平塚にあるキリスト教会 平塚バプテスト教会 

神奈川県平塚市にあるプロテスタントのキリスト教会です。牧師によるキリスト教や湘南地域情報、世相のつれづれ日記です。

感謝の意味

2010-11-26 11:20:45 | 説教要旨

(先週の説教要旨)  2010年11月21日    杉野省治牧師

 「感謝の意味」 ルカによる福音書17章11-19節
 
 今朝の聖書箇所は、主イエスがエルサレムに上る途中、サマリヤとガリラヤの間を旅しておられた時のこと、重い皮膚病に苦しんでいた十人の人を癒されたという話である。そしてその十人のうち、ただ一人だけが主イエスのもとに戻ってきて感謝したというのである。主イエスは他の九人はどこにいるのかとお尋ねになった。感謝するために戻ってこない人々を責めたのではない。その人々を案じられ、心配されたのである。現代人の多くは他の九人の位置にいるのではないかと思われる。そして主イエスは、戻ってきたその人に「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言われたのである。
 
 戻ってきたただ一人の人はサマリア人だった。彼は自分が癒されたのを知った。主イエスが自分たちに目をとめてくださったあのまなざしと、あの御言葉が癒してくれた。それは彼には明らかだった。そこで彼は「大声で神を讃美しながら戻って来た」(15節)のである。さっきは「声を張り上げて」「憐れんで下さい」と言った人が、今は「大声で神を讃美しながら戻って来た」のである。彼は主イエスの憐れみの中に神の憐れみが、神の恵みが働いているのを知ったのである。それは彼には神の栄光の働きに見えたのである。だから大声で神を讃美したのである。「そしてイエスの足もとにひれ伏して感謝しました」。こういう「感謝」がある。こういう感謝に私たちも生きたいと思う。
 
 「大声で神を讃美しながら戻って来た」。もちろん主イエスの元に戻ってきたのである。このことは主イエスの言葉としても繰り返される。「この外国人のほかに、神を讃美するために戻って来た者はいないのか」(18節)。この人は、祭司のところに行き、社会復帰の手続きをする前に、主イエスのところに戻ってきた。人々との関係を取り戻すその以前に、彼は主イエスとの関係に深く入った。「イエスのところに戻って来た」ということは、主イエスが彼の人生の起点になったということである。出発点であり、中心であり、支えになったということである。「イエスの足もとにひれ伏して感謝する」。それは主イエスの中に神の臨在を見たのである。天地を創造し、病むものを癒す神の全能の力が働いているのを見たのである。それが恵みの力であることを知ったのである。主イエスこそわが主、わが神と信じたのである。だから、主イエスは「あなたの信仰があなたを救った」(19節)と言われるのである。 

 あの日、清められたのは十人だった。しかし感謝したこの一人だけが「あなたの信仰があなたを救った」と言われたのである。ここに「救い」がある。「救い」は「清め」以上ではないか。「救い」は「癒し」以上である。「救い」は「健康」以上である。そこには日常生活の回復以上のことがあるからである。憐れみの主イエスご自身との親しい交わりの中に生きることができるからである。主イエスは今日も私たちに言われる。あなたは清められただけではない。あなたは救われた者として、立ち上がって、行きなさい、と。

目的、熱意、作戦

2010-11-23 08:38:23 | 牧師室だより

 牧師室だより 2010年11月21日 目的、熱意、作戦

 10月に一度紹介した中村芳子さんの著書『生きる力を与えてくれる 聖書88の言葉』(ダイヤモンド社 2010年)から今回も引用し紹介したい。

 「明確な目的と熱意があれば 困難を乗り越えて 目標を達成できる」の項目は今の私たちの教会にとって参考になる。「何かを達成しようとする時、妨害が入ったり壁にぶつかることはめずらしくない。仕事でも勉強でも人生でも。めざすものが高いほど妨害や障壁も大きくなる。その時、どういう態度を貫くかで結果が変わってくる」とある。

 「どういう態度」?今私たちは100人礼拝を目指してスタートした。前向きか後向きか。積極的か消極的か。確信を持っているか懐疑的か。熱意があるか冷めているか。確かに目的は明確でも熱意がないとそれは絵にかいたモチになるだろう。

 さらに中村さんは、紀元前8世紀の南ユダの国の再建に貢献したネヘミヤを取り上げて、次のように書いている。「荒涼とした地を前にしても、彼の目には完成したエルサレムの町とそれをとりかこむ城壁が映っていた。神の計画だ。達成できないはずはない」。今、私たちは30数人の礼拝を前にして、100人の礼拝の光景が目に映っているだろうか。ビジョン(幻)が見えているか。それは神から示された計画だという確信が与えられてこそである。

 最後に中村さんは、エレミヤは「希望を失いそうな人々を励まし、民の間の問題を解決し、警備の体制を整え、町と城壁の修復作業を進めた。そしてついに、52日という驚異的な速さで工事は完成した。明確な目的、熱意、作戦。この3つがあれば、困難を乗り越えて目標を達成できる」と結んでいる。

 今私たちは教会の使命とビジョンを明確にして、めざす教会像を共有しようとしている。それは中村さんのいう「目的」だが、ほぼまとまった。「作戦」とは戦略・戦術のことで、中長期計画ということになろうか。これも作成はできる。やはりカギは「熱意」である。教会用語でいえば「信仰」と言い換えてもいいだろう。信仰は神の言葉を聞くことから始まることを忘れずに励みたい。

ホームレス支援・バーベキュー会

2010-11-20 18:19:03 | サポーティングハウスひだまり
2010年11月20日(土) 平塚バプテスト教会中庭
平塚でホームレス支援活動をしている「平塚パトロール」の仲間の会で
恒例のバーベキュー会を行った。
路上生活からアパートや施設などに入居して自立生活している仲間も
孤立しないように呼びかけて一緒に食事をした。

ステパノの祈り

2010-11-16 13:59:54 | 説教要旨

(先週の説教要旨)  2010年11月14日    杉野省治牧師

 「ステパノの祈り」 使徒言行録7章54-8章1節 

 ステパノは、ユダヤ教の会堂で大胆に御言葉を語った。それを不快に思うユダヤ教の指導者たちは、彼に問題を突きつけるが、歯が立たない。彼らは最高法院まで連れて行くが、そこでも彼は「恵みと力に満ちて」(6:8)、大胆に証しすることをやめなかった(6:8-15)。それゆえ聴衆は、ステパノの説教を聞いて、「心の底から激しく怒り、ステパノに向かって、歯ぎしり」(7:54)をし、あげくの果てに、彼を市外に連れ出し、石で打ち殺そうとした。

 しかし、ステパノは動揺することなく、淡々とした態度で応じ、彼を罵倒する人々の前でも聖霊に満たされ、天を見つめながら、「ああ、天が開けて、人の子が神の右に立っておいでになるのが見える」と叫んだ。死に直面した時でも、周りの人々を見るのではなく、天を仰いだステパノ。彼は人々のため、そして自分のためにも、十字架を背負って勝利してくださった方をはっきりと見上げていたのだ。

 その時のステパノの祈りが、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」であり、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」であった。二つの祈りのうち、前者は神に自分をゆだねる祈り、後者は隣人のための祈りである。私たちの祈りは、まず神に依り頼む祈りでなければならないだろう。どんな状況に直面しても、「主よ、御手にゆだねます。私の霊をお受け下さい」と祈る祈り。神に全き信頼を置く者、真に良き戦いを戦った人のみこう祈れるだろう。いや、足らざる者であるがゆえに祈れる祈りでもあるだろう。
 
 もう一つの祈りは自分に石を投げつける隣人に向け、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」である。ステパノを最後まで、支えたのは、不動の信仰と、敵をも愛する愛である。いかなる場合でも、人を動かすものは、雄弁でも、その泰然自若な態度でもなく、愛である。このステパノの愛には、十字架の主の愛が生きている。愛は他者へと向かい、隣人へとりなしの祈りとなる。
 
 私たちは注目されずに、ただ静かに労しても、満足しなければならない。神は、私たちが目的なしに死なせることはなさらない。そういうように、無駄か、どうかということを計算することは、俗的なことで、霊的なことではない。信仰は見ぬものを真実とする。いや、それは見るもの以上に確実である。そしてすべてのことは、イエス・キリストの暗闇を破り、勝利する、その御業の証しにほかならない。天を見るとは、ここにおいて、すべての闇を突き破って勝利するキリストの栄光を仰ぎ見ることにほかならない。

 私たちの祈りは、主にゆだねる祈り、隣人のためにとりなす祈りであることが求められている。そのような祈りとなっているだろうか。祈りをもって始め、精一杯ことにあたり、あとは主にゆだねる祈りをする。また、自分のことのみならず、隣人のために祈る、いわゆるとりなしの祈りがわたしたちの信仰をも成長させる。

11月23日(火・祝)教会バザー

2010-11-16 10:35:49 | 教会行事
11月23日(火・勤労感謝の日)は教会バザー
今回はチャリティーバザーです。
収益を重度心身障害児(者)施設の久山療育園(福岡県)、京都にあるバプテスト病院、
アフガン、パキスタンで医療・農業支援をしているペシャワール会(中村哲医師代表)、
地元平塚の進和学園に寄付します。ご協力ください。

来週23日は教会バザー

2010-11-15 09:42:16 | 牧師室だより

牧師室だより 2010年11月14日 来週23日は教会バザー

 いよいよ来週の火曜日(11月23日・勤労感謝の日)は教会バザーです。以前もバザーやフリーマーケットを行なっていましたが、今回は久しぶりの開催です。皆さんが一所懸命、教会の働きの一つとして理解し、奉仕して下さっています。感謝です。

 今回、バザーを再開するにあたり、みんなで目的などを確認しました。目的の一つは、チャリティーバザーにするということです。収益を重度心身障害児(者)施設久山療育園(福岡県)、バプテスト病院(京都)、アフガン、パキスタンでの医療・農業支援のペシャワール会(福岡市、中村哲医師)、進和学園(平塚)などへ寄付することにしました。

 もう一つの目的は、地域に開かれた教会として、バザーが教会員、求道者さらに地域の方々との交流の場となることです。バザーを開いたからといって、すぐに「地域に開かれた教会」ということにはならないでしょうが、このような働きを続けることで、地域の方々との交流が生まれ、礼拝に集うことが何と幸いなことかを証しできればと思います。当日にクリスマスの案内もしたいと思います。

 すでに地域へチラシを配りました。すると、先日チラシを見たご近所の方がバザーのために雑貨類や手作り品などを持ってきてくださいました。地域に覚えられているんだ、と感激しました。また、「平塚のら猫を減らす会」や「サポーティングハウスひだまり」の方々が出店したいと申し出がありました。このように交流の輪が広がってきています。

 神さまは私たちの思いを超えて働かれます。チラシやポスターの一枚一枚が用いられていきます。皆さんの口コミやお誘いが思わぬ反響を呼ぶことだってあります。バザーではないのですが、私のブログを見た方が、ホームレスの方のために毛布や衣類、タオルなど雑貨を宅配で送って下さいました。教会のホームページを見て、礼拝に出席したいと男性の方から電話がありました。会堂を映画ロケに使用したいという話もあります。どんな反響があるか、今から楽しみです。私たちの思いを超えて神さまは働かれておられます。