平塚にあるキリスト教会 平塚バプテスト教会 

神奈川県平塚市にあるプロテスタントのキリスト教会です。牧師によるキリスト教や湘南地域情報、世相のつれづれ日記です。

時間は目薬

2013-01-31 12:10:56 | 牧師室だより

牧師室だより 2013年1月27日 時間は目薬

 誰でも「死」が避けられないように、「時間」も誰に対しても平等です。だから、あとは「時間」をどう使うか、また「時間」にどう対応するかで、その人の生き方、人生が決まると言ってもいいでしょう。

 物事はすべて時間のなかで推移します。そのなかで、いろいろなことが起こります。慎重に見据えるとか、注意深く見守るなどと言った言葉がありますが、それこそ時間の推移に任せてみようとする態度です。物事にはいくらジタバタしたところで、どうにもならないことがあるものです。

 とはいえ、先のことが心配で不安に駆られ、やたらと手を回したり、動き回ったりして、かえって事態を複雑にしたり、悪化させることがあるものです。とくに抑うつ的な状態にあるときは、いろいろな心配事が頭の中を駆け巡り、それを早くなんとかしようと、電話をかけたり、手紙を書いたり、相談相手がすぐ応じてくれないと不安が高じたりするものです。待つことができません。

 世の中には焦ってもどうしようもないことがあるものです。そんな時はしばらく我慢してじっとしているほうがよいのです。特に感情絡みの問題がある場合には、焦れば焦るほど問題解決が遠のきます。

 人間の世界で起こる物事は、多くの場合、石や岩と違って、いつまでもそのままということがありません。なにごとであれ、事態は変化するものです。「時間が解決してくれる」と俗に言いますが、ひとつの真理です。

 「時間は目薬」と言います。時間が物事を収束させる力を持っているからです。事態の変化を時間の中でじっと見据えていく冷静さが必要となることがたくさんあるものです。時には、年単位という長い時間がかかることがあるかもしれません。しかし時間は止まることがありません。焦っても、ひたすら待っても、時間は同じように過ぎていきます。その時間を待つ成熟性が時には求められます。

お言葉ですから…… 

2013-01-31 12:08:18 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2013年1月20日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

 「お言葉ですから……」 ルカによる福音書5章1-11節

 イエスはゲネサレト湖周辺の町々を巡り歩き、「神の国の福音」(4:43)を宣べ伝えながら、共に働く仲間を捜す。その際イエスは、学者や町の有力者ではなく、湖で漁をしていた漁師シモン(後にペテロと呼ばれる)たちに声をかけた。彼らは後に「使徒」(6:13)として立てられ、神の国の宣教へと遣わされることになる。ここにも福音の神秘が隠されている。
 
 さて、その日、前の晩から漁をしていたペテロたちは、夜通し働いたにもかかわらず何もとれなかった。空しい疲れを覚えながら、網の手入れをしていた。そこにやってきたイエスが、群衆に神の言葉を語り終えた後、「沖へ漕ぎ出し、網をおろして漁をしなさい」と言った。ペテロたちは反発を感じたことだろう。なぜなら、漁は魚の動きの鈍い夜から朝方にかけてするものであり、明るい昼間には適さないこと。しかも、漁師である自分たちが昨夜から働いても不漁だったのに、まったくの素人であるイエスに、なぜそんな指図を受けなければならないのか。プライドを傷つけられて、反発するのは当然であろう。
 
 私たちも、費やしただけの努力や労苦に見合う結果が得られなかった時、徒労感に襲われる。それなのに「さらにやってみろ」と言われると、「もういい加減にしてくれ」と思わずつぶやきたくなる。しかし、そのように私たちが疲れと空しさに沈むときこそ、神がまったく新しい出会いを用意してくださっている時かもしれない。ここにも福音の神秘が隠されている。
 
 ここでペテロは「お言葉ですから」とイエスの言葉に従った(5節)。しかし、このような返事は、ペテロがイエスの言葉を本当に信じ、喜んで従ったわけではないことは明らかである。ところが、「おびただしい魚」で網が破れそうになり、舟が沈みそうになった(6~7節)。愕然とするペテロ。彼はイエスのひざ元にひれ伏して、自分の不信を正直に告白する。「主よ、私から離れてください。私は罪深い者なのです」(8節)。
 
 「お言葉ですから」と沖へ漕ぎ出し、網をおろしたペテロの行動は、一応イエスの言葉に従ったものではある。しかしその心の中は、不信も混じった不純なものであった。しかし、そんなペテロのしぶしぶながらの行動を通して、神は豊かに働きの実りを見せてくださった。ペテロは網が破れるほどの大漁の魚を見たとき、イエスの言葉に従った自分の行動を誇るどころか、反対に自分の中の不信仰を見せられて恐ろしくなり、「これは自分がしたのではない。ただ神さまが働かれたのだ」という告白へと導かれたのである。たとえしぶしぶであっても「お言葉ですから」とイエスに従うとき、不信仰な者の小さな網は、神さまが起こす恵みの出来事を生け捕る網となるのである。
 
 自分の不信仰を告白したペテロに向けて用意されていたのは、不信を叱責する言葉でも、訓戒の言葉でもなく、「恐れることはない。今からあなたは人間をとる漁師になるのだ」(10節)という力強い約束の言葉であった。この言葉に心を捕えられたペテロは「いっさいを捨てて」、この日からイエスに従い始めた(11節)。
 
 神の国の福音は人々に大きな喜びと希望と慰めを与え、新しい命に生かしてくれる。私たち自身はいつも誤解と弱さを抱えた者であったとしても、イエスと共に歩むとき、神の国のいのちの出来事の証人とさせていただけるのである。

ひらつか「みんなのトイレ」情報

2013-01-22 11:45:32 | 牧師室だより

牧師室だより 2013年1月20日 ひらつか「みんなのトイレ」情報

 今回はトイレの話。わが教会も一昨年、会堂のトイレを大改修しました。バリアフリーの障がい者用のトイレも設置しました。皆さんに喜ばれています。

 ところで、昨年10月に「平塚『みんなのトイレ』情報」という冊子が発行されました。発行元は市内のいくつかの市民活動団体の連携による「平塚ユニバーサルデザインプロジェクト」。「平塚パトロール」も連携団体の一つとして協力し、平パトの仲間であるSさんが関わってくださった。その関係でさっそく1冊をいただいた。掲示板につるしておきますのでご覧ください。

 冊子の「はじめに」の一部を引用して紹介します。「2011年3月11日の大震災において、避難所の中のトイレ環境について、多く語られていませんでした。実情は、汚い、臭い、暗い等の3K状態で、避難者利用をはばかる状態であり、まして、高齢者、障がい者が利用する環境ではなく、排泄障害を起こす人も出ていたようです」。このことは18年前の阪神淡路大震災の時にも問題となっていたのに、貴重な教訓が生かされていません。

 結びに「平塚地区においても、高齢者、障がい者等に優しい多機能トイレが設置されてきておりますが、まだまだ多くは、高齢者、障がい者が利用しにくいトイレが存在するため、これらを検証し、今後の改善、改修のために役立つ資料としてまとめていく予定です」と書かれています。継続した取り組みを期待するところです。

 「ただのトイレ、されどトイレ」であります。「トイレを見れば、その家の家風が分かる」と昔聞き及んだことがあります。それは個人の家はもちろん、公共施設や民間商業施設でも同様でしょう。さらにはその地域、町の精神風土が反映されるでしょう。トイレの場合ハード面(設備内容)だけではなく、美化清掃などの維持管理、利用者のマナーなども関係してきます。それらを総合的に向上させて、「日本一きれいで、充実したトイレの町平塚」のキャッチフレーズで、町おこしでもしたらどうでしょう。市長に提案しましょう。

御言葉を武具として

2013-01-16 17:05:28 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2013年1月13日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

 「御言葉を武具として」 ルカによる福音書4章1-13節
 
 主イエスが悪魔の挑戦を受けられた。「神の子」としての主イエスの地位や名誉や権威を失墜させることが悪魔のねらいだった。主イエスは、荒野で40日間、悪魔からの誘惑を受けられた。荒野は生きるには過酷な場所であり、試練に出会う場でもある。40年間は、かつてモーセによってエジプトを脱出したイスラエルの民が、その後、荒野で神の試練にあった年月。イスラエルの民は、この40年もの試練の時があったからこそ、その後の強い信仰を獲得できたという見方もある。その40年間で、イスラエルの民は、神しか頼ってはいけない、頼りにできない、そのことを深く学んだのだ。
 
 主イエスは40日間、断食された。その間、悪魔からの誘惑を受け続けられ、耐え忍ばれた。ところが、40日が過ぎ、主イエスは空腹を覚えられた。およそ悪魔の誘惑というのは、こちらに備えがあるときには、なかなか来ないものである。それはほっとしているとき、また、ぎりぎりの極限状態にあるときなどに、来る。時に有頂天であったり、なんの警戒もなく、無防備な時にやってくる。それは実に巧妙に避けがたくやって来る。
 
 悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」。それは、イエス・キリストにはできる奇跡だった。しかし、それを行うことの問題点は、お前は神の子なのだから出来るだろう、と父なる神に願い求めるのではなくて、自らの力を頼りに行なう行為であったことである。イエスはこの時「人はパンだけで生きる者ではない、と書いてある」と申命記8:3の言葉を用いて応戦された。この申命記の御言葉は次のような文脈の中にある言葉である。神が荒野でイスラエルの民を試練に会わせ、マナを与えたのは、人がパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることを知らせるためであった、ということである。イエスに対するここでの誘惑は、イエスが父なる神にどこまで信頼を貫き通せるか、だった。
 
 第2の誘惑は、世界の国々の権力と繁栄を見せた後、悪魔を拝むなら、「みんなあなたのものになる」というもの。悪魔を拝むとは、欲望のままに行為し、神を畏れないということである。この時もイエスは、申命記6:13の御言葉「あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい」をもって対抗した。
 
 3つ目の誘惑は、神殿の屋根から飛び降りたらどうだ、というもの。これは、神が助けてくれるかどうかという、まさに神を試すものだった。おまけに、「神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる」という詩編91編11-12節の御言葉を引用して、いたずらに神を試すだけの行為をあたかも信仰的な事柄のように御言葉でフォローして、イエスに神から離れることを迫った。ここで、私たちは、悪魔も御言葉を利用することを知らされる。この後、イエスも「あなたの神である主を試してはならない」と申命記6:16をもって応戦し、悪魔を退散させられた。この場合、悪魔は誘惑に陥らせるために御言葉を利用したが、イエスにとっては、御言葉とは生涯を通して、全存在をかけるものだったのである。御言葉は自分の都合のいいように用いるのではなく、御言葉に聴き、そして示されたところに従う、ということが大切なのである。

教育を受けられない子どもたち

2013-01-15 12:36:17 | 牧師室だより

牧師室だより 2013年1月13日 教育を受けられない子どもたち

 「学校に机や椅子がなくても気にしない。私はただ勉強したいだけ。怖いものは、何もないわ」。これはパキスタンの14歳の少女、マララ・ユスフザイの言葉です。彼女は、昨年10月9日に、女子が教育を受けることに反対しているイスラム主義組織タリバンの武装グループに銃撃されたが、一命をとりとめました。その時の言葉です。

 なんとマララは、11歳の頃から、パキスタン・タリバンが勢力をふるう地域で、女性教育を求める活動をしていました。マララの父親も、女性教育の禁止を求めるタリバンに最後まで抵抗し、女学校の経営をしていました。そのために、マララもその家族も、これまでにタリバンから何度も脅迫を受けていました。そのようなことから、マララは「14歳の人権活動家」として、この銃撃事件後、世界中に報道されました。

 パキスタン・タリバンは、民間人を標的に、無差別攻撃を行っています。パキスタンの治安部隊とタリバンとの紛争の結果、多くの学校が破壊され、数千人の子どもたちが教育の機会を奪われています。パキスタンと同様にアフガニスタンでも、女性が教育を受ける権利は奪われています。このような行為は、決して許されるものではありません。

 パキスタンやアフガンだけではありません。多くの国や地域で、飢餓や貧困、戦争・紛争、偏見・差別、伝染病などの病気で、多くの子どもたちの生命が脅かされ、教育を受ける権利さえも奪われている現実があります。子どもたちに何の責任もないのに、常に弱者である子どもたちは、大人のエゴの犠牲となっているのです。子どもの人権を守らなければなりません。

 ひるがえって日本の子どもたちの置かれている状況はどうでしょうか。十数万の不登校の児童・生徒。いじめによる不幸な事件はあとを絶たない。親の育児放棄や虐待。学校における体罰、受験地獄。子どもたちは自ら声も挙げられず、息抜く時がなく、追いたてられているようです。子どもたちが未来に希望や夢を持ててこそ希望が生まれるのです。

主を待ち望む人生

2013-01-09 16:40:35 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2013年1月6日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

 「主を待ち望む人生」 ルカによる福音書2章22-38節
 
 シメオンは、「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた」(26節)と紹介されている。さらに、「正しい人」、つまり、律法をしっかり守り、信仰心が篤く、民族の救いを待ち望んでもいたと書かれている。シメオンは、メシアを待ち望む人生を歩んでいた。

 ところが、彼に示されたメシアの姿は、当時の誰もが想像だにしなかったものだった。それはイスラエルの民だけではなく、「万民のために整えてくださった救い」をもたらすお方で、「異邦人を照らす」お方であること。王になる人ではなく、「イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められている」というものだった。しかし、彼はそれが自分たちに与えられたメシアだと聖霊の導きによって(27節)信じた。
 
 84歳の女預言者アンナもまた、神から救い主の知らせを受けていたと思われる。彼女は若くして夫に死なれるなど、決して幸せな人生だったとは言えないが、それでも84歳まで健康を守られ、神殿を離れず断食と祈りをなし、神に仕える敬虔な生活ができたことは幸せだった。そして、ついに幼子イエスにお会いすることができ、彼女はエルサレムの救いを待ち望んでいた人々に、彼こそメシアであると大きな喜びをもって証言したのだった。

 シメオンもアンナも早くからメシアが誰で、どのようなお方であるかを知らされ、その神のみ言葉にかけて、生きていた。どちらもすでに高齢だったが、その生きる姿勢はなかなか活力に満ちている。彼らが生き生きと映るのは、主を待ち望む人生を歩んでいたからではないだろうか。
 
 今、私たちに示されているメシアは、すでに来られた方であり、今も共におられるが、やがて終末となり、新しい世界の始まりの時に、再び来られる方である(黙示録4:8)。そして、この方を待ち続けている。現代に生きる私たちにとって、主を待ち続けるとはどういうことだろうか。聖書は、終末になってイエス・キリストがいつ来られるかは分からない、そして、いつ来てもいいように備えをしておきなさいと教えている。これは、災害がいつ来てもいいように備えをするのとは質を異にする。そういった意味では、何も持たないということである。物質的な備えなどいらないのである。その生活は天に宝を積むことである。いと小さき貧しき人に親切にすること、どれだけ多くの人々に愛を注げるか、ということである。そして、それはその人にとって平凡な日々での愛の行為となろう。天に宝を積む愛の行為の平凡な日々をもって終末に臨むのである。そして、それは絶望ではなく、希望としての新しい世界の到来であって、何よりも喜びの日となる。

生活保護申請の対応のひどさ

2013-01-08 16:34:58 | 牧師室だより

牧師室だより 2013年1月6日 生活保護申請の対応のひどさ

 ぜひ、みなさんに実態を知ってもらいたいと思い、書きました。

 先月、総合公園で野宿生活をしていたAさん(教会の炊き出しにも来られていた)が、私たちの支援団体「ひだまり」に生活保護を受けたいと相談に来られた。そこで「ひだまり」で運営しているシェルター(アパートの一室)に入居してもらって生活保護申請をすることにした。

 そして一人で生活保護課に行かれたが、いろいろなことを言われて受け付けてもらえなかった。そこでくじけてしまって、もう一人では行く自信がないということで、翌日私が同行することになった。

 最初は二人の職員が対応した。前日に聞き取りをしているのにまた同じことを聞く。お役所仕事にうんざりだ。でもまだ許せる。なぜならプレッシャーを与えるようなことは言わなかったから。多分に私が同席していたからであろう。

 申請受理の方向で話は進んで、次に対応したのが某ケースワーカーである。これがひどい。慇懃無礼、冷たい視線、事務的、不親切な対応。申請用紙をもってきて事務的に説明をする。その用紙を差し出す時の何とぞんざいなことか。Aさんがどう書いていいか戸惑っていても冷たい視線でじっと見ているだけ。申請理由を「どう書けばいいのですか」と聞いても、「自分で考えて書いてください」と突き放す。そこで書けないと書類不備で受け取れないと言い放つ。ここでたいてい申請者は「もういいです」と帰っていく。いわゆる水際作戦である。また嘘を書くと刑事罰になるとプレッシャーをかける。嘘を書くつもりはなくても記憶違いやうろ覚えもある。全部正確に書かないと申請してもらえないのではと申請者はビビる。そんなことはない。そこで同行した私がアドバイスして記入を済ませる。

 あまりの対応のひどさに二度ばかり思わず声をあげてしまった。「そんなことまで聞く必要があるのか」「もっと心のこもった対応ができないのか」。同じ市役所にいくつもの窓口があるが今どきこのような対応をする職員なんていない。どうして福祉行政に一番ふさわしくない職員がいるのか、不思議。