平塚にあるキリスト教会 平塚バプテスト教会 

神奈川県平塚市にあるプロテスタントのキリスト教会です。牧師によるキリスト教や湘南地域情報、世相のつれづれ日記です。

数えてみよ 主の恵み

2013-12-31 09:42:09 | 牧師室だより

牧師室だより 2013年12月29日 数えてみよ 主の恵み
  -平塚教会2013年10大ニュース-

 今年最後の祈祷会(12/25)の出席者で、2013年平塚教会の10大ニュースを選
んでみました。おおむね日付順。

①1年かけて信徒会で検討してきた「信仰告白」を3月の総会で承認。その
後、教会規則・細則と合わせて製本。信徒会の13年度のテーマ「バプテス
ト主義と教会形成」について4回の学びをした。

②3/31イースター礼拝(43名)。

③エアコン献金、目標額が満たされ3月末で感謝して終了。

④伝道礼拝で証し者を立て行う(2/17、6/16、9/15、11/17)。
秋には(10/20)小田衛牧師(青葉教会)による特別伝道礼拝(32
名)。午後は「教会形成」の研修会。

⑤バプテスマ:S兄2/24、転入会:K兄1/20、Y兄6/23

⑥教会学校デーはサマーナイト礼拝として行う(7/21)。子ども13名・大
人19名。もちつき会(3/20)44名、流しそうめん(7/28)28名。教会バザー 
(11/23)。それぞれ楽しい交わりの時を持った。  

⑦月1回(第3木曜日)の炊き出しの奉仕の継続。さらに8月より、教育館
2階を「ひだまり」のシェルターとして活用始める。

⑧南小会室のテーブル新調、生きがい事業団に除草依頼。

⑨福島原発被災地視察ツアー(11/4‐5)5名。アジアバプテスト女性大会
(10/7-13)K姉。ミャンマー宣教200周年大会(12/4-9)杉野牧師夫妻。

⑩女性会・サロン虹合同クリスマス会16名、子どもクリスマス会(子ど
も20名)、クリスマス礼拝48名、キャンドルサービス38名、12/25聖歌
隊が老人ホーム「シニアフォレスト湘南平塚」でクリスマス賛美の奉仕。

暗闇は光を理解しなかった

2013-12-26 13:55:48 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2013年12月24日 キャンドル礼拝宣教 杉野省治牧師

 「暗闇は光を理解しなかった」 ヨハネによる福音書1章1-5節

 おじさん わたしは8才です。お友だちの中に、サンタ・クロースなんかいないっていう子がいるのです。パパはこう言いました。「『ザ・サン』にそう書いてあればそうだろう」どうか本当のことを教えてください。サンタさんはいるのですか。ヴァージニア・オーハンローンより。

 これは、1897年9月にアメリカのニューヨークの新聞『ザ・サン』にあてられた8歳の少女の手紙である。さて、この8歳の少女の素朴で純粋な質問の手紙を受け取った「ザ・サン」の新聞社はどう対応しただろうか。なんと返事は新聞の社説に掲載されたのである。執筆したのは論説委員のフランシス・チャーチ。彼は「この世には、愛や思いやりといった、目には見えないけれども確かに存在するものがある。それと同じように、サンタクロースだって確かに存在する」という内容の社説を書いて答えたのである。“Yes,Virginia,There is a Santa Claus (そうです、ヴァージニア、サンタクロースはいるのです)”という一節のあるこの社説は大きな反響を呼び、以後、『ザ・サン』は毎年クリスマスが近づくとこの社説を掲載したということである。

 書き出しの一部を紹介しよう。「ヴァージニア、あなたの友だちはまちがっています。その子たちは疑い深い時代の疑いに影響されているのです。その子たちは見えるものしか信じないのです。その小さな心で分からないことは存在しないと思うのです。ヴァージニア、大人の心も、子どもの心もちっぽけなものです。この大きな宇宙の中にあって、人間はほんの虫けらか、アリンコのようなものです。まわりの果てしない世界に比べれば、その知恵においても、また真理や知識の全体をつかみとる知性においてもそうなのです」。

 確かに私たちもバァージニアのお友だちのように「見えるものしか信じない」者ではないのか。そのことを聖書は繰り返し証言している。今日の聖書の箇所の最後のところに「暗闇は光を理解しなかった」と書かれている。「暗闇」とは「この世」のことであり「暗闇」に住む我々人間のことでもある。「光」とは「神」であり、ここでは「神の独り子イエス」のことである。暗闇に住む人間は、光である「神の独り子であるイエス」を理解しなかったというのである。

 また、旧約聖書の詩編の115編の2節には「彼らの神はどこにいる」とある。これは、ユダヤの人々に向かって、周りの国々の人々が言った侮蔑の言葉である。唯一の神だとか、天地を造った神だとか言うが、お前たちの国はいつも脅かされているではないか、生活も苦しいではないか、神があるのなら守られるはずではないか。「お前たちの神はどこにいるのか」。これは敵だけではなく、私たち自身の中にもある思いではないか。

 主イエスが十字架につけられた時、群衆は主イエスに向かって「もし神の子なら十字架から降りてこい」と言っている。これは嘲りの言葉ではあるが、ある意味では人間の本質的な叫びではないだろうか。黙って殺されていったのではなんにもならないじゃないか。どこにも神の業は見られないじゃないか。それではいくら神の子だと言っても信じられないじゃないかという思いから出ている、痛切な叫びでもあったと言えるだろう。これが私たち人間の本質、本音であり、真実が見えない、理解し得ない限界のある存在だということである。

 先に紹介した「ザ・サン」の論説委員のチャーチも言うように「大人の心も、子どもの心もちっぽけなものです。この大きな宇宙の中にあって、人間はほんの虫けらか、アリンコのようなものです。まわりの果てしない世界に比べれば、その知恵においても、また真理や知識の全体をつかみとる知性においてもそうなのです。」と書いてるとおりである。そういう存在なのである。

 今日の聖書個所に「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった」とある。命、光、それは主イエスのことである、命は見えない。見えないが確かにある。誰も否定はしないだろう。「この世には、愛や思いやりといった、目には見えないけれども確かに存在するものがある」とチャーチは書いている。これも誰も否定しないだろう。あとは、そのことを信じるか信じないかである。信じる者は救われる。単純ですが、真実である。主イエスは言われた。「見ないのに信じる人は、幸いである」。

成就した出来事

2013-12-26 12:20:21 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2013年12月22日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

 「成就した出来事」 ルカによる福音書1章46-56節

 主イエスの誕生は旧約聖書の預言が成就された出来事、神の出来事である。そこに主イエスの誕生の大きな意味がある。

 まず、神が私たち人間の世界に働きかけられたというのは、驚くべきことである。そのことは、ザカリヤの記事でも示されている。彼が香をたいているとき、御使いがあらわれた。私たちは神に仕え、神にささげ物をしたり、香をたいたりして神に喜ばれるようなことをするのが信仰であると思いやすい。しかし、ここでは神がザカリヤに御使いを送ってこられた。神のために人間が何かしていくものと思っていたのに、神の方から近づいてこられた。聖書が一貫して私たちに訴えている出来事とはそれである。そこに他の宗教とキリスト教の違いがある。どうして神を喜ばせていくかということではなくて、神が私たちの方へどのようにして近づかれ、何をされたのかに目を留めていくのがキリスト教である。
 
 ヨハネの父ザカリヤと、その母エリサベツは、「二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった」人である(ルカ1:6)。旧約の思想では、正しい人は神から祝福を受ける。たとえば、子どもがたくさん生まれるとか、あるいは事業が繁栄するとかいうことを、神の祝福のしるしと見ていた。ところが神の前に正しい行いをしていたザカリヤたちには、子どもがなかった。それは理解できないことであった。
 
 ザカリヤは、「神よ、どうして私たちをお見捨てになるのですか、どうか子どもを授けたまえ」と祈ったであろう。それは「ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた」(1:13)と言う天使の言葉から推測されるだろう。また、エリサベツは「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました。」と言っているように、子どもがないことを恥だと思っていた。彼らは、自分たちは神からのろわれたように思っていたのである。なぜそのように苦しんだのか。それは彼らが正しい人たちであったからである。
 
 しかし、神の前に正しく歩む者は、常にこの「ところが」を味わう。神の前に正しく歩んできたのに、それにふさわしい現実がやってこない。私たちはよく「どうして」と言う。神に対してもそれを言うことがある。「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか」(1:18)、「どうして、そのようなことがありえましょうか」(1:34)。それは神を自分の秤ではかろうとしていることである。私が理解し、納得できたら信じようという生き方である。そこでは神ではなく自分が主人になっている。

 聖書の出来事は神の出来事である。だから、私たちの信仰の基盤は、私のような者を神が心にかけてくださったということを知ることにある。「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め」(1:25)、「身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださった」(1:48)。私たちが神を信じるのは、自分の人間を磨くことになるし、また人生の問題で悩んだり苦しんだりしたときには、どうしても助けや慰めがいるからだ、という人があるが、信仰とはそういうものではない。仮にそういうことが動機であっても、やがて、神はこの私を心にかけて下さっていたことに気づくところから、本当の信仰が始まる。「わたしの魂は主をあがめ、/わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」(1:47)。これが信仰である。キリスト教信仰は、自分が必要だから信じたのではない。神が私たちの方へ臨んでこられたから、信じるようになったのである。神が私のような者を心にかけてくださった、そのことが私たちの信仰の始まりであることを、いつもはっきりさせておかねばならない。

独立記念碑

2013-12-23 14:13:53 | 風景
ヤンゴンのダウンタウンの中心にある
英国の植民地からの独立記念碑。公園になっていて、
周りはヤンゴン市庁舎、バプテスト教会、スーレーパコダ、
最高裁判所(植民地時代の建造物)、百貨店などがある。
三次にわたる英国との戦争に負け、1885年英国の植民地支配始まる。
1948年、英国から独立。その間1941年から45年まで日本軍の侵略。
日本軍、英国軍と戦闘。

シュエダゴンパコダ

2013-12-23 13:57:09 | 風景
ヤンゴン郊外にあるミャンマー最大の聖地
シュエダゴンパコダ。規模と言い、美しさといい、
素晴らしい。座って熱心に祈りをささげる老若男女。
太陽の光に輝く黄金のパコダも美しいが、夕日やライトアップされた
パコダもまた趣があってよい。

最近のミャンマー事情

2013-12-23 12:01:39 | 牧師室だより

牧師室だより 2013年12月22日 最近のミャンマー事情

 ミャンマー旅行は3度目である。17年前と13年前と今年。2度目の時は最初の時とそれほど街角の風景に変化が見られなかったが(ともに軍事独裁下だったからか)、今回はいくつかの点で大きく変化しているのに驚いた(民主化と経済成長が進んでいるからか)。

 まず、車が増えて、あちこちで渋滞が起こっていたことである。バスは「こんなポンコツ車が」と思うものであったが、他の車は、比較的きれいであった。聞くと、ミャンマーの人は、ぶつけられたくない、ぶつけたくない、という思いが強く、スピードを出さない安全運転だという。道路事情が悪く、いたる所穴ぼこだらけで、信号も少ないからスピードが出せない事情もあるだろう。片道2車線の広い道路でもせいぜい40キロのスピード。

 次に目に着いたのは多くの人が手にしているケータイ。日本ほどではないが、あちこちでケータイを見かけた。それもスマホ。13年前は一人も見かけなかったが。聞いたところ、ミャンマーでは、電信会社に契約するのではなく、プリペイドカードで使用しているとのこと。

 次に目に着いたのは、民族服であるロンジー(一種の巻きスカート)を着ている人がだんだん少なくなっていることである。民主化が進み、経済的に豊かになって来て、西欧化が進んだ結果だろうか。それともやはり動きやすいズボンの魅力だろうか。今風のおしゃれをしている女性や若者も多く見かけた。

 以前は貧しい子どもたちが、どの観光名所でも外国観光客に手を出してお金をせびる光景があった。またヤンゴン市内では裸同然の子どもたちが道端で寝ている姿も見かけたが、今回は一度だけ見ただけであった。

 前回行った時は、政治の話はタブーで、アウンサンスチ-という名前すら言わないでくれと言われた。どこにスパイがいるか分からないからと。今回は違った。なんと彼女の自宅の前まで案内してくれた。NHK国際放送も放映されている。民主化と経済成長が進むミャンマー。自由で平和であるようにと祈る。