平塚にあるキリスト教会 平塚バプテスト教会 

神奈川県平塚市にあるプロテスタントのキリスト教会です。牧師によるキリスト教や湘南地域情報、世相のつれづれ日記です。

雲の柱、火の柱

2012-04-26 16:30:34 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2012年4月22日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

 「雲の柱、火の柱」 出エジプト記13章17-22節
 
 出エジプトの出来事は、「神が奴隷であったイスラエルの人々をエジプトから脱出させたこと」と考えていたのだが、もう一つの面があることに今回気づかされた。それは、イスラエルの人々はエジプトの地から脱出するが、その先は過酷な地、荒れ野である。その荒れ野での40年間の旅路を通して、イスラエルの民が、神なき民から神の民へとなっていくというプロセスでもあったということである。今日の聖書箇所も、そのプロセスの一つである。

 モーセは、族長ヨセフの遺言を守り、ヨセフの骨を携える(19節)。それは430年前(12:40)のヨセフが残した二つの遺言に由来する。それは「わたしは間もなく死にます。しかし、神は必ずあなたたちを顧みてくださり、この国からアブラハム、イサク、ヤコブに誓われた土地に導き上ってくださいます」(創世記50:24)と、「神は、必ずあなたたちを顧みてくださいます。そのときには、わたしの骨をここから携え上ってください」(創世記50:25)である。
 
 もともとイスラエルの民のエジプト移住は、ヤコブの12人の息子間の争いから始まり、エジプトに奴隷として売られたヨセフの時に決定的となった。このヨセフによって、神はイスラエルを飢饉から救われ、生き永らえさせ、大いなる救いに至らせられた(創世記45:5-7)。従って、出エジプトの際、ヨセフの骨を携えることは、イスラエルのエジプト時代の終わりと、ヨセフから始まった、すなわち、神は、とこしえにイスラエルの命を救われ、生き永らえさせられるということのシンボルでもある。
 
 ヨセフの二つの預言にある「顧み」という言葉は、神が恵みをもって訪れる、という意味。例えば、年老いたアブラハムとサラに子どものイサクが与えられた出来事も神の顧みであり、神の恵みの訪れ(創世記21:1)であった。また、430年間、民の叫びと嘆きを聞き続けておられた神が、今ねんごろに恵みをもって民のただ中に訪ねられ、民の苦しみを見、叫びを聞かれ、その痛みを知られた(3:7)。そこで、主は、イスラエルの人々がエジプトの国を出発する前夜、彼らを導き出すために寝ずの番をされた。それゆえ、今もイスラエルの人々は過越祭の時、主のために寝ずの番をするのだという(12:42)。そして、ついに主は、民の見える「昼は雲の柱、夜は火の柱」として民の先頭となり、困難な旅を導かれる。
 
 「雲の柱」「火の柱」とは、それぞれ、主の臨在を表わす言葉であり、民を導き、民を守られる神を表わす言葉である(14:19,20)。たとえば、主がモーセに語られる時、雲の柱が会見の幕屋に降りてきた(33:9)。幕屋の上をいつも雲が覆い、民は雲が幕屋から昇った時に旅立った(40:35)。雲が昇らない時は、民は出発しなかった。また、主は、シナイ山において火と雲の中からモーセに語られた(19:18)。
 
 このように、民にとって、雲の柱、火の柱は、目に見える神の顧みであって、自分たちの苦しみを見、叫びを聞かれ、痛みをご自分の痛みとされる神の訪れと臨在そのものなのである。私たちにとって、雲の柱、火の柱とは何か。主イエスである。主イエスの御言葉である。御言葉を通して私たちは導かれ、信仰生活が整えられていく。そのようにして神の民、神の子とされていくのである。

平塚バプテスト教会信仰告白(試案) 9 主の日②

2012-04-26 14:59:21 | 牧師室だより

牧師室だより 2012年4月22日 平塚バプテスト教会信仰告白(試案) 9 主の日②

 私たちは、イエス・キリストが復活された週の初めの日を主の日として覚え、礼拝をささげる。主の日の礼拝は、霊とまこととをもって神を讃美し、祈り、み言葉に聴き、罪を悔い改め、感謝の献げ物をし、神の恵みを共に喜ぶ。私たちの生活は、この主の日の礼拝から始まり、キリストを証しつつ、隣人と祝福を分かち労苦を共にする。

 私たちの生活は主の日の礼拝から始まるということが大切です。私たちの生活全体はその出発点において、神様からの祝福された生活であります。

 どんなに困った、つらい生活であっても、神様は私たちと一緒に、このつらさを味わって下さいます。それによって、私たちがこれ以上、困難の中にとどまるところがないようにです。

 また、生活の中で喜んでいたら、神様も一緒に喜んで下さいます。私たちがこの世の喜び以上のものを知るようにと、神様はそうして下さいます。

 そうですから、私たちの生活は、「キリストを証しつつ、隣人と祝福を分かち労苦を共にする」という点に、根本的な意味があります。

 パウロは、「わたしは前の手紙で、不品行な者たちと交際してはいけないと書いたが、それは、この世の不品行な者……と全然交際してはいけないと、言ったのではない。もしそうだとしたら、あなたがたはこの世から出て行かねばならないことになる」(第1コリント5:9-10)と言っています。

 ここにキリスト者の社会との関係が示されています。私たちは社会の中で、キリストを証しつつ、社会の問題と取り組み、奉仕するようにと、押し出されています。私たちの生活は、礼拝において、神様によって進むべく、祝福されて、この世へと遣わされていくのです。   

 <余録>礼拝に参加するには心の備えが必要です。「お前は自分の神と出会う備えをせよ」(アモス書4:12)、「何も持たずにわたしの前に出てはならない」(出エジプト記23:15)とあります。また、礼拝後も大切です。この世での礼拝への派遣なのですから。礼拝前は私が神に、礼拝中は神が私に、礼拝後は私が隣人に語りかけるのです。

足ることを学ぶ

2012-04-26 14:35:42 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2012年4月15日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

 「足ることを学ぶ」 フィリピの信徒への手紙4章10-14節
 
 パウロは「わたしは自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えた」(11節)と記している。口語訳聖書では「どんな境遇にあっても足ることを学んだ」と訳されている。パウロの言う「足ること」とはどんな意味があるのか。

 パウロは「足ることを学んだ」(口語訳)と言った後で、「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」(13節)と語っている。「足ることを学ぶ」ということは、ごく限られた宗教的エリートだけが身に付けることのできる精神修養として言われているのではない。そうではなくて、「わたしを強めてくださる方」がおられるとパウロは語る。この「強めてくださる方」と共に生きているということが重大である。

 この聖書の箇所と内容の上で密接に関係しているもう一つの聖書箇所がある。コリントの信徒への手紙二第12章9節。「すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」である。続いて10節には「なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」とある。この「わたしは弱いときにこそ強いからです」という言葉が、先ほどの「わたしを強めてくださる方」という表現とよく似ていることは、すぐ分かるだろう。強めてくださるのは主キリストにほかならない。「キリストの力がわたしの内に宿るように」と言われているのも同じで、どちらも「デュナミス」という言葉が用いられている。「力」という言葉だが、「強める」にもこの言葉が含まれている。パウロが「どんな境遇にあっても足ることを学んだ」と言い、それは「わたしを強めてくださる方」によってであると語ったのは、キリストのデュナミス、キリストの「力」がわたしに宿って「強めて」くださるということなのである。
 
 フィリピの信徒への手紙とコリントの信徒への手紙の両方の箇所で、もう一つ共通していることがある。それは「わたしの恵みはあなたに十分である」という、この「十分である」という表現である。文語訳聖書では「我が恵み汝に足れり」と言うことで、この「十分である」は、「どんな境遇にあっても足ることを学んだ」という「足る」と同じ語源の言葉である。パウロが生き、そして伝えている「足る」生き方は、どんな境遇にあっても「我が恵み汝に足れり」と言ってくださるあの主イエスの、その恵みに足りることである。主の恵みに足りればこそ、どんな境遇にあっても満足するということである。人間の精神修養では十分ではない。そうした修養に耐えることのできない弱さの中でも、キリストの恵みの力に生かされることができる。キリストとの生活をもつことができるのである。
 
 キリストとの生活の中で「主の恵みに足る」という生き方が示されている。主イエスの恵みと力が宿ってくださり、わたしたちを強めてくださる、そのことに自足するというのである。しかしそれはどういうことだろうか。「力は弱さの中でこそ十分に発揮される」と主は言われた。主の恵みと力は、「弱さの中で」発揮される。ということは「私たちの弱さの中で」ということ。しかしそれがそうなのは、主の恵みと力は、人間の弱さを担った「主の十字架の中で」十分に発揮されたからではないだろうか。主が十字架という最も低く下った弱さの中で、主の恵みと力は発揮されたのである。だから、「我が恵み汝に足れり」「力は弱さの中でこそ十分に発揮される」、この言葉は、「十字架の主」から繰り返し聴くべき言葉であろう。

平塚バプテスト教会信仰告白(試案) 9 主の日①

2012-04-17 14:48:26 | 牧師室だより

牧師室だより 2012年4月15日 平塚バプテスト教会信仰告白(試案) 9 主の日①

 私たちは、イエス・キリストが復活された週の初めの日を主の日として覚え、礼拝をささげる。主の日の礼拝は、霊とまこととをもって神を讃美し、祈り、み言葉に聴き、罪を悔い改め、感謝の献げ物をし、神の恵みを共に喜ぶ。私たちの生活は、この主の日の礼拝から始まり、キリストを証しつつ、隣人と祝福を分かち労苦を共にする。

 ユダヤ教が土曜日を安息日として守ったのに対して、初代教会は日曜日に礼拝を守りました。使徒言行録には日曜日にクリスチャンが集まり、主の晩餐を守ったことが記されています(使徒20:7)。なぜ日曜日かというと、それは、この日が十字架につけられた主イエスの復活された日だからです(ルカ24:1)。

 使徒言行録によると、初代教会の人々は、はじめは安息日に集会をしたり、神殿に詣でたりしていました。しかし、ユダヤ教の側からの迫害やステパノの殉教をきっかけにして、さらにそれのみではなくキリスト教信仰の独自性を根拠にして、初代教会は時間的にも場所的にも独自の形を持つようになりました。こうみてきますと、日曜日に教会で礼拝を守るということは、初代教会の苦しい闘いの中から形成されてきたといえるでしょう。

 私たちは日曜日を「主の日」と呼びます。もともと聖書では、「主の日」は歴史の終末の日のことですが、主イエスと共に神の国が始まり、主イエスの復活において終末の日に起こるべきことが先取りされているかぎり、「主の復活の日」(日曜日)はまさしく「終末の日」を覚える日でもあります。

 日曜日に礼拝することによって、私たちは、この日に復活された主を記念し、またこの主が終末時に再び来られるという約束を待望します。

 <余録>礼拝に欠かせないことは、神に栄光を帰すること。つまり神に最高の価値をお返しすること。そして神への献身を新たにすること。さらに目に見えない世界(天)に根差し、見える世界(地)に派遣されること。「霊と真理をもって父を礼拝する」(ヨハネ福音書4:23)ことを大切に。

驚きから出会いへ

2012-04-17 14:43:38 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2012年4月8日 イースター礼拝宣教 杉野省治牧師

 「驚きから出会いへ」 マルコによる福音書16章1-8節

 イースターの出来事は闇から始まる。日が沈んで、安息日が終った時、婦人たちは「香料を買った」。夜が来て、闇が深くなる時。それは心の闇、絶望の闇が覆いつくしている時でもあった。愛する者を失い、生きる支えをなくした。敗北感と悲壮感と絶望の中、まんじりともせずに夜の明けるのを待ったことだろう。そして「朝ごく早く」墓に行った。そこで、復活の出来事に出会う。ある神学者が言った。「私たちは日没に向かって旅する者ではなく、イエス・キリストによって日の出に向かって旅する者である」(W.バークレー)。復活の出来事は絶望から希望の出来事である。
 
 この世は悪い知らせ、暗いニュースであふれている。しかし今、暗闇と絶望が支配する墓の中で、福音、よき知らせが告げられるのである。しかしそれは婦人たちにとっては、大きな驚きであった。身も心も縮こまるような恐れであり、驚きであった。人生は驚きの連続である。しかし驚きにもさまざまな驚きがある。日常の生活において経験する驚きは、未知のものや新しいものを見聞する時に感じる感情である。人は未知の世界に踏み込む時、さまざまな驚きを経験する。たとえば異質な自然や風土、宗教や文化や社会に接すると大きな驚きを経験する。しかし時間の経過と共に、新鮮であったものも古くなってゆくものである(コヘレト1:9)。しかし、婦人たちの驚きは時間と共に慣れていくようなものではなく、人生の根源的な驚きとなったのである。
 
 だから、この大きな驚きに対して、天の使者である若者は「驚くことはない」と言ったのである。「ひどく驚いた」婦人たちの心を静めるようにして、良い知らせを告げるのである。告知の内容はまず「あなたがたより先にガリラヤへ行かれる」である。「ガリラヤ」は主イエスが宣教のために労苦された場所である。弟子たちと出会われ、弟子たちと日常生活を送った場所である。その「ガリラヤへ行かれる」という約束が示される。弟子たちが挫折したエルサレムで失望し、落胆している時に、主イエスがガリラヤに先回りするのである。ここに主イエスの先回りの愛がある。「お目にかかれる」。ペテロたちが見る前に、主イエスが先回りの愛を持って出会ってくださるのである。この真実な出会いこそがペテロたちを立ち上がらせ、主イエスのみあとに従うことを新しく可能としたのである。

 だれも復活についてよく理解し、それを十分に証明することもできない。しかし「空虚な墓の発見という不可解な出来事が信仰を生み出すのではなく、信仰は生ける主がその弟子たちと出会われることによって、生まれるのである」(E・シュヴァイツァー)。この出会いが復活信仰の基盤であり、このような出会いを経験した者が、不可解に思われる出来事を理解するだけでなく、絶望のどん底から立ち上がる力を受けることができるのである。出会いから始まるのである。

 私たちは自分が知り経験しているよりも、比較にならないほど大きな救いの中に置かれているのである。生ける復活のイエスは弟子たちに約束されたように、私たちのガリラヤである苦悩や悲哀、矛盾や不条理に満ちた日常生活、ついに罪と死の定めにある人生の極みの中で、イエスが復活者として出会ってくださるという約束を与えられているのである。私たちはただそれを聞き、承認し、感謝しつつ、受け入れるだけである。

イースターの祈り

2012-04-09 16:40:47 | 牧師室だより

牧師室だより 2012年4月8日 イースターの祈り

 イースター(復活祭)おめでとうございます。イースターはイエス・キリストが死からよみがえられたことをお祝いする日です。イースターはクリスマスと違って、毎年日にちが移動します。春分以後の最初の満月の次の日曜日となっているからです。キリストの復活は、「死者のよみがえり」「死の克服、いのちの勝利」という希望の告知です。そしてそれはキリストへの信仰だけが明らかにしてくれる、神の秘儀です。教会はこの復活の告知から出発しました。主の復活があればこそ、すべてのものに意味がでてきます。「キリストが復活しなかったのなら、私たちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」(第一コリント15:14)。

 二つのイースターの祈りを紹介します。共に祈りをあわせましょう。最初は宗教改革者ルターの祈り。「全能なる神よ、あなたは、み子の死によって罪と死とをお滅ぼしになり、み子の復活によって清浄と永遠の生命とを回復されました。それはわたしたちが、悪の支配からあがない出され、あなたのみ国に生きるためであります。わたしたちが、全心をもってこのことを信じ、この信仰にかたく留まり、常にあなたをたたえ、あなたに感謝することができるようにしてください。世々限りなく、あなたと聖霊と共にひとりの神として生きて統べ治められるみ子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン」。

 次は韓国の教会で捧げられた祈り。「全能の父なる神よ、あなたは独り子なる御子イエス・キリストの死と復活によって私たちを贖い出し、私たちがこの世におけるあなたの証し人となるように聖霊を降したまいました。御名を拒む人々の心から暗闇と罪の力を追い払い、すべての人々があなたを信じ、聖霊の神殿となることができますように、あなたの福音に心を開く者にしてください。そして、私たち、あなたを信じる者が、御言葉に仕えることによって、御救いの恵みに触れることのなかった人々に力強い証しをすることができますように、この祈り、あなたと聖霊と共にとこしえに支配なしたもう主イエス・キリストの御名によってささげます。アーメン」。</font>

思い煩うのはやめなさい

2012-04-04 07:31:10 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2012年4月1日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

 「思い煩うのはやめなさい」 フィリピの信徒への手紙4章4-7節

 パウロはフィリピの信徒に「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい」と勧告した。フィリピの人々は一体、どんなことに思い悩んでいたのだろうか。それは記されていない。今獄中にいるパウロの心配か、今度は自分たちにも迫っている迫害の心配か、あるいは使徒パウロがいなくなった後の教会の心配、自分たちの弱点や外からの脅かしからくる心配か、様々考えられる。私たちの場合にも、具体的な問題は人さまざまだろう。教会のこと、仕事のこと、健康のこと、家庭の行く先のこと、日本経済の現状、社会や世界の成り行き、人間関係のこと、いろいろである。

 思い煩っているとき、私たちは問題を自分の中に抱え込んでいないだろうか。自分の中に抱え込んで、誰にも打ち明けることができない場合が多いのでは。思い煩っているとき、私たちは多くの場合、孤独である。親しい人にも打ち明けられない。辛い状態なのに、神さまにも打ち明けない。「思い煩いをやめなさい」の後に、「何事につけ、感謝をこめて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」とある。問題を自分ひとりで抱え込んでいるということは、感謝をもって祈り、そして神に願い、打ち明けることをしていない。つまり、まるで神などいないように振舞っているわけである。これが思い煩いの正体。自分にとって神がいなくなっている。自分が自分の主になっている。自分の未来も自分でどうにかしなければならないと思っている。本人は大変苦しい状態なのだが、結局それは、神を否定して、まるで自分が神の役を演じている。神を神としていない。

 そういう思い煩いをやめなさいとパウロは言う。これに対応しているのは、その前に言われている「常に喜びなさい」である。「常に」とあるのは、嬉しいときだけではなく、嬉しくない時にも「喜びなさい」ということだろう。「常に」とあるのは「どんなことでも」というのと対応している。問題はその人の気分の問題ではないし、その人の性格や気質によることでもない。「常に、喜びなさい」と言われ、「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい」と言われる理由として語られているのは、「主はすぐ近くにおられます」という事実である。主イエス・キリストの近き存在に理由を持っている。主は近いから、思い煩うのはやめなさいと言うのである。

 「主は近い」。「近い」というのは、間隔を知ることが不可能なほどにすぐ近くにいる状態を指している。私たちの将来は私たちの手の中にはなく、すぐに来る主イエス・キリストの力の中にあることを示している。ここに繰り返し「主において」とか「キリスト・イエスによって」と言われている。キリストがいてくださること、来てくださることが、思い煩うのをやめなさいと言われる根拠なのである。私たちはもう既にイエス・キリストの贖いの力、執り成しの力、そして裁き、赦す力、主イエス・キリストの恵みの中に生かされている。キリストの力の圏内に生かされている。だから、パウロは言う。「そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」(7節)。守られているという安心、平安、そこから生きる力、耐える力、勇気、知恵もいただいて前へ進むことができるのである。