平塚にあるキリスト教会 平塚バプテスト教会 

神奈川県平塚市にあるプロテスタントのキリスト教会です。牧師によるキリスト教や湘南地域情報、世相のつれづれ日記です。

神の民として歩む祝福

2014-04-29 11:03:00 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2014年4月27日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

 「神の民として歩む祝福」  レビ記26章3-13節

 律法の言葉を終えるにあたって、神はイスラエルの民に、「わたしの掟に従って歩み、わたしの戒めを忠実に守るならば」(3節)と、律法厳守を求める勧告で結んでいる。他の場面でも、重要な律法が命ぜられた後、同様の勧告がなされている(出エジプト23:20―33、申命記28章)。律法を守る者への祝福(3-13節)と、律法を守らない者に対する懲らしめの言葉(14-39節)による勧告である。

 祝福と懲らしめの内容があまりにも違うので、神は律法厳守を強引に民に迫っている印象を受ける。しかし同時に、この違いはイスラエルの民にとって、主の戒めに従うことがいかに決定的なものであるかを喚起させる。なぜならば、神の律法、神の言葉に従って生きる神との関係性が、民の存亡を決定づけるからである。

 主の掟に従って歩む者には、約束の地において、豊作、誰からも脅かされることのない平和、勝利、子孫繁栄、神と共に歩む祝福が約束されている。11-13節にある言葉は、神と民との契約の基礎をなす事実である。神は天上に座して、人間の苦しみ、喜び、悲しみ、痛みに無関心なお方ではなく、神の座をかなぐり捨てて、エジプトで叫ぶ民のくびきを打ち砕き、救い出し、彼らの中に住まいを置かれるお方である。神は「わたしはあなたたちのうちを巡り歩き、あなたたちの神となり、あなたたちはわたしの民となる」(12節)という契約を立ててくださる。神が奴隷として苦しむ民の叫びを聞かれて、民の間を巡り歩き、「これはわたしの民だ」と宣言してくださる。そんな熱情の対象として、神はイスラエルの民に、共に生きることを求めておられるのである。インマヌエル(神は我々と共におられる)というマタイ福音書1章23節においてイエス誕生に際して語られた言葉、ヨハネ黙示録21章3,4節の来るべき新しい世界における約束の言葉に類する希望に満ちた言葉である。

 そして、このことは将来の希望というだけではない。既に十戒を与えられた後、幕屋を建設し、そこに神が臨在することによって、イスラエルの民の現実となっていたことでもあった。「わたしの戒めを忠実に守るならば」(3節)と語りながら、その祝福として与えられる契約は既に現実となっている。律法を守ることが祝福を受ける条件でも資格でもない。つまり、神が私たちの神となってくださるという祝福の中に生きる者として、当然生きなければならない道が、律法を厳守するということなのである。

 祝福の内容は、既に神の民として歩む中で現実となっていること。神の幕屋を中心とし、神の律法に生きることが、どんなに祝福に満ちたものなのかを改めて教えられる言葉である。

 イスラエルの民が神に聞き従うことをやめ、律法を守らなかったとしても、自分の罪や神への欺きを悔い改めて告白するならば、神はアブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされる。神は、ご自分の民の反逆と罪においてさえ、彼らの神であることをやめようとはされていない。神は、反逆と罪に満ちた民であろうとも、なおも彼らの神となる契約・意志をあきらめないお方なのである。

 イスラエルの神となると決断された神との契約は、イスラエルの反逆と罪にもかかわらず有効である。そこで、人間に求められているものは、神の前に自らの罪を告白し、神の憐れみと赦しの中に生き、神に聞き従う歩みを行うことなのである。

感情の交通事故

2014-04-29 09:36:57 | 牧師室だより

牧師室だより 2014年4月27日 感情の交通事故

 朝日新聞の土曜版に人生相談の欄がある。毎週楽しみにしている。回答者は数人いるが、美輪明宏さんの回答ぶりにはいつも感心する。

 先週は、母親の振るまいが我慢できない、という40代の娘さんからの相談。その母親というのが、自分の考えやルールが絶対で、相手の気持ちを考えずに押し通す。何かにつけ文句や罵倒を繰り返し、反論すると不平不満を並べる。自分のことは棚に上げて、何かと説教し他人を批判する。そんな母親にとって、どうすることが一番よいことなのかというのが相談事。

 美輪さんの回答。放っておくしか仕方がない。厳しいがすっきりした答え。美輪さんは次のように説明する。「お母さんのように、周りを不機嫌にさせるマイナスのエネルギーをまき散らす人はいます。ものすごいエネルギーをもっているものの、方向音痴。プラスの方に進行しなければいけないものが、逆行しているわけです。それでは、感情の交通事故も起きます」と。

 私たちの周りにも、確かにいつも「感情の交通事故」を起こしている人がいますね。トラブルメーカーとも言います。相手にしないことです。美輪さんも次のように言います。「本人もあっちこっちぶつかって、傷だらけでしょう。人生行路の道筋をそうやって生きてきた人だから、満身創痍のはずです。でも自業自得。娘が操縦しているわけではありません。自分の人生を操るのは本人ですから、やっぱり放っておくより仕方がない」。

 何かよい解決方法はないものでしょうか。美輪さんは最後に、自分がこの母親のようだと「心当たりの方は、今すぐにでもエネルギーの進行方向を逆に切り替えた方がよいでしょう」と勧める。方向転換、ギリシア語でメタノイア、回心(悔い改め)することです。さすが、美輪さん。最後にそっと「救いの道」を教えてくれます。皆さん、「心当たり」ありますか?

復活のイエスが今も共に

2014-04-26 15:29:57 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2014年4月20日 イースター礼拝宣教 杉野省治牧師

 「復活のイエスが今も共に」  ルカによる福音書24章13-35節

 イエスが復活された日、二人の弟子は、朝方起こった空の墓の出来事を婦人たちから聞いたにもかかわらず、エルサレムを去ってエマオの町に向かっていた。彼らは、今朝の婦人たちの話を不思議なことがあるものだとは思いつつも、天使の話を信じることができなかった。「わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました」、これが、彼らのイエスへの期待だった。死んでしまえば、その夢も終わりだった。彼らは、イエスがユダヤの王となって、ローマからの解放を戦い取ってくださるだろうと信じていた。

 イエスは、生前、三度も死と復活について話をしたが、「12人には、これらのことが何も分からなかった」(18:34)のだった。「彼らにはこの言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかったのである」とある。この二人の弟子も自分たちの期待するキリスト像をイエスに当てはめていただけだった。私たちはどうだろうか。いつしか自分でイエス像を作り上げていないだろうか。それも自分に都合のいいイエス像を。聖書は語る。その場合、何も分からない、理解できない、失望するだろうと。それがこの二人の弟子たちを通して私たちに教えていることではないか。

 ここでは、二人の弟子たちが、イエスを誤解し、夢破れ、失意の中を歩いている様子を描く。そんな彼らとイエスは歩まれる。そして、彼らの話をよく聞いてくださる。どんなに自分たちが期待していたか、そして、どんなに今失望の極みでエルサレムを後にしているのか、彼らは堰を切ったように、イエスに話すのだった。

 はじめ、イエスは、彼らの気持ちに本当に寄り添っているようだった。しかし、彼らが、今、朝方の空の墓の話に及んだ時に、イエスは、かなり興奮されて、弟子たちに話し始められた。どうして、その復活の話を信じようとしないのか、お前たちはただ不思議がっているだけで、重要な知らせを受けたにもかかわらず、それを無視するのか、そのような思いが込められているように思われる。その知らせをどう受け止めるのか、それこそが最も大切なことだったのだ。聖書に書かれている出来事は、自分たちにとって不都合な、そして不思議なことがたくさん出てくる。そのような出来事とどのように向き合っていくかがいつも問われている。その出来事に自分の考えを押し付けるのではなく、その出来事からただひたすら聴くことが肝要なのではないか。

 ここで、イエスは、なんとモーセの時代から話を始め、ついには旧約聖書全体に至るまで、神の書物がイエス・キリストそのお方について語られていることを説明されたのである。ただ一心に聴き入っていた彼らの心の中は熱いものでいっぱいになった。彼らは、イエスからもっと多くのことをお聞きしたいと思った。出来ることなら、いつまでも一緒にいたいと思った。そんな彼らは、いつもイエスがされていたパン裂き行為をこの旅の男がした時に、初めて、その人がイエスだと気づいた。イエスらしい振る舞いが、そこには表れていたのだろう。復活のイエスとの出会いが、彼らを再びエルサレムへと引き戻した。危険と迫害が予想されるあの場所へ、彼らは帰って行った。彼らは、復活のイエスと出会ったのである。

人生に五計あり

2014-04-21 07:38:12 | 牧師室だより

牧師室だより 2014年4月20日 人生に五計あり

 日本語にはいろいろとためになる言葉(教訓)がありますね。今日紹介するのは昔から言われている「人生に五計あり」です。最近、ある随筆を読んでいて覚えた言葉(教訓)です。

 「五計」とは何でしょうか。まず、「生計」…いかに生きていくか。生き甲斐をどこに見つけるかです。キリスト者にとっては信仰でしょう。次に「家計」…これはすぐに分かりますね。生きるためには経済力が必要です。少なすぎては生計もおぼつかなくなります。

 三つ目は、「身計」…健康状態です。これは体だけではなく、頭も心も健康でなくてはなりません。身計の次が「老計」…これが実に大変難しい。要は美しく老いるための計画です。最後が「死計」…死ぬときどんな気持ちで死んでゆこうか、その計画です。

 人生の五計というとき、それは誰も皆死ぬという「死計」が定まっていて、そのために今日をどう生きるかという「生計」があります。「生計」のために適当な「家計」「身計」が必要で、それらは美しく老いるための「老計」につながっていくのです。

 さて、その「老計」ですが、人生80年時代を迎えて、第一線を退いてからも10年も20年もあるとなると、晩節(晩年の節操)を全うするのもなかなか大変なことです。『レ・ミゼラブル』の作者ビクトル・ユーゴーは、「上品さにしわが加わるのは、なかなかいいものである。幸せな老年は、もう一つの人生の素晴らしい幕開けなのだ」と言います。また、20世紀の有名な哲学者マルティン・フーバーには、「老いているということは、もし人が始めるということの真の意義を忘れていなければ、素晴らしいことである」という言葉があります。

 新しく始めるのに遅すぎるということはありません。一つのことが終わった時を新しいことの始まる時と考えたらどうでしょう。常にチャレンジする人の顔は輝いています。先日もテレビで平均年齢66歳のチアリーダーのおばさんたちが紹介されていました。みんな生き生きと心身ともに健康で輝いていました。信仰生活も同じではないでしょうか。日々新たにされて生きる。

誰をキリストというか

2014-04-16 16:26:56 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2014年4月13日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

 「誰をキリストというか」  ルカによる福音書23章13-25節

 ヘロデのところから戻されてきたイエスを前にピラトは再び裁判を始め、祭司長たちや議員たちと民衆を集めて、「訴えているような犯罪はこの男には何も見つからなかった。ヘロデとも同じであった」と答えた。ところが、そこにいた人々は、「その男を殺せ、バラバを釈放しろ」と叫んだのである。
 
 罪なき「神の子」イエスは、犯罪人バラバより以下の者として見捨てられることになった。なぜなら、ユダヤ人たちが求めていた「救い主」とは、強い力で自分たちの民族を率いて、ローマからの解放を奪い取るくらいの人物だったからである。それに比べ、この時のイエスはあまりにも小さく、惨めであり、弱い者だったのである。
 
 この群衆の中には、それまでイエスに従ってきた人々も、いろいろな教えに目から鱗の落ちるほどの思いをした人も、病人の癒しの奇跡を見た者もいただろう。それでも、この時のイエスを自分たちユダヤ人の救い主とは思いたくなかった、いや思えなかったのである。あまりにもみじめで弱く、力なき者に思えたのである。さらに、この男を救い主、ユダヤ人の王になるべき人と信じてきた自分たちが情けなく思われてきて、どこにもぶつけようがない怒りをイエスにぶつけたのではないだろうか。敬意が一転して軽蔑、さらに殺意へと変わった。

 私たちもまた、「十字架につけろ」と叫んだ群衆の中に自分を見るのではないだろうか。群衆と同じように、自分の中に弱さ、醜さ、闇を抱えて、それらをどうしようもなくもてあまし、それを関係のない者にぶつけるような者ではないだろうか。

 その、「十字架につけろ」との群衆の声は、結果的に、本来ならば処刑されるべき、暴徒のバラバを主イエスの命と引き換えに救うということになった。主イエスが死ぬことによってのみ、バラバは命を得たということになる。それこそ主イエスの十字架の死の贖いによる赦しをバラバは一身に受けたのだった。バラバは赦されるにふさわしい功績があるはずはなく、それどころか、赦されることはあり得ないのであり、信仰すら彼には無縁である。しかし、ただただ主イエスが死んでくださったことにおいてのみ、赦しが与えられたのである。それ以外の何ものも彼を命へもたらすものはない。まことにこれは、救いの極致とでもいうべきことである。十字架は身代わりの死である。

 しかしながら、これはわたしたちの身に起こっていることでもある。どうして私のような者が赦されて今日ここにいるのか、何の功績もなく、ただ主イエスがわたしの命と引き換えに死んでくださったので生きることが赦されている。私たちもまた、一人のバラバであることをひしひしと感じない人はいないだろう。

今日から受難週

2014-04-14 11:10:15 | 牧師室だより

牧師室だより 2014年4月13日 今日から受難週

 今日から受難週です。受難というのは、イエス・キリストが受けた十字架上の苦しみと死を指します。受難週は、主イエスがエルサレムに入城した「しゅろの日曜日」から始まる1週間を指す。

 福音書を書いた人たちにとってこの一週間の主イエスの行動と言葉とを記すことは、復活記事と共に、その執筆の最大の関心事だったのです。いや、受難の十字架を書くために福音書を書いたと言ってもいいでしょう。そこで、四つの福音書はそれぞれ、かなりのページをさいて受難週を描きました。例えば、マルコは全章数の四分の一、ヨハネは実にその三分の一を受難週の記事に割いています。

 四つの福音書の受難週記事には、当然多くの共通点もありますが、また読者を困惑させるような相違点もたくさんあります。それぞれの福音書記者の用いた資料(伝承)と、編集の意図(強調点)の違いによることです。そこで、この重要な一週間に何が起こったのかを、厳密に再現することは困難ですが、とりあえず最古の福音書といわれるマルコ福音書によって、この一週間をたどってみましょう。

 ①日曜日(しゅろの主日)エルサレム入城(11:1-10)。
 ②月曜日 宮清め(11:15-19)。
 ③火曜日 神殿説教(11:20-13:2)。
 ④水曜日 オリーブ山説教(13:3-37)。
 ⑤木曜日(洗足の木曜日)最後の晩餐(過越)・ゲッセマネ・逮捕(14:12-72)。
 ⑥金曜日(受難日)ピラトの裁判と判決・十字架の主の死・埋葬(15:1-47)。
 ⑦土曜日(安息日)女弟子たちが香油を準備したこと(16:1)以外、聖書記事なし。

 特に、十字架にかかった金曜日は「受難日」であり、初代教会の時代から、主イエスの受難を覚えて、特別な日として礼拝や祈祷会を守ってきました。当教会でも、受難日祈祷会を行っています。この一週間、福音書の受難物語を改めて読むことは有意義でしょう。音楽が好きな人は、バッハの「マタイ受難曲」などの受難曲を聴いて過ごすのも素敵ですね。絵画の好きな人は、受難物語を描いた絵画はたくさんありますから、じっくり鑑賞してはどうでしょう。/font>