平塚にあるキリスト教会 平塚バプテスト教会 

神奈川県平塚市にあるプロテスタントのキリスト教会です。牧師によるキリスト教や湘南地域情報、世相のつれづれ日記です。

開かれた確信

2015-01-29 18:18:44 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2015年1月25日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

 「開かれた確信」 箴言26章1~12節

 信仰者に確信(信念)はつきものである。信仰者に対するイメージの一つに、確固不動の信念の人というのがある。時として、そのような確固不動の信念が称賛の的になったりもする。確信を持つことは、信仰者にとって良いことであり、また必要なことでもある。しかし、信仰者の確信は、時とすると神と信仰の名において、容易に自己の確信、信念を絶対化し、他の確信、信念の可能性をないがしろにしてしまうという危険な側面も持っている。要注意である。では、私たちが持つように期待されている「確信」とは、一体どのようなものなのだろうか。

 箴言26章1-12節の単元をくくるキーワードは「愚か者」。この「愚か者」に関する単元で、私たちの注目を引くのは、4節(否定)と5節(肯定)に相対立する警告が並置されていることである。この相対立する警告の並置は、ステレオタイプ(画一的)にしか現実に対応しようとしない者を戸惑わせ、また不安にさせる。確かにこの4節と5節は矛盾している。

 この単元には「愚か者」についての「知恵」が語られている。この「知恵」は、一個人の思いつきではない。これらの格言的言葉の背後には、何千、何万という人々の洞察と経験の集積がある。人類の英知と言ってよいもの。十中八九間違いのない洞察、知恵、そしてそれ故に、揺るがしようのない「確信」と言ってもよいと思う。

 しかし、4節と5節では、両者ともこの「愚か者」についての知恵(確信)に基づきつつ、その対応については全く相対立する警告が語られている。この二項対立的警告は、私たちに何を教えているだろうか。それは現実問題の対応について、絶対的に「これだ」という永遠に不動の固定的、絶対的基準というものはない、ということを言わんとしているように思われる。そして絶対的基準がない以上、一つの方便や確信を絶対化することはできない、いや、絶対化すべきではない、ということを言わんとしていると考えられる。

 自分が現実問題に対して誤りのない絶対的な答えを持っていると確信する者は、自分の限界を越えて「誉」を求めることになる。そしてそれは思い上がり以外の何ものでもなく、自分を自分の目に賢い者とすることになる。究極的な答え(確かさ)を持っているのは、主なる神のみであって、人間ではない。

 26章12節の「自分を賢者と思い込んでいる者を見たか。彼よりは愚か者の方がまだ希望が持てる」は、思い上がる人に対する手厳しい警告である。自分の知識、知恵、経験、力、確信に思い上がって謙虚さを欠く者、これは「愚か者」以上に始末におえないということである。

 信仰者にとって確信は必要であり、また大切なことである。しかし、信仰者は自己の確信が、絶えず絶対化、完結化に向かう傾向を持つことに目覚めている必要がある。その意味で、相対化の用意のある、開かれた確信、揺らぐこと、疑うこと、ためらうこともある確信、そして何にもまして自分の限界をわきまえた謙虚で確たる信とでも言うべきものが、私たちには一番ふさわしいのではないだろうか。

 閉じられた確信からは自己絶対化が生まれ、それは妄信、狂信となり、他者の確信、信念の可能性を否定し、暴力的な力を持って破滅へと向かうだろう。私たちは他者と共に生き、他者に向かって愛するようにと勧められている。そのためには常に私たちは開かれていなければならない。

復活の信仰

2015-01-29 17:43:35 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2015年1月18日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

 「復活の信仰」 コリントの信徒への手紙一15章12~19節

 聖書は主イエスの復活が記され、私たちはそれを信じている。にもかかわらず、現実はどうかと言うと喜びに満たされない、なぜか心が躍らない。どうしてなのだろうか。これに答えるものが、この15章なのである。
 
 問題は、主イエスと私たちの関係である。主イエスの復活はよそごとで、私と何の関係もないのではない。主イエスの復活は16節にもあるように、どこまでも私たちと関わりなしにありえなかったのだとパウロは告げている。

 さらに「実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」(20節)と宣言している。キリストは眠っている者、つまり死の支配下にある者の初穂として復活されたのだと言う。初穂とは、麦の穂が出る前に、はじめに他のものより先んじてパッと出る穂である。ここにはっきりと主イエスの復活と私たちとの結びつきのあることを説いている。
 
 約束手形は何月何日にお金を支払うという証書である。主イエスの復活は、私たちに与えられた約束手形である。額はきちんと書いてあるが、今それはお金ではない。約束であり、原則的に物は買えない。主イエスが復活されたからといって、今の私の生死に関わってはこない。だから、私たちはまだ死の支配下にある。主イエスの復活を何回聞いても、私たちは死んでいく。信ずる者も、信じない者も、何の差もない。

 信仰生活で多くの人がつまずくのはこの点ではなかろうか。教会へ来たら病気はせず、仕事はうまくいくか。否である。信仰があろうがなかろうが、失敗する時は失敗し、病気になる時は病気になるのである。同じなら、教会へ行く必要はないと知恵を働かせ、去っていく人もいるのである。19節に「この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば」とはこのことなのである。
 
 キリスト教の希望とは、そんな安っぽいものではない。キリストは死に勝利したのである。死、その前にはどんなものも無力である。その死から解放されたのが主イエスの復活であり、私たちの希望なのである。だから、それは喜びである。もっとも、今はまだ、信じていない者と同じく、見えるところは不鮮明かもしれない。しかし、主イエスが、それを約束してくださったのである。

 復活は、今だけ見ているのでは駄目である。復活を信じても信じなくとも、死んでいく者は死んでいくのである。しかし、約束手形にははっきり期日が書かれているように、私たちの初穂のキリストの復活には日付が記されてある。それは終末の時、イエスが再臨される時である。その日には、キリストに属する者はこの復活の生命に与かることができるのである。
 
 コリントの教会の人も迷ったように、今の私たちも、キリストの十字架と復活を聞きつつも、すぐには喜べず、すぐには望みをいただけない。約束ではなしに、今実現するように受け取ってしまうからである。ヘブライ人への手紙10:35-36に「自分の確信を捨ててはいけません。この確信には大きな報いがあります。神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです」と記されているように、私たちに必要なのは、主イエスの復活が私たちのためだったという約束を信じて生き抜くことである。英国のバプテストの聖書学者であるバークレーは、「復活の信仰は、イースターの時期だけではない。クリスチャンがそれにより毎日生き、それにより最後に死ぬ信仰なのだ」と言っている。復活の希望に忍耐をもって生き抜くことなのである。

愛について深い祈り

2015-01-28 17:20:44 | 牧師室だより

牧師室だより 2015年1月25日 愛について深い祈り

 近隣の牧師たちと読書会をしている。先週は私の順番で発題した。テキストは『水平から垂直へ 今を生きる私たちと聖書』(船本弘毅著 教文館 2013)。その8章の「自由と愛」をテーマにした箇所。ガラテヤ書5章1-13節から学んだ。

 その学びの中で、ミシェル・クオストという司祭の祈りに出会った。孫引きだが紹介したい。  
 主よ、愛には二つしかありません。
 わたしだけを愛する愛と、あなたと他者を愛する愛と。
 わたしが、自分だけを愛するたびごとに
 あなたと他者への愛が少なくなってゆくのです。
 それは愛の水もれなのです。
 それは愛のロスなのです。
 愛はわたしをとびたって、他者へ向かうように作られました。
 だから、それがわたしたけに向けられるときに、
 それはしぼみ、くさり、枯れてゆきます。

 この素晴らしい詩(祈り)を書いた司祭さんってどんな人だろうと、ネットで調べてみた(こんな時、ネットは本当に便利)。ミシェル・クオストは、1919年生まれのパリのカトリック大学を出た、社会科学者で、ル・アーヴルという下町で青少年指導の司祭を務めた、と簡単な紹介があった。

 彼の書いた「愛は痛みだ」の詩。繰り返し読んで味わってほしい。

 子よ、愛することは容易じゃない
 誰かを愛していると思っても
 それはしばしば、自分を愛しているに過ぎない
 そこですべてが駄目になり、そこですべてが御破算になる。
 愛することは、誰かに出会うことだ
 そのためには、喜んで我が城をあとにして
 その人に向かって、その人のために歩かねばならない。
 愛するとは心を通わせることだ
 心を通わせるためには、その人のために自分を忘れ
 その人のために完全に、自分に死なねばならない。
 子よ、わかるか、愛は痛みだ
 アダムとイヴの堕罪このかた--よく聞いておけ
 人を愛するとは、その人のために/おのが身を十字架にかけることだ。

 愛は傷つくことを恐れない。

広い河の岸辺 

2015-01-19 07:39:22 | 牧師室だより

牧師室だより 2015年1月18日 広い河の岸辺 

 340年前から歌い継がれてきたスコットランド民謡を日本語に訳した「広い河の岸辺」がヒット中。原題は「The Water is Wide」。訳したのは、南米の竹笛「ケーナ」奏者の八木倫明さん。歌手のクミコさんの歌唱力も手伝って静かなブームを起こしている。

 昨年の12月、テレビ(確かNHK)を見ていると八木さんを紹介しながら、この曲が流れてきた。連れ合いがそれを聞いて、「この曲、賛美歌にあるわよ」と言う。さっそく讃美歌集を持ってきて調べるとあった。「新生讃美歌536 燃え立つ言葉も」、異なった編曲で「新生591 愛する二人に」の2曲。「愛する二人に」は結婚式でよく歌われる。日本基督教団の「讃美歌21」にも載っている(104番)。

 ちなみに日本人なら誰でも知っている「蛍の光」、これもスコットランド民謡だという。このように、ヨーロッパ各国の民謡が日本語に訳され、唱歌や讃美歌として、明治以降広く歌われている。この「広い河の岸辺」、じつはNHKのドラマの「花子とアン」や「マッサン」の挿入歌としても流れていたという。

 訳された歌詞がなかなかいい。
 1番:河は広く 渡れない
    飛んでゆく 翼もない
    もしも 小舟が あるならば
    漕ぎ出そう ふたりで 
 2番:愛の始まりは 美しく
    優しく 花のよう
    時の流れに 色あせて
    朝露と 消えていく
 3番:ふたりの舟は 沈みかける
    愛の重さに 耐えきれず
    沈み方も 泳ぎ方も
    知らない このわたし 
 4番:河は広く 渡れない
    飛んでゆく 翼もない
    もしも 小舟が あるならば
    漕ぎ出そう ふたりで

 あきらめからスタートする歌、「二人で漕ぎ出そう」と歌う希望の歌、人生を一生懸命生きる人に寄り添う歌として、人々の琴線に触れている。美しく素晴らしいメロディと相まって、中高年もいやされているとか。あなたにとって「小舟」とは何か?「希望」「いのち」「お金」「信仰」…。一度聴いてみてください。

我ら、神の同労者 その2

2015-01-13 15:01:51 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2015年1月11日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

 「我ら、神の同労者 その2」 コリントの信徒への手紙一3章1~9節

 パウロは、「私たちは神の同労者である」(第一コリント3:9口語訳)と言っている。神は私たちをご自身の同労者として召してくださった。神は補助者を必要とするようなお方ではない。しかし、神は恵みと憐れみとをもって私たちを同労者として立ててくださった。私たちは神の同労者として神に仕え、奉仕し、捧げるときに、より深く神の恵みを知ることができる。スチュアードシップを通して神と私たちの関係は強められるのである。

 スチュアードシップは神の同労者として生きる、ということでもある。神から託された時間、からだ、能力、富などを神の愛を証しするために用いるのである。私たちは神の同労者だから、献げ物や奉仕などを「取り引き」として行わない。「取り引き」としての献げ物とは、「これだけ献げますから、私の願いをかなえてください」という献げ物や、人から褒めそやされることを目的として行う奉仕である。

 同労者は互いに一つの目的のために力を合わせる。励まし合い、いたわり合いながら共に荷を担うのである。神の同労者とされた私たちは、神が私たちを神の属する者にしてくださったことに驚き、感謝をもって神の指差される目標に向かって働き、捧げる。私たちが捧げるのは神が私たちを愛してくださっているからであり、大切なスチュワードの働きを託してくださったことへの感謝である。私たちは神に信頼されたことを喜び、感謝をもって奉仕し、時間を捧げるのである。愛されて嬉しいと感じるとき、私たちは自発的にプレゼントをするのではないだろうか。素晴らしいプレゼントをもらった時、私たちは感謝の気持ちを伝える。スチュワードシップはこのような神への感謝の応答のわざなのである。

 神の同労者として召された私たちは、主イエスが友なき人の友となったように、また、しいたげられ、差別された人を尋ね、彼らを愛されたように、主の愛の器として彼らを訪ねることを求められている。だから、神の同労者として生きるということは、自分との戦いが強いられる。ことに自己充足、自己満足を望む思いと戦わなければならない。

 またそれは「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マタイ16:24)との道である。道はたとえ厳しくとも、主が歩まれた道だから、私たちもその道をたどるようにと招かれている。しかし、その道は一人で歩む道ではない。イエスと共に歩む道であり、その道を歩むとき、私たちはイエスを身近に感じることができるのである。

 讃美歌「いつくしみ深き」に「いつくしみ深き 友なるイエスは/罪とが憂いを とり去りたもう/心の嘆きを 包まず述べて/などかは下ろさぬ 負える重荷を」とある。友となってくださるイエスに従い、罪ある私たちを信頼し期待し、神の同労者としてくださった神に応えようではないか。

我ら、神の同労者

2015-01-13 14:29:48 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2015年1月1日 元旦礼拝宣教 杉野省治牧師

 「我ら、神の同労者」 コリントの信徒への手紙一3章1~9節 

 私たちは新しい年を迎えて、抱負を語り、夢を語り、希望を持ち、計画を立てる。しかし、新しいことを始める時には、それが何であっても、まず第一にそこに神を存在させねばならない。どんな計画でも、神とともに始めなければならない。私たちがあれこれ計画を立てる時に、その計画を神に捧げなければならない。そうすれば、私たちは自分の意志ではなく、神の意志に従っているのだという確信が持てるだろう。そうするならば、私たちにも光が与えられるだろう。

 さて、ドイツの神学者が、牧師は講壇に上がる時には、右手に聖書、左手に新聞を持ってあがりなさい、と言ったという。今だったら、右手に聖書、左手にスマホだろうか。聖書の話は昔の話、遠いどこかの国の話ではなく、その聖書のみ言葉が、今起きている現実の社会とどう関わっているのか、この時代に照らして、聖書が私たちに何を語っているのか、ということを常に考えることが大事であるということだろう。それは常に現実を相対化してみるということでもあるだろう。

 今朝の招きの言葉に、「新しい歌を主に向かって歌え。主は驚くべき御業を成し遂げられた。右の御手、聖なる御腕によって/主は救いの御業を果たされた」(詩編98:1)とある。神は御自身の愛をみ子イエスに託された。神は、ご自身がどんなに私たちを愛しているのか、ということを伝えるためにみ子を遣わしてくださったのである(ヨハネ3:16)。その主イエスの生涯の第一ページがクリスマスの出来事であり、その後の主イエスの公生涯(とりわけ十字架と復活)の出来事が「福音」であり、「よきおとずれ(グッドニュース)」なのである。
 
 「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ16:15)とあるように、主は私たちに福音を託し、福音の管理者(スチュワード)として福音の宣教をお命じになった。しかし、この福音のわざは一人の力でできるものではない。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒1:8)と語られているように、私たちは神の同労者として、今、生きて働いておられる聖霊なる神とともに託されたわざをなしていくのである。
 
 同労者は、目的を一つとしてともに重荷を担う。互いをよく理解し、信頼と尊敬のきずなを強めて。パウロは、「私たちは神の同労者である」(第一コリント3:9口語訳)と言っている。神は私たちをご自身の同労者として召してくださった。神は補助者を必要とするようなお方ではない。しかし、神は恵みと憐れみとをもって私たちを同労者として立ててくださった。私たちは神の同労者として神に仕え、奉仕し、捧げるときに、より深く神の恵みを知ることができる。スチュアードシップを通して神と私たちの関係は強められていくのである。今年も神の同労者として、共に祈りつつ励もう。

教会を造り上げるために

2015-01-13 12:17:48 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2015年1月4日 新年礼拝宣教 杉野省治牧師

 「教会を造り上げるために」 コリントの信徒への手紙一14章1~12節

 パウロは、礼拝でそれぞれが与えられた霊的な賜物をもって奉仕するよう求めた。霊の賜物は多様に多くの人に与えられており、その恵みを共に分かち合い、励まし合い、学び合うことが教会を造り上げるために重要なのである。

 霊的賜物の多様性(12:8-10)とそれを生かす最高の道としての愛(13章)について語ったあと、パウロは特に預言する賜物を熱心に求めなさいと勧める(1節)。コリントの教会では預言よりも異言の方が勝ると評価され、異言を語れる人こそ霊的な人だとみなされていたようである。ところがパウロはその反対に、異言よりも預言の方が優っていると言うのである。なぜだろうか。

 「預言する者は教会を造り上げます」(4節)。これが決め手。14章を注意深く読んでみると、「造り上げる」という語が繰り返し出てくる。キリストの体である教会(12:27)を造り上げるためにこそ、多様な霊の賜物が教会に与えられているのである。造り上げる働きは、「励まし、慰め」る(3節)ことと結びついている。そのためには「啓示か知識か預言か教えかによって」(6節)、「明確な言葉」(9節)によってなされなければならない。そうでなければ「何の役に立つでしょう」(6節)。

 パウロは例として、笛や竪琴、戦いの準備のためのラッパ、世にあるいろいろな種類の言葉(7節-10節)をあげて、それらがはっきりとした意味を持たなければ無用であると言っている。今日の教会では、特に私たちプロテスタント教会では、礼拝の中で説教の重要性を強調してきた。説教は異言と預言との分類からすれば預言の方に近いと思うが、それは説教が意味のある明確な言葉で福音を語るからである。それが教会を造り上げるからである。
 
 しかし、今日の私たちの教会で説教が霊の賜物として受け止められているだろうか。説教が退屈だ、くどい、暗い、迫力がない、長すぎる、励ましや勇気を与えてくれない……などと、よく言ってないだろうか。コリントの教会が霊の働きによって混乱を起こすほど活発であったのに対して、今日の私たちの教会は霊の枯渇状態に近いと言われないだろうか。

 では、どうすればいいのだろうか。パウロは繰り返し、「求めなさい」(1,12節)と勧めている。霊の賜物が過剰でさえあるように思われるコリントの教会でさえそう勧められているのだから、私たちの場合はなおさらではないだろうか。私たち日本人は知識を求めたがると言われている。そのような私たちは、「あなたがたの場合も同じで、霊的な賜物を熱心に求めているのですから、教会を造り上げるために、それをますます豊かに受けるように求めなさい」(12節)という勧めを新しく聞き直すことが必要であろう。

神にある一致

2015-01-13 11:47:28 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2014年12月28日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

 「神にある一致」 民数記32章1~19節

 荒れ野での40年の歳月が流れる中で、イスラエルの民がいよいよ約束の地カナンに入る時を迎えた。この時に至って、ルベンとガドの部族が、モーセたちに、ヨルダン川を渡ることなく、ヤゼルとギレアドの地を所有地としたいと申し出た。ルベンとガドの部族は、多数の家畜を所有し、家畜を飼うのに適したヨルダン川の東側に住むことを希望したのである。
 
 この申し出を聞いたモーセは、過去の苦い思い出、約束の地カナンを偵察に行った時、カナン人を恐れ、神の臨在と神の約束に信頼せず、エジプトに戻ることを求め反抗した出来事を思い出す(民数記13-14章)。神はイスラエルの背きに怒り、約束の地を背にして、再び荒れ野へと向かわせたのだった。
 
 もし、ルベンとガドの部族が、家畜のために良い地を所有したいと願い、カナンに入ることを拒むならば、イスラエルの民の一致は乱れていく。他の部族は意気消沈し、部族ごとの要求が噴出し、イスラエル共同体の約束は損なわれていく。荒れ野で民が学んできたことは、神の御心に信頼し、神の立てられた秩序を尊び、各自の役割を担っていくことだった。旧世代の罪に対する神の裁きという悲しくも厳しい現実を歴史として学んだはずの新世代の民は、その歴史の教訓を生きる使命がある。

 再び同じ過ちを繰り返すことはできない。モーセは、厳しく問いただした。ルベンとガド族の人々は、モーセの怒りに満ちた懸念に答えて、一つの提案を行った。それは、ルベンとガド族の嗣業の土地として、まず、ヨルダン川の東側に子どもたちのための城壁で囲まれた町を作り、そこに住まわせる。そしてイスラエルの他の部族と共に戦うためにヨルダン川を渡っていくというもの。すべてのイスラエルの民がヨルダン川の西側で嗣業の土地を受け継ぐまで家に帰ることはないという決意が込められていた。

 モーセは、その提案を受け入れた。モーセが恐れたのは、部族ごとのエゴイズムが噴出し、共同体の一致が乱れ、神との契約が民の背きと罪のゆえに破壊されていくことにあった。これまで、神は罪深い民を慈しみ、民の間に住まうことを決心され、神がイスラエルの民の神となり、イスラエルを神の民としてくださった。イスラエルの民は、神の共同体として荒れ野で整えられてきたが、神の民とされることは、恵みであると同時に、責任を伴うものである。ルベンとガド族はその責任を果たすことを約束する。自分たちだけの嗣業を得ればよいというのではなく、神の民の共同体全体が、神の嗣業を受けるところに意味がある。神の民の共同体としての秩序、役割、責任を尊び、共同体として共に約束に与かることが大切なのである。
 
 私たちは信仰生活において、ともすると自分のことしか考えない過ちに陥りやすい。教会生活を守るということは私の自由だと思いやすい。確かに私たちは他人のために教会生活をしているのではない。すべてそれは自分が神への応答として行っているのである。しかし、その応答が隣人に向かわなければ不十分。願わくば、友を滅ぼす者ではなく、友を生かす存在となりたいものである。

悪魔の笑い話

2015-01-12 07:29:22 | 牧師室だより

牧師室だより 2015年1月11日 悪魔の笑い話

 新しい年を迎え、気分もリフレッシュ。「笑う門に福来る」。今年もユーモアを忘れずにいきたいものだと思い、『福音と笑い これぞ福笑い』(山北宣久著、教文館)を本棚より引っ張り出して読み始めた。ところが笑えるようで笑えないビミョーな話も多くあった。いくつか紹介したい。

 悪魔についての名(迷)言集。
「悪魔は悪しか行えないがゆえに純粋である」(J・コクトー)
「我々の心の中の悪魔には『仕方がない』という名がついている」(G・ベルナノス)
「悪魔は私たちを誘惑しない。私たちが悪魔を誘惑するのだ」(G・エリオット)
「悪魔は歓迎されないところには決して出向かない紳士である」(A・リンカーン)
「私は自分の中に悪魔を感じるがゆえに、悪魔の存在を信じねばならない」
「悪魔の最も巧みな策略は、彼が存在しないと我々に信じさせることだ」(C・ボードレール)
「悪魔に首筋をつかまれていても、さっぱりご存知ない手合いでね」(「ファウスト」)
「悪魔とは微笑を持たない信仰、自ら疑うことを知らない真理のこと」(ウンベルト・エーコ)。

 次は「悪魔の派遣」と題するお話。
 悪魔の子分たちが修業期間を終え、いよいよ地上に派遣されることになった。悪魔の親分は、彼らが地上でなそうとする計画・作戦を派遣に際して報告させた。

 一番目の子分、「私は人間どもに『神なんかいない』と教え込みます」。答え「そんなことではわずかな人間しか誤魔化せない。神がいるとうすうす思っている連中は多い」。

 二番目の子分、「私は『地獄などない』と教え込みます」。答え「それは何の効果もない。罪だらけの人間どもは誰に教え込まれなくても、罪の結果は地獄だと知っている」。

 三番目の悪魔、「私は『イエスを信じることは良いことだが、急ぐことはない』と教え込みます。答え「それは良い。そのとおりだ。ただちにその計画を実行せよ。おまえたちはきっと多くの人間どもを滅亡させることができるだろう。満足じゃ」。

 笑えましたか?

平塚教会2014年10大ニュース

2015-01-05 07:01:18 | 牧師室だより

牧師室だより 2015年1月4日 数えてみよ 主の恵み

 -平塚教会2014年10大ニュース-

 今年最後の祈祷会(12/31)の出席者で、2014年平塚教会の10大ニュースを選
びました。おおむね日付順。

①2月、45年ぶりの大雪で教育館雨漏り、10月、大型台風直撃で会堂漏電、
牧師館雨漏り。牧師館以外はそれぞれ修理した。

②4月より「子どもの広場」始まる。地域の子ども、集まれ。

③4月、ルンバ(掃除ロボット)購入。12月、会堂後方、トイレ入口、託
児室入口のドア4枚新調。

④信徒会で「伝道と教会形成の」のテーマで学び。6/29、8/31、11/30。

⑤伝道礼拝で証し者を立て行う(2/16大塚兄6/15寺戸姉9/21横井兄11/16
山姉)。8月に神田英輔先生(「声なき者の友の輪」代表)による特別伝道
礼拝(31名)。

⑥6月、ホームページをリニューアル。見てください。

⑦教会学校デーはサマーナイト礼拝として行う(7/20)子ども12名・大人
16名。もちつき会(3/21)58名、流しそうめん(8/24)。教会バザー(11/24)。
それぞれ楽しい交わりの時を持った。

⑧6月、女性連合沖縄平和学習ツアー3名参加。11月、神奈川連合福島支
援活動参加(郡山)5名参加。これからも連帯して働こう。

⑨4/20イースター礼拝(39名)。女性会クリスマス会17名、子どもクリス
マス会(子ども7名)、クリスマス礼拝47名、キャンドルサービス46名、
12/24聖歌隊が老人ホームでクリスマス賛美の奉仕。

⑩久し振りのバプテスマ:N姉12/21。感謝。

 この他にも神学校週間、世界祈祷週間の取り組み、月1回の「サロン虹」、ホームレス支援の炊き出しなど、皆さんの祈りと奉仕によって喜びと恵みにあふれた1年となりました。主に感謝。