私たちのために先立って祈られている。自分で自分をどうすることもできない私たちのために、今も祈られている主イエスの祈りである。この主イエスの祈りを聞きながら、私たちは赦され安心して過ごす。

 さらに、ここで祈られているのは「彼ら」と複数形。主イエスを十字架につけるような「彼ら」という、私たちの赦せない人間関係のために祈ってくださっている。この祈りがあるからこそ、私たちは祈ることができるのである。「私たちは赦します」「わたしたちを赦してください」と。いつの日か、いや明日にも、あの人と赦し合える人間関係を築くことができますように。

旅人と労働者

2017-10-16 09:13:25 | 牧師室だより

牧師室だより 2017年10月15日 旅人と労働者

 人間は昔から自分たちの人生の意味、自分たちが住んでいるこの世界の意味について思いをめぐらしてきた。人生の意味、世界の意味を発見しようという旅は、しばしば物語の形をとっている。たいていの人はお話を聞くのが好きだ。また、多くは自分の人生の意味を考えずにはいられない。お話を聞きたいという気持ちと、自分の人生の意味を知りたいという気持ちが重なったとき、本当に意味のあるお話が生まれる。

 今日のお話もそうだ。この話は『世界中から集めた深い知恵の話100』(編者:マーガレット・シルフ 女子パウロ会、2005)から掲載した。

 中世紀と呼ばれる昔のお話です。ある時、一人の旅人がフランスを旅行しているうちに建設中の建物の前を通りかかりました。旅人は立ち止まって石工の一人に話しかけました。「あなたはどういう仕事をやっているんですか?」この石工は不平たらたらで、仕事がきつくてかなわないと言いました。「おれはこの大きな石を単純な道具で切り出して、言われたとおりに組み合わせているんだが、暑さはひどいし、汗だくだ。それに背中も痛くてね。おまけに退屈でうんざりしているんだよ。きついばかりで、意味もないこんな仕事、引き受けなきゃよかった。」

 旅人は二人目の労働者に、「あなたはどういう仕事をしているんですか?」と聞きました。「妻と子どもらを養わなきゃならないのでね。毎朝、ここに来てこの大きな石を切り出して、言いつけられたように必要な形の石材をこしらえているんだよ。単調な仕事であきあきすることもないわけじゃないが、家族を食べさせていけるだけで、おれは満足なのさ。」

 少し明るい気持ちになって、旅人は三人目の労働者にたずねました。「あなたはどういう仕事をしているんですか?」三人目の労働者は天を指さして目を輝かせて答えました。「私は寺院を建てているんです。」(出典不詳)

 同じ仕事をやっても、そこに本当の意味を見出すものは、力と希望が与えられる。「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」(イザヤ40:31)。

「安心して行きなさい」

2017-10-11 17:42:23 | 説教要旨

<先週の説教要旨> 2017年10月8日 主日礼拝 杉野省治牧師
「安心して行きなさい」 マルコによる福音書5章25-34節

 「あなたの信仰があなたを救った」(34節)とあるが、彼女の信仰が彼女自身を救ったのか。自分で救えるなら、神など必要ない。では、本当の意味でこの女性を癒し、救ったのは一体、何だったのか。み言葉に即して理解すれば、女性自身の力ではなく、「主イエスご自身の中に働いている癒しの力」ではなかったか。30節に「イエスは、自分の内から力が出ていったことに気づいて」とある。主イエスには、癒す力が働いていた。

 とすると「あなたの信仰」とは何か。この「信仰」と訳されているギリシャ語はピスティスで、「信頼」とも訳すことができる。すると「あなたの信頼」と訳せるが、彼女は誰に信頼したか。主イエスである。そうするとこの女性の主イエスに対する信頼を主イエスご自身が感じとって、愛をもって答えて下さることによって、救って下さった、ということになるだろう。

 この女性の主イエスに対する信頼は大変なものだったということが、今日の聖書箇所からうかがい知ることができる。この女性は、「イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた」(27節)と記されている。この行為は彼女にとって命がけの一大決心だった。そこに彼女の主イエスに対する信頼が表現されている。しかしなぜ、彼女はそうしたのか。それは、「『この方の服にでも触れれば癒していただける』と思ったからである」(28節)。学者はここに古代人の迷信を持ち出す。しかしそのようなことは今も変わらずある。また迷信だとか通俗的だとか言って軽蔑されるべきものか。

 神学者の田川健三氏が次のように書いている。「病気の者が奇跡にすがってでも治癒を求め、飢えた者が必死に食を求めるのは、直接自分に役に立つことだけを求めるエゴイズムなどということとはおよそ見当が違う。人間の生きるための最も根源的な行為である。そこのところを軽蔑できるような姿勢が、愛であるはずがない」(『宗教とは何か』222p)と言い切っている。

 ここで重大なことは、いずれにせよ、この女性が、あらゆる「迷い」や「ためらい」を越え、あるいは「妨害」を越えて、「キリストの服に触れ」たいという思いである。私たちはこの時、この女性がどれだけ大きな障害、妨害、ためらい、苦しみを乗り越えたかということを知らなくてはならないと思う。彼女は12年間長血を患っていた。それは旧約聖書のレビ記15章25節にあるように、長血は「汚れたもの」と言われ、その触るものもみな「汚れる」と書かれている。ゆえに、彼女は生活共同体から遠ざけられ、宗教的にも排除され差別を受けていた。さらに「医者にかかって、…全財産を使い果たしてしまった」とある。医療的にも経済的にも追い詰められていた。社会的にも、医療的にも、経済的にも、更に宗教的にも苦しめられ、どこにも救いはなかった。二重、三重どころか四重の苦しみである。彼女はどこへ行けばいいのだろうか。彼女にとってどこに救いはあるのだろうか。

 評論家、若松英輔氏が言うには、「なぜ宗教を問い直すのか」という問いの背景には、私たちが知性と理性の網からこぼれ落ちる宗教との関係を見失ったという現実があるという。人間を超えたものとの関係を見失ったというのである。

 これは、言い換えれば、私たちが知性と理性の網からこぼれ落ちたもの、あるいはこぼれ落ちた状況になった時、そこに救いを指し示すのが宗教という存在ではないかということ。この女性、医学的にも経済的にも宗教的にも社会的にもそれらのすべての網からこぼれ落ちていた。あとは主イエスしかいない、という思いになったとしても不思議ではない。その主イエスに対する信頼は並々ならぬものがあったと容易に想像がつく。28節「この方の服にでも…癒していただける」と思ったからである。この主イエスに対する信頼。

 イエスの服に触れる、というのは先の若松氏の言葉を借りて言えば、「人間を超えたものとの関係」を彼女は何としても持ちたいと願ったゆえの行為だったと思う。それを若松氏は、「人間を超えたものや他者との有機的なつながりのなかに自らの生きる意味を見出していくこと、それは……人間がおのずから希求する根本感情、だと」とも言っている。まさに彼女の思いや願い、その行為はまさにそのことだったのである。なにも彼女だけの特別なことではないだろう。我々誰しも当てはまることなのである。

 このような主イエスに対する信頼をもって歩みたいと思う。そして、そのような信頼に必ず応えてくださる主イエスであるということを忘れないで。今日も主イエスは私たちに「安心して行きなさい」と呼びかけておられる。

フードバンク 

2017-10-09 07:26:06 | 牧師室だより

牧師室だより 2017年10月8日 フードバンク 

▲ホームレス支援仲間のSさんから紹介され、今年7月に平塚でフードバンクの活動を始められた大関さんにお会いし話をうかがった。たった一人で始められたそのパワーと信念に敬服した。もちろん彼女は始めるにあたって、「フードバンクかわさき」で経験を積んでノウハウを身につけた上での開始である。とはいっても、平塚で始めたばかりで認知度が低く、横のつながりも少ないという。「まずフードバンクを知ってください。その上で教会も協力してほしい」ということであった。

 フードバンクは文字通り「食料銀行」です。食品会社やスーパー、農家、一般家庭などから「食品」を寄贈してもらい、生活困窮者や児童養護施設、母子家庭などへ無償提供するものです。食品ロス問題と貧困問題をリンクさせた活動です。「もったいない」と「ありがとう、感謝」の共感です。食に込めた「お互い様」の精神といえよう。そして、それは食品廃棄コストの削減や無駄を減らすことにつながり、それが有用に活用されて、子どもの成長の手助けとなり、自立支援へとつながっていきます。

 募集している食品は、コメ、乾麺、調味料、缶詰、インスタント食品、飲料などで、賞味期限が2カ月以上、常温保存が効く未開封のものです。協力される方は直接、大関さんへお願いします(080-6564-2263)。

 フードバンク活動は先週のワンガリ・マータイ女史の「もったいない」の提唱とつながっています。マータイ女史の「もったいない」の提唱は、ごみ削減(Reduce)と再利用(Reuse)と再資源化(Recycle)という環境活動の3Rとかけがえのない地球資源に対する尊敬の念(Respect)が込められています。

 双方の活動に通底しているのは、「共生」と「分かち合い」ではないでしょうか。共に生きるとは何も人間ばかりではなく、他の被造物や資源、自然環境も含まれます。その根底にはすべては神が創造し祝福されたものであるがゆえに尊重し、共に生きていくという思いがあるだろう。そのための分かち合い。独占、排除ではなく共に神の恵みにあずかる分かち合い。分かち合う豊かさはお金では買えない。

招きと約束

2017-10-06 15:34:41 | 説教要旨

<先週の説教要旨> 2017年10月1日 主日礼拝 杉野省治牧師
「招きと約束」マタイマルコによる福音書11章28-30節

 今日の聖書のみ言葉は、今までどれほど多くの人を生かし、励まし、慰めてきたことだろうか。このみ言葉になぜそれほどの力があるのか。まず、このみ言葉を丁寧に読んでみると、28節は「招き」と「約束」から成っていることがわかる。「だれでもわたしのもとに来なさい」と主イエスが招いておられる。そして「休ませてあげよう」と約束されている。

 さて最初の招きだが、「疲れた人」と「重荷を負っている人」は「だれでも」、すなわちすべての人が招かれている。徳川家康は「人の一生は、重い荷を負うて、遠き道を行くがごとし」という言葉を残している。また、女流作家で「放浪記」で有名な林芙美子は詩の一節に「花の命は短くて、苦しきことのみ多かりき」と詠っている。それでも、自分の人生に重荷なんか感じないという方もおられるかもしれないが感じないのは今だけで、まだ疲れていないからにすぎない。こんなことわざがある。「最後の藁一本が、ラクダの背骨を折る」。ギリギリまで踏ん張って、ある日突然に倒れる。燃え尽きてしまって、立ち上がれなくなってしまうという話はよく聞く。燃え尽き症候群。家康は人生は長い旅だという。ということは、そのうちに必ず疲れてくる。今疲れていない人も、単に時間の問題にすぎない。そう考えると、イエスの招きはみんなに当てはまる。すでに当てはまっている人と、将来当てはまる人、のどちらかだから。みんな招かれていることになる。

 では、この招きの内容について考えてみよう。疲れた人を休ませるぐらい、お安い御用だ、と思うだろう。公園のベンチだって果たせる務めであろう。それは、足の疲れならベンチで十分。全身お疲れだと、温泉やマッサージなどがいいかもしれない。だが、心の疲れ、魂の疲れは、どうしたらいいのか。生きるのに疲れたと感じるほどのストレスの重圧に、心身ともへとへとになった人を休ませてくれるのはなんだろう。人生の重荷をもはや背負い続けることができないほど疲れた人を休ませるものは、温泉やマッサージぐらいではとても間に合わない。

 「休ませてあげます」とは、ただたんにノンビリさせてあげるぐらいの内容ではない。体の疲れはノンビリすればとれるかもしれないが、心の疲れは、そもそも人間をノンビリさせないもので、いくら休ませても、そういうときは、ますます心の疲れは悪化する。忙しく体を動かしている方が、まだしも気が紛れていいということもある。でもそれで解決するわけではない。

 主イエスは心の疲れの、その根本原因を処置して取り除き、心身ともリフレッシュしてくださる。人生に疲れ、生きるのに疲れたあなたに、真の休息を与え、その結果、創造的に生きる力をもたらし、実り豊かな人生を与えてくださる、その休息を「わたし」が与えると約束される。

 その約束は空手形ではない。では、どのようにして……。28節のみ言葉の後に、29節、30節「わたしの軛を負い、私に学びなさい。……わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」とある。私たちは、うっかりすると救い主のところへ行けば、辛いことや悲しいことはすっかりなくなってしまうと単純に受け止めがちである。しかし、主イエスは、信仰さえあれば、幸福と健康を手にすることができると単純に考えてはおいでにならない。主イエスは言われる。あなたの軛は、実は私の軛なのだと。背中の軛が主イエスの軛と成り代わっているので、背負い得る者となっている。そこになおもって生きる勇気の源泉を発見するのである。

 ルターは、キリストを信じる時、喜ばしい交換が起こると言う。キリストのものが私のものとなり、私のものをキリストが引き受けてくださる、そこにこそ信仰による慰めがあるというのである。その結果、私たちは疲労困憊の最中にあろうと、重荷で押しつぶされそうになっていようと、なおしたたかに生きている自分の姿を見るのである。私の重荷を主イエスに預ける。そして、主イエスの軛を担う。それは主イエスにすべてをゆだねて、主イエスに従って歩むということ。その時重荷は重荷でなくなり、苦しみは苦しみでなくなるのである。いやそれ以上に生きる希望、勇気、力、慰めが与えられるのである。主イエスのもとに行こう。

もったいない 

2017-10-03 07:19:44 | 牧師室だより

牧師室だより 2017年10月1日 もったいない 

 海外で通用する日本語は昔では「ゲイシャ」「ハラキリ」などだったが、最近では「カラオケ」「天ぷら」「津波(TSUNAMI)」などがそうだ。そして、もう一つ付け加えるべきは「もったいない(MOTTAINAI)」だろう。

 ケニアの元環境大臣であったワンガリ・マータイ女史が日本でこの言葉に出会い、その言葉の奥深さに感動し、今世界に必要なのはこの「MOTTAINAI」の精神だとして、国連でこの言葉を共通語にしようと提唱したことで一気に広まった。

 肝心の日本では「もったいない」は聞かれなくなった感じである。私たちの世代は、茶碗にご飯粒が残っていると「もったいない」と言われ、最後の一粒まで食べさせられた。そして、お米は「八十八」と書く。お百姓さんが八十八の手間をかけ汗を流して作ったのだから、感謝して食べるようにと教えられた。当然、「いただきます」も「ごちそうさま」も食卓では当たり前の光景だった。

 ところが最近は生活のスタイルが変化したのか、「いただきます」も「ごちそうさま」もない食卓が、ごく普通の家庭で増えているそうだ。身近な食卓の変化が、食べることができる有り難さや、食べ物が与えられている感謝、さらにそれらすべてを備えて下さる神さまに対する「ありがたい」という思いが薄れているのではと思わされる。それはさらに「生きる」ことや「いのち」の大切さ、重さ、畏れという感性も鈍くされているように思われる。

 「飢餓対策ニュース」(2017年9月)に理事長の岩橋隆介氏が次のように書かれている。「…やはり忘れられないのは某国の最貧と言われる地域で懸命に生きる子どもが、提供されたわずかな給食を、自分も食べたいであろうに、一部を残し自分の弟妹に分かち合っている姿でした。感謝の祈りをささげ、それを分かち合い、最後の一粒まで残さず食べている姿と、その時の笑顔。かつて私たちの国にもあった、物があふれる贅沢ではなく、少ないものでも分かち合う『豊かさ』を見ることができたのです。今、心から思います。その豊かさを取り戻さねば、と。」

 分かち合う豊かさ。