平塚にあるキリスト教会 平塚バプテスト教会 

神奈川県平塚市にあるプロテスタントのキリスト教会です。牧師によるキリスト教や湘南地域情報、世相のつれづれ日記です。

赦されて生きる

2013-03-30 10:39:16 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2013年3月24日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

 「赦されて生きる」 ルカによる福音書23章26-43節

 イエスは、十字架につけられた時、「父よ、彼らをお赦し下さい」との執り成しの祈りをされた。しかし、一体どれだけの人間がこのイエスの言葉を聞いていただろうか。その直後、いろいろな人がイエスを嘲弄した。イエスの祈りなど何も聞いていなかったように。十字架のイエスも何もお答えにならなかった。
 
 それから、二人の犯罪人がイエスと一緒に十字架につけられた。そのうちの一人は、議員や兵士たちと同じく「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」と罵った。三者に共通の言葉は、「自分を救え」というものだった。これは公生涯の始まりにおいて、悪魔からの誘惑を荒野で受けたあの場面と重なり合う。それは、父なる神にご自身をお委ねするのか、つまり、神のご意志に従うのか、それとも、自分の力でこの危機を脱出し、貶められた姿を栄光に輝くそれへと変身させるのか、というものだった。イエスを嘲笑していた者たちには、しるしを見たら信じようという、神を試す人間の罪が潜んでいる。
 
 イエスは、沈黙されていた。ところが、もう一人の犯罪人の言うことには耳を傾けられた。それは、「あなたの御国においでになる時には、私を思い出してください」との願いである。前の犯罪人と後の犯罪人は、自分の救いを願っているという点では同じ。しかし、両者には、大きな違いがある。それは、前者にとって、神とはご都合主義の神であり、御利益信仰である。神には力があるのだろう、だったら、今の自分の窮状をなんとかしろと、訴えているようなもの。真実には神を畏れず居丈高にものを言っている信仰なき者の姿である。しかし、この犯罪人に自分の姿を見る人は、少なくないだろう。これに比べ後者は、まず、御国を信じている。イエスがそれまで語ってきた神の国を信じている。
 
 救いとは何か、を考えさせられる。救いとは、目の前の危機的な状況が回避されることだけではない、窮状が好転するということだけでもない。イエス・キリストの説く神の国に行くことが救いに与かることになるのである。それは神の支配を全面的に受け入れるということ。だからイエスは、この犯罪人には、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。イエス・キリストが共におられるところ、そこは神の国、楽園と言えるのである。この箇所で、イエスは父なる神の前にご自身を無にされ、十字架の苦しみを耐え忍んでおられる。それは、肉体的な苦痛はもちろん、すべての者に嘲られ、捨てられたことへの痛みである。
 
 しかし、46節「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」からは、すべてのことを神へおゆだねしていたことが分かる。十字架の上で発した言葉は、神がこれらの人々を赦してくださるようにとの執り成しと、真の救いを求めてきた犯罪人にご自身と共に御国にいることを宣言したもの、そして、神へご自身の霊を委ねるものだった。
 
 一方、私たちが示されたことは、イエスに従うことは、自分の十字架を負うことを抜きにはできないこと、私たちが神に求める救いは、イエス・キリストの示された神の国、神の支配の中に自分の身をゆだねてはじめて分かることだということである。そして、その第一歩は、イエスの死を自分の罪のためであったと理解することである。

きみもそこにいたのか

2013-03-28 11:15:35 | 牧師室だより

牧師室だより 2013年3月24日 きみもそこにいたのか

 昔よく歌った「きみもそこにいたのか」(『聖歌』400番。聖歌の友社)はアフリカン・アメリカン・スピリチュアル(黒人霊歌)の名作と言われている。黒人奴隷たちが、キリスト教を受け入れた時、そのキリスト教は、支配者である白人たちのキリスト教とは大きく異なるものになった。それは、異なったというよりは、むしろ本来のキリスト教に帰ったという方が正しいのかもしれない。

 イエスは「徴税人や罪人の仲間」と呼ばれた(マタイ11:19)。イエスのまわりに集まったのは、貧しい人々、差別された女性、社会から排除された病人や障害者たち、底辺の人たちだった。黒人奴隷たちは、自分たちこそ、イエスのそばに招かれていることを感じ取っていた。

 「きみもそこにいたのか」と問う時、黒人奴隷たちは、「自分はあそこにいた」という思いでいっぱいだったのだろう。「主が十字架につく時」、私はあそこにいた、そして主を見捨てた。ペテロのように。「その人を知らない」と言った。「たとえ死なねばならないとしても、あなたのことを知らないなどとは、決して言いません」と誓ったのに、その時には、本当に心からそう思っていたのに、それなのに……。

 悲しみと悔いと畏れのために、身も心もふるえる、ふるえる、ふるえる。三回、その度に低い音に移りながら繰り返して、一番低いどん底まで落ちた、その絶望のどん底で、「主が十字架につけられ、釘打たれ、槍で刺され、墓に納められた」のは、まさに、このような罪の私のためであったという信仰が立ち上がってくる。

 十字架の死が復活の命へと変わる時、絶望は希望へと変わる。「きみも墓にいったのか」という問いに、「わたしはいった」と、心から叫ぶことができた黒人奴隷たちの信仰が、今この歌を歌う私たちにも響いてくる。「きみもそこにいたのか」という問いと共に。

 *『さんびかものがたりⅢ』(川端純四郎著 日本キリスト教団出版局2010)116-117p参照。

闇を知る者に救いがくる

2013-03-22 14:05:45 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2013年3月17日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

 「闇を知る者に救いがくる」 ルカによる福音書8章26-39節
 
 イエスの一行がガリラヤ湖の対岸にあるゲラサ人の地方に行かれた時のこと。そこには、悪霊につかれて長い間着物も着ず、鎖と足かせで墓場につながれては、それを引きちぎって荒れ野に出てしまう一人の男がいた。
 
 この男についた悪霊の名は「レギオン」。レギオンとはローマ軍の6千人軍団のこと。彼らの持つ破壊的な力を前に、一体一人の人間にどんな抵抗が可能だろうか。自分が何か破壊的な力に支配されて、どんなに努力してもそこから自由になれない心の状態。この男を打ちのめしていた絶望感の深さを少しは想像できるだろう。
 
 彼はイエスが近づいた時に、「神の子イエス、かまわないでくれ。苦しめないでくれ」と叫ぶ。この言葉には二つの相反する叫びが込められている。つまり「神ならば何とかしてくれ」という叫びと、「お前なんかに、俺の苦しみが分かってたまるか」という憤り。
 
 この男は、村の通りを歩くたびに「かまわないでくれ」と叫びながら、人々に近づいていったのではないだろうか。ところが通りがかりの人びとはみんな気味悪がって逃げてしまっただろう。しかしイエスは正面からこの男と向かい合われる。彼の叫びを受け止め、「名は何というのか?」と人格的に出会うことを求められた。そしてこの出会いが、彼の心を解放へと導いたのである。
 
 悪霊たちはイエスを見ると「神の子イエス」と叫び、「底知れぬ所」(神が終末に悪霊を永久に閉じ込めるところ)に落ちることを命じないよう懇願し、「豚の中へ入ること」の許しを乞うた。このように悪霊たちの方が、イエスの神からゆだねられた権威を知っているのに対し、パリサイ派や律法学者など自分を「正しい人」と自認する人々は、イエスの権威をかたくなに認めることをしない。聖書は、この対照的な姿を描く。
 
 悪霊は、神の働きを妨げるもの。悪霊が救いをもたらすことはできない。しかし、「闇」の深さを知っている者こそ、本当の「光」がどのようなものかを見出すことができるのであり、単に聖書を学び、戒めを実行していたとしても、自分自身が抱えている「闇」の深さを自覚しないならば、イエスに「救いの光」を見出すことはなかなかできないのである。
 
 癒された男は、イエスにお供をしたいとしきりに願った。彼にしてみれば,二千頭もの豚の損失を与えた男として、これからもこの村で肩身の狭い思いをして暮らすよりも、心機一転イエスと一緒に旅することをどれほど望んだことだろう。しかしイエスは、むしろそのような村の人々の間に残るようにと彼を帰す。「神があなたにどんなに大きなことをしてくださったか、語り聞かせなさい」(39節)。イエスは彼をこの村の人々の間に宣教へ遣わす。自分のことしか考えない、損得でしか行動できない、一人の人の命を喜ぶことがなかなかできない人々の中にこそ、神の言葉が必要だからである。

コンクラーベ 

2013-03-22 11:34:30 | 牧師室だより

牧師室だより 2013年3月17日 コンクラーベ 

 「コンクラーベって、根比べのこと?」と思わず聞いてしまうほど日本ではなじみのない言葉「コンクラーベ」が12日から始まった。コンクラーベとは、ローマ・カトリック教会のローマ法皇の後任を決める秘密選挙のこと。「コンクラーベ」とはラテン語で「鍵がかかった」という意味で、このような密室で行われるシステムは、カトリック教会の歴史の中で何世紀もかけて、他国の干渉を防止し秘密を保持するため練り上げられてきたものである、と言われている。

 今回は約600年ぶりの存命中の退位となった前ローマ法皇ベネディクト16世(1927年生、2005年着座)の後任を選ぶこととなる。様々な問題で揺れる巨大組織を担うのは誰か。世界中の注目が集まる。

 投票権を持つのは80歳未満の枢機卿で、115人が参加する。場所は、有名なフレスコ画「最後の審判」が描かれているシスティーナ礼拝堂で、3分の2以上の77票以上を得る人が出るまで投票を繰り返す。大抵は3~4回程度の投票で決まるが、7回、8回と決まるまで投票を繰り返す。「根比べ」と言ってもあながち間違いではないかも。投票の結果は毎回礼拝堂の煙突の煙で知らせる。決まらない場合は黒い煙、決まった場合は白い煙。世界の注目を集めるのはこの煙突の煙。

 ローマ・カトリック教会ではローマ法皇はキリストの代理人、使徒ペテロの後継者とされ、約11億の信徒の頂点に立つ。ローマの司教であり、バチカン市国の元首でもある。今回選ばれる法皇はペテロから数えて266代目になる。

 今回は13日夜に5回目の投票で決まった。新法皇は、アルゼンチン人でブエノスアイレス大司教のホルヘ・マリオ・ベルゴリオ枢機卿(76歳)。法皇名は「フランシスコ1世」。約2千年のカトリックの歴史で、初の米州大陸出身の法皇である。

 カトリックも1960年代の第二バチカン公会議以降、大きく変わり、他教派との対話を推進し、エキュメニカル(教会一致)運動も大きく前進した。世界の平和と和解のために新法皇の活躍を期待したい。

地面を深く掘れ

2013-03-12 11:40:11 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2013年3月10日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

 「地面を深く掘れ」 ルカによる福音書6章46-49節
 
 「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか」(46節)。「主よ、主よ」という呼びかけは、初代教会の礼拝における祈りの言葉だった。だから礼拝に参加し、祈りをささげていたとしても、あなたは日常の生活をイエスの言葉と共に生きているか?という厳しい問いかけがここにはある。
 
 「わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう」(47節)の「わたしの言葉」とは、何より直前の「平野の説教」(6:20以下)を指しているが、そこでのイエスの言葉を単に聞くだけで終わらせず、その言葉を日々具体的に生きるようにと、このたとえは招いている。
 
 「平野の説教」は、20節に「さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた」とあるように、イエスに従う弟子たちに語られたものである。しかし、弟子たちのまわりには、イエスの教えを聞くため、あるいは病気を治してもらおうとして大群衆が押し寄せていた(17-18節)。だから弟子たちがそのすぐ隣にいる「民衆」と出会い、共に歩んでゆく際の、イエスによる戒めや励ましをまとめたものと考えられる。いずれも隣人と生きる際の基本的な姿勢に関するものばかりである。
 
 「平野の説教」の言葉は、聞くだけならばいずれも「美しい立派なことば」だが、しかしいざ実行となると実に困難を覚えるものばかりである。そして自分の限界や破れを思い知らされる。聞くだけ、語るだけなら心地よい。しかしそれを行うとなると実に難しい。まさに「土を掘り、石ころやがれきを取り除いてはそれを捨て、岩に達するまで辛抱強く掘り進む作業」と言えるのではないだろうか。
 
 しかもこのルカの「家と土台」のたとえ話は、今それぞれが立たされている「地面」に目を向けさせる。家族、会社の同僚や学校の友人、地域の人との付き合い、あるいは自分に与えられている仕事。それら隣人との関係を丁寧に自分の手で掘り下げていくことなしに、イエス・キリストという「岩」を探り当て、そこに「土台」を据えることはできないことが教えられるだろう。
 
 「平野の説教」におけるイエスの言葉を繰り返し聞きながら、それら隣人との関係を丁寧に掘り下げていった時、きっと私たちは自分自身の「偽善」「愛の貧しさ」(石ころやがれき)を見出すことになるだろう。あるいは「こんなに悲しく、辛い現実を掘るような毎日にどんな意味があるんだろう」と、その労苦に空しさを感じる時があるかもしれない。しかしそのような「地面」を掘り下げていくと、その下に確かに「岩」はあるのである。「石ころやがれき」だらけの「わたしの貧しい愛」や「辛い現実」のその一番下で支えて下さっている「岩」なるイエスが、確かにそこにいて下さる。
 
 だから「あなたの生きている地面を掘り下げなさい」とイエスは私たちを励まし勧められる。そして、ただ「聞くだけ」で終わるのでなく、実際に隣人との関係において具体的に愛を生きる中で、イエスをまた新しく発見する歩みへと導いてくださるのである。
 
 それぞれ自分が今、立たされている「地面」(隣人との関係、仕事など)をもう一度見つめ直し、丁寧に深く掘り下げてみよう。その作業なしに、主イエスとの出会いはない。そしてきっと、そのプロセスの中で、主イエスを新しく見出すことができるだろう。

東日本大震災-あらためて問われる生き方

2013-03-12 09:52:51 | 牧師室だより

牧師室だより 2013年3月10日 東日本大震災-あらためて問われる生き方

 日本基督教出版局からTOMOセレクト「シリーズ 3・11後を生きる」と銘打たれた六冊のブックレットが出版された。西出勇志さん(共同通信編集委員)が、その書評で次のように書かれている。

 「東日本大震災は、政治経済から日々の暮らしまで、あらゆる領域に傷を与えた。その傷は複雑多岐にわたる。内奥に到達した刺傷もあれば、表面がざっくりと広範囲に割れた裂傷もある。見ただけで深手と分かるものもあれば、内部の組織のみが激しく破壊されたものもある。その重要な癒やし手として宗教者は存在するはずだ。傷とともにあるその姿に信仰の光を見たいと思う。」

 評者の西出さんの思いに答えてくれるのが上記の六冊のブックレットだ。ざっと紹介しよう。今年102歳になる聖路加国際病院理事長日野原重明先生の『「いのち」の使命』、福島第一原発から5キロに立地する福島第一聖書バプテスト教会の佐藤彰牧師の『選ばれてここに立つ』、そして皆さんよくご存じの、ホームレス支援に取り組む日本バプテスト連盟東八幡キリスト教会の奥田知志牧師の『「助けて」と言おう』、会津放射能情報センター代表片岡輝美さんの『今、いのちを守る』、聖書を地元の言葉、ケセン(気仙)語に訳した岩手県大船渡市在住の山浦玄嗣医師の『「なぜ」と問わない』、福音を宣言する神父として知られるカトリック司祭晴佐久昌英先生の『恐れるな』。

 奥田牧師はホームレス支援の現場と震災支援の中で見えてきた、傷つくことを恐れて自己責任論の中に逃げ込む現代人の心のあり方をこの本の中で問う。奥田牧師は自己責任社会が奪った大切な言葉として「助けて」を挙げる。「助けて」と発することは一種の信仰告白であり、この声に耳を傾ける必要がある。イエスが自分たちと絆を結ぶために傷を引き受け、その傷によって癒されたにもかかわらず、自分たちは「自己責任」の名の下において傷ついた人たちを放置する。それでよいわけはないだろうと迫る。

 各冊80頁・840円。

罪ゆるされて

2013-03-08 14:08:25 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2013年3月3日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

 「罪ゆるされて」 ルカによる福音書7章36-50節
 
 イエスがパリサイ人の食事の招きを受けることは決して珍しいことではない(11:37、14:1)。当時、巡回する教師をとりわけ、安息日の午後に招き、もてなすことは一つの功績と見なされていた。パリサイ人シモンも決して悪意からではなく、イエスを偉大な教師として尊敬し、食卓に招いた(36節)。しかし彼も結局、律法によって、自分を正当化した。悲しみを負う一人の罪の女の悲しみを見ることなく、彼女を見下した。さらにそのような罪深い女に、体に触れさせているイエスをも軽蔑した。
 
 私たちは時に自分の罪を認めず、「自分は健康である。私は見える」と言い張る(ヨハネ9:41)。自分の汚さ、醜さをごまかして、自分を正当化しようとする。その私たちが現在、教会でイエスと共に食卓に与かっている。そこにも危険がある。その食卓に安住し、シモンのように、そこに来ようとする人を見下し、裁くことはないだろうか。私たちもまた罪人に他ならないのではないか。
 
 罪の自覚がないシモンに、イエスは「二人の負債者のたとえ」を語る(41-42節)。この負債は罪を意味している。重要なのは「返すことができなかった」(42節)という点。罪は決して自分では処理することができないものだ。しかし、神はその罪を赦してくださる。
 
 この一人の罪の女は惨めさの中で生きていた。自分の汚さ、醜さを痛いほど十分、分かっていた。しかし、彼女はイエスとの出会いによって、神の赦しの言葉を聞いたのである。「貧しい人たちは幸いである」(ルカ6:20)という御言葉の真実に触れ、神に生かされている喜びを知ったのである。
 
 罪の自覚が大きいほど、赦しに触れた時、赦しの確信は大きい。「罪が増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれ」る(ローマ5:20)。そして赦しの確信が大きいほど、真の喜びと愛が満ちあふれる。
 
 この喜びと愛に満ちた一人の女がシモンの家に入って来て、イエスの足に香油を塗った。足に接吻して香油を塗るのはその人に対する尊敬、感謝のしるし。その時、彼女はおもわず涙を流した(37-38節)。この涙は悲しみの涙ではなく、罪に苦しみ、嘆き続けた人がゆるされ、受け入れられた感謝の涙である。
 
 この感謝から真の愛が生まれる。愛とは自分がゆるされたゆえに他者をゆるし、自分が受け入れられたゆえに、他者を受け入れることにほかならない。この真実が47節に一言で要約されている。「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない」。私たち人間の愛の実践が先行するのではなく、神の赦しが先行するのである。恵みの先行である。神の赦しからすべてが始まる。