平塚にあるキリスト教会 平塚バプテスト教会 

神奈川県平塚市にあるプロテスタントのキリスト教会です。牧師によるキリスト教や湘南地域情報、世相のつれづれ日記です。

追悼集会

2012-09-26 18:37:09 | 平塚パトロール
2012年9月15日(土)14時 平塚市の八幡山の洋館にて
平塚でホームレス支援活動をしている市民ボランティア団体の
平塚パトロールとサポーティングハウスひだまりの共催で
昨年に続き2回目の追悼集会を行った。
約12年間の間、関わった仲間で亡くなられた方々20名。
死者の声なき声に謙虚に耳を傾ける。黙祷。

隣人を大切に

2012-09-26 18:22:58 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2012年9月23日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

 「隣人を大切に」 出エジプト記20章12-17節

 十戒の後半は、隣人との関係について語られている。いのちの主と誠実に向き合っていこうとすれば、当然、自分と同じく主からいのちを与えられた隣人たちと共に生きていくように招かれていく。神の民イスラエルは隣人、他者と共に生きるためには国家ではなく「神の言葉」が必要だと考えた。人生をさまよう神の民に、共に生きるための指針として、神の言葉、十戒が与えられた。

 第五の戒めは、父母を敬うように教えている。この戒めのもともとの意味は、成人に対して、その親が高齢になっても虐げてはならないということである(出エジプト21:15,17参照)。つまり、この戒めは、「労働力」とか「自分にとって役に立つ」という価値観だけで人を測ってはならないことを教えている。
 
 第六戒から十戒では、神の民として生きるには隣人のもの、隣人の命・権利・自由・財産を奪ってはならないと書いてある。私たちには何でも独占し所有したがる傾向がある。「わたしの土地・山・川・海だから汚していい」という気持ちが環境汚染を、「わたしの燃料だから燃やしていい」という思いが大気汚染・オゾン層破壊を、「わたしの食料だから、好きなものを好きなだけ食べていい」という思いが食糧危機をもたらしている。これが人間の自然の状態である。
 
 この反対はなんだろうか。それは「共に生きる」ことである。すべては神さまが下さったものだから分かち合う。すべては神さまから預かったものだから他者のために取っておく。自分は自分だけで生きているのではなく、神が共にいて、神が隣人を下さり、隣人がいて、隣人と共に生きていくことが神の民の倫理である。

 十戒の示す倫理は自分の中に他者が入ってくることである。神の国の倫理には切り離しがたく他者が入ってくる。他者は私の存在の、私の心の構成要素としてなくてはならないものとなる。だから私たちも他者を重んじ、他者のための場所を取っておかなくてはならない。さらにはキリストが私のために十字架についてくださり、キリストが私のために神の国に場所を取っておいてくださる。だから私も他者の場所を取っておく。これが神の民の生きるルール。他者への配慮・関心を持つこと、これがキリスト教の愛。

バプテスマってな~に?

2012-09-25 14:39:32 | 牧師室だより

牧師室だより 2012年9月23日 バプテスマってな~に?

 「お宅の教会は?」と聞かれ場合、当然、「平塚バプテスト教会です」と答える。すると、まず「それなんですか」という顔をされる。「バプテスト」と一回で発音できる人もほとんどいない(かく言う私もかつてはそうだった)。そこで怪しげな団体と誤解されないように「キリスト教会です」と急いで付け加えることになる。

 バプテストとは、幼児洗礼を否定し、聖書に示された洗礼、すなわちバプテスマは信仰告白に基づく「浸礼」であるとする教派の名前である。しかし「バプテスマ」って言っても先ほどと同じで、けげんな顔をされるが、「洗礼」と言うと少しはわかってくれる。

 しかし「バプテスマ」を「洗礼」と訳したことによって、洗い清めるというイメージが強くなって、本来の意味が誤解されている。バプテスマとは、水に浸されて罪に死に、水から起き上がらされて復活のいのちに生きるという意味だから、「浸礼」の訳のほうがよい。

 罪に死に、新しいいのちによみがえることを象徴するために水による儀式を行う。キリスト教事典によると「水によって行う聖礼典で、父と子と聖霊のみ名によって授けられる。福音を信じ悔い改めてこれを受ける者は、罪の赦しと新生を与えられ、キリストの死と共に古き人に死に、彼の復活と共に新しき人によみがえらされるのである。その新しき人はキリストの体の肢となって教会に加えられ、キリストによる救いを確かにされる」とある。

 バプテスマを受けることは、信仰生活のスタートである。スタートを切るにはやはり決断が大切である。ともかく、すべて神にお任せして飛び込むことである。神が導いて下さるから飛び込めるのである。主は言われた。「父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない」(ヨハネ福音書6章44節)。今日の2人の兄弟のバプテスマ式に神の祝福と主の執り成し、聖霊の導きがあるようにと祈る。

イエスさまの目線

2012-09-25 14:33:38 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2012年9月16日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

 「イエスさまの目線」 ルカによる福音書19章1-10節
 
 ザアカイは人々から嫌われ罪人とされていた。私たちがそういう人と交わっていると、いろいろな傷を受けたり苦しんだりするので、そのような人は避けて、できるだけ無難な人との付き合いを求めるようになる。しかし、主イエスはザアカイを愛された。それは彼の中に価値を見出されたからではなく、彼もアブラハムの子であると見られたからである。それが神の人を見る目だと思う。
 
 つきあって何の役にも立たない、かえって損になるような人、いやな人、またどんな性格の人であっても、その中にアブラハムの子であるというものを見出していくところに、主イエスが来られた意味がある。本来はアブラハムの子であるから、素晴らしい信仰生活をしていなければならないはずである。しかしそういうものを失ってしまっている人に、もう一度自分がアブラハムの子であることを分からせるために、主イエスは来られたのである。
 
 人間関係は信頼するということが一番大切である。人から信頼されると、私たちはそれを裏切らないように心掛ける。信頼していくということは、結局は勝利だと思うが、同時に非常に難しいことである。信頼を裏切っていく者を、なお信頼していくところに、主イエスが生きられた道、語られた教えがある。人を本当に立ち返らせていく力というものは、人の非を突くことではなく、その人を信頼していくことである。それはあらゆる世界において言えることではないかと思う。
 
 ザアカイという一人の失われた者が、新しく正しい生き方に自分から進んで出ていったのは、主イエスが彼を信頼されたからである。先に声をかけられたのは主イエスである。主イエスは私たちに対して、また人々に対しても、その人もアブラハムの子である、神から愛されている者であるというまなざしで見ていかれる。
 
 ところで、その主イエスの愛のまなざしはどのような目線であったのだろうか。主イエスは木に登ったザアカイの下に来られた。「イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた」(5節)。救いというと、救い上げるという言葉をなんとなく考える。上にいる、天にいる神が、私たちに救いの手を差し伸べて、救い上げてくださると考える。でも、救い主イエスは、ザアカイよりも下に来たと聖書は語っている。そしてさらに、主イエスはその後、ザアカイの家にまで出かけてくださり、客となられた。客となるということは、心を許す友となるということである。主イエスはザアカイさんの友となられたのである。

 収税人ザアカイの物語の最後にこう書いてある。「イエスは言われた。『今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから、人の子は、失われた者を捜して救うために来たのである』」。私たちに与えられた福音は、この失われたもの、失われた魂の救いである。木から降ろしていただき、しっかりと救い主に受け止めていただく経験である。そこに悔い改めが起こる。そして新しい人生が始まる。

プロテスタントってな~に?

2012-09-19 17:52:46 | 牧師室だより

牧師室だより 2012年9月16日 プロテスタントってな~に?

 よく「お宅の教会はカトリックですか?プロテスタントですか?」と聞かれることがある。「プロテスタントです」と答えると、「ああ、そうですか」でこの会話は終わる。もっと質問してくれればと思うが、それ以上はなかなか進まない。でも「備えあれば憂いなし」。質問された時に簡潔に説明できるようにまとめてみた。

 皆さんは、プロテスタントっていうと何を連想しますか?宗教改革者のマルチン・ルターでしょうか。中世の時代、宗教改革の波が次第に大きくなるなか、ルターは1517年10月31日、95ヶ条の堤題を発表しました(1517年を「一語否」と覚えましょう)。この時から宗教改革の波は大きくなり、歴史を動かしていきました。

 宗教改革は当時のカトリック教会に抗議・抵抗したという意味で、「プロテスタント」と呼ばれますが、「抗議」よりも「公示、公告」という意味の方がよいかも知れません。なぜなら、福音の真理を聖書によって公然と証していたからです。では、ルターは何を訴えたのでしょう。それは「ただ聖書のみ」「ただ信仰のみ」の二つです。

 教会の考え方もカトリックとは違います。プロテスタントはキリストを通して教会に結びつく。カトリックは教会を通してキリストに結びつくと言われます。教職の考え方も違います。プロテスタントはいわゆる「万人祭司」の考えです。「あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民」(ペテロ一2章9節)などが根拠です。

 プロテスタントは宗教改革の伝統に立ちます。改革者が立った聖書に直接福音を聞くあり方、生き方、対し方です。その宗教改革者の精神とは、み言葉への復帰、良心的にして主体的信仰への立脚、そして十字架直下に立つ教会形成です。その意味で、宗教改革というより教会改革だということもできます。まず自らが改革されるべきで、その改革は今も続けられなければならない。信仰のあり方も含めて。常に改革者、それがプロテスタントです。

私は何者か

2012-09-19 17:49:15 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2012年9月9日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

 「私は何者か」 ヨハネの手紙一 3章1-3節

 人間は誰でも自分の生き方が分からなくなり、「どう生きたらよいか」「私は何者か」と自問する時がある。「アイデンティティの問い」と言われ、それが分からないと、自分自身が分からず、自己喪失に陥ってしまう。

 今日の聖書箇所は、この問いに見事に答えている。「私は何者か」の問いに、「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子です」(2節)と答える。私たちには挫折の時がある。迷ったり、背いたり、無力だったり、病んだり、疲れていることもある。そしていつも神にふさわしくない自分を見る。しかし聖書は、「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子です」と言う。この御言葉をそのままに受け止めなければならない。なぜならこの御言葉には十分な根拠がある。「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい」(1節)とある。

 聖書がここで「考えなさい」と言っているのは、実は「見なさい」という言葉である。何と大きな愛を神が私たちに下さったかを見なさい、と言うのである。ぼんやり考えていてはいけない。思い煩っていてはいけない。「見なさい、神が与えてくださった愛が何と大きいかを」。具体的にはイエス・キリストを見なさいということである。キリストを見て、キリストとその生涯、そしてその十字架の出来事を見て、何と大きな神の愛が与えられたことかと知る。そしてそれによって私たちは「神の子」と呼ばれた。キリストから目をそらし、自分自身を見つめ出したら、私たちはいよいよ自分が分からなくなる。しかしキリストを見ると、何と驚くべきこと、大きな喜びの奇跡が与えられていることを発見する。思いもよらぬことだが、私たちは神にとってかけがえのないもの、大切なものとされ、独り子を犠牲にしても慈しむものとされている。そのことが分かる。

 しかし、私たちは、自分が神の子とされているということが、観念的には知ってはいるが、事実そうなっているということを実感をもって知らないのではないか。私たちは手で触れた、目で見たりするようなことから現実を見やすい。しかし、信仰はそういうところから現実を見たり、自分を見ていくのではなくて、イエス・キリストから現実を見ていくことである。それが信仰の根本である。

 自分は罪を赦されたといっても何もうれしいことはない、神の子とせられても、そのことによって何も得することはない、やはり毎日毎日食べることに汲々としておらねばならないではないか、というように現実から物を見ていったわけである。これに対して、信仰というものは神の御言葉から現実を見ていく。自分は神の子とせられているのだからというふうに見ていく。金がたまったからうれしいとか、何やらができたからどうしたというような、こちらから見ていくのではなくて、神のみ言葉から現実を見ていくことが信仰の姿である。

 この逆転の立場に立っての人生観、世界観というものがクリスチャンの生き方である。これをしっかり身につけてほしい。そうすれば信仰は両刃の剣のようなもので、どんな難しい問題がやって来ても、どんな悩みの中にあっても、「たとい私は死の陰の谷を歩むとも、災いを恐れません」と、すべてのことをえり分けていくことができる。

「世界食料デー」にちなんでクイズに挑戦!

2012-09-10 07:21:15 | 牧師室だより

 牧師室だより 2012年9月9日 「世界食料デー」にちなんでクイズに挑戦!

 今年も「世界食料デー」が近づいてきました。10月16日です。この日は世界の食料問題を考え行動する日として国連が制定した日です。

 日本国際飢餓対策機構が作成したポスターに次のようなアピールがありました。「飽食といわれる社会がある一方、アフリカでは3人に一人が栄養不足です。紛争の中で飢餓に苦しみ、平和を知らずにいのちを落とす子どもたち。田畑を耕し、生きるために一生懸命働いていた若者が、土地を捨てて紛争に加わっていく……。平和なしに飢餓がなくなることはありません。この痛みを私たちが分かち合い協力して、平和で飢餓のない世界の実現のために、一歩を踏み出しましょう。」

同機構のパンフレットに掲載されたクイズに挑戦して、理解を深めよう。
①次の中で日本がアフリカから輸入していないもの2つはどれ? 
レアメタル、石油、ダイヤモンド、コーヒー豆、りんご、寒天、桃の缶詰、ごま、まぐろ、タコ、鮭。
②アフリカで日本より人口密度の高い国は? 
ケニア、ルワンダ、南アフリカ。
③次のうち5歳までに亡くなる子どもの数の率が一番多い国は? 
アフガニスタン、チャド、バングラデシュ。
④世界で小学校に通えない子どもの数は? 
5千万人、8千万人、1億人以上。
⑤世界で栄養が足りなくて低体重の5歳未満の子どもの数は? 970万人、1億人、1億4600万人。
⑥日本の平均余命は83歳、アフリカの人は何歳でしょう? 
69歳、53歳、56歳。
⑦日本、中国、韓国では穀物の20%、ヨーロッパでは25%が、食べるまでの段階で捨てられています。次の地域ではどの位捨てているでしょう? 
南・東南アジアの場合:1%、3%、10%。
サハラ以南のアフリカの場合:1%、3%、10%。

以上7問です。何問答えられたでしょうか?正解は最後に。
正解:①りんご、鮭。②ルワンダ。③チャド(世界一、1000人当たり209人、日本は3人)。④1億100万人。⑤1億4600万人。⑥56歳。⑦南・東南アジアは3%、サハラ以南は1%。

神の国の大使館

2012-09-04 15:42:54 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2012年9月2日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

 「神の国の大使館」 ヨハネの手紙一 2章12-17節

 聖書の中に用いられる「世」という言葉には大きく分けて二つの使い方がある。一つは世とは「神に造られた世界」の意味。創世記1章の世界の創造のところに、神は創造されるたびに「これを見て、良しとされた」と書かれてある。自ら造られたものを肯定され、喜ばれたのである。また、ヨハネによる福音書3章16-17節では、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」とある。そして続けて、「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためです」と記されている。キリスト教信仰ではこの世を否定したり、拒絶したりする考えはない。むしろ、神はこの世を救うために御子イエスを十字架にかからせ、この世を愛し抜かれたのである。

 もう一つの「世」という言葉の使い方は、今朝の御言葉の「世も世にあるものも、……」と言われているものである。この場合の「世」というのは、自らの本質を裏切り、神を否定し、神に反逆する、神でないものを神とするあり方としての世が意味されている。だから、そのすぐ後に、そういう「世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にはありません」(15節)と言われている。「なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです」(16節)と言われる。「世も世にあるものも、愛してはいけない」と言われるのは、この「肉の欲」「目の欲」「生活のおごり」に捉えられ、縛られて、そこに閉じ込められてはいけないということである。

 「世も世にあるものも、愛してはいけない」という御言葉の意味は、世そのものを否定し、拒絶することではない。ここで言われている「世」は、神から離れ、自らを神の座に据え、神と対立する世である。そしてそのような世にあるものは、肉の欲、目の欲、生活のおごりである。それらに究極の望みを置くことが批判されている。なぜなら、「世も世にある欲も、過ぎ去っていく」(17節)からである。有限なものに究極の望みを置く人々は、永遠に存続するものには目を向けない。一方、イエス・キリストによって神のものとされ、神からの愛を知り、神を愛するものとされた人生を生きる人々は、神を愛するゆえに世を愛する。それは神の意志を行うことである。なぜなら、神が世を愛し、私たちを愛してくださったその愛をもって世を愛するからである。

 現代社会が貪欲の墓場に向かっていきそうなとき、教会は天に本国を持ち、そこから世に派遣された者として、神の国の大使館としてあり続けなければならないだろう。大使館に入れば、その国の本国の雰囲気が何となく漂っているものである。そういう天に本国を持つ人の群れが、現代社会の中になくてはならないだろう。貪欲から解放され、神の恵みに満ち足りて感謝する喜びの群れが、そして恵みによって自由にされて世を愛する証人の群れがなくてはならないだろう。そのような意味においても、教会がますます世の光であり、地の塩であることが求められているのではないか。