平塚にあるキリスト教会 平塚バプテスト教会 

神奈川県平塚市にあるプロテスタントのキリスト教会です。牧師によるキリスト教や湘南地域情報、世相のつれづれ日記です。

いのちの主を畏れよ

2017-05-30 14:38:16 | 説教要旨

<先週の説教要旨> 2017年5月28日 主日礼拝 杉野省治牧師
「いのちの主を畏れよ」 第一コリント3章5-9節
 
 パウロはコリント教会内の分裂騒ぎに根本的な態度を示す。その一派にパウロ派があったのだから、普通ならうれしいだろうに、彼はそれを否定する。5節の「パウロは何者か」とはどれだけの値打ちがあるのかということ。アポロにしても彼自身も自分の力で伝道したのではなく、ただ神の恵みによるのだ、ということ。しかも、主から与えられた分だけ働かせていただいたに過ぎないのだと説くのである。しかし、なかなかそのことに私たちは気づかない。この神の恵みは、神のために懸命に励み、神の前に自分を低くしていくことによってのみ気づかされていく。それは、6節の「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です」という信仰の告白へと私たちを導く。

 さらにパウロは7節で「ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です」と言って、キリストを介して神を中心に置き、神の前では、自分も含め人間、および人間に所属するもの一切が相対化されるべきことを述べている。要するに、自分を絶対化しないということ。それによって、逆に自分のしていることを冷静に見つめることができる。周りも冷静に客観的に見ることができる。

 そうしてはじめて、キリストの前で共に生きる、共に成長していくことの本質が見えてくる。共にかけがいのない神から与えられた「いのち」を生きている。その私たちを成長させてくださるのは「神」。私たちは互いに水をやったり、手入れをするだけ。

 私たちキリスト者が立つべき立ち位置というものは、神が私たちにかけがいのない「いのち」を与え、そして「育ててくださる」「成長させてくださる」、という視点、信仰に立つということ。そして共に生きていこう、共に成長していこう、という姿勢で関係性を大事にしていくということ。言い換えるならば、いのちの主を畏れ、かけがいのないそれぞれに与えられた「いのち」を感謝して大切にする。そして、人それぞれには神から与えられた人生があり、生活があるのだから、その歩みを尊重しつつ、成長させてくださる神に信頼し、期待して共に歩んでいくことである。

話すことは魂の呼吸 

2017-05-30 14:02:44 | 牧師室だより

牧師室だより 2017年5月28日 話すことは魂の呼吸 

 かつて政治学者ダグラス・ラミス氏は朝日新聞(2006.7.6)に次のように書いた。以下少し長いが引用する。

 「話す」ということは、人間の呼吸の一様式である。そして私たちが生きるのに呼吸が欠かせないように、話すことは書くこと、聴くこと読むことと同様、私たちの心に栄養を運んでくる。話すことは魂の呼吸であり、人を強制的に沈黙させることは魂を絞め殺すことにほかならない。

 私は、ラミン・ジャハンベグローという若いイラン人の政治哲学者が4月下旬にイラク当局に逮捕されたことに対し、釈放を求めている。人を沈黙させることはイラン国民に対する攻撃であり、イラン人の言葉を奪うと同時に人々が生きる社会の空気を奪うことになるからだ。(中略)

 私が釈放を求めるのは、イラン政府に、アムネスティやヒューマン・ライツ・ウオッチのような人権NGO(非政府組織)や外国政府の要請に従え、といっているのではない。また西洋の人権思想を受け入れろ、というのでもない。

 言論の自由はなぜ守られるべきか。それは西洋の“賢い”思想家の「発明」だからではなく、社会の空気を自由に呼吸し、それを守ることである。言論の自由をつぶすことは社会の呼吸を破壊し、社会という生き物の息の根を止めることに他ならないからだ。

 以上であるが、言論の自由がいかに大切で尊重されるべきものであるかをわかりやすく述べている。それは他の国のことだろう、とはすまされない。すでに、公立の学校では「日の丸・君が代」についてはタブー、先生方は沈黙させられている。先生を強制的に沈黙させ、魂を絞め殺しておいて、「愛国心」を教えよと強要する教育基本法が改正された。何かおかしい。自由なくして「人間」教育はできない。

 今度は「共謀罪」。うかつにしゃべったり、書いたりすると当局(権力)に引っ張られるかもしれない。一般市民が委縮するのは目に見えている。それは信教の自由まで及ぶ。「自由」と「人権」が脅かされ、権力者に忖度する者がのさばる社会にしてはいけない。

忍耐と希望

2017-05-24 16:39:47 | 説教要旨

<先週の説教要旨> 2017年5月21日 主日礼拝 杉野省治牧師
「忍耐と希望」 ヘブライ人への手紙6章13~20節

 信仰は量ではなく質である。「からし種一粒の信仰があればいいのだ」とイエスは言われた。しかし、いつまでたっても信仰の確信に立たない、信仰を得ていないと思っている人は多い。まわりを回って、キリスト教のいいところにふれているかもしれない。けれども、喜びがない、感謝がない。それは、その人が信仰の真実にふれていないからである。神やキリストとの交わりを忘れ、人と人との交わりだけしているからである。神と交わるとは、祈りとみ言葉を受け入れていくことである。そして、いつも謙虚に聖霊によって十字架の恵みにあずかりつつ、「完成を目ざして進」むことが大事である(6:1)。
 
 信仰を完成するというのは、全うするということに通ずる。全うするためには、忍耐こそ唯一のものである。ヘブル人への手紙のテーマは忍耐ということである。この6章後半も、忍耐を激励している。忍耐というのはただ我慢するということではない。必ず来るものを待つということである。福音とは神の国の到来を知らせるものである。その到来と知らせとの間が忍耐である。だから忍耐とは希望と結びついているもので、希望のない忍耐は聖書でいうところの忍耐ではない。
 
 アブラハムがイサクを連れて、モリヤの山に登っていくとき、若者たちを山すそに置き、二人で行く。その時彼は若者たちに「あなたたちは、ここで待っていてくれ。私たちは、いまから山へ行き礼拝して帰って来ます」と言う。「帰って来ます」の主語が複数である。イサクを神にささげたら、帰りは一人のはず。それを「私たちは」とアブラハムが言えたのは、イサクも帰って来られることを信じきっていたからである。だから一人子を献げることができた。どんなにして神が返して下さるかは分らなかった。献げるけれど、愛の神は殺すようなむごいことはなさらない。最善をして下さると信じていたからこそ、彼は従うことができたのである。
 
 聖書の忍耐とは希望を持って待ち望むことであり、み言葉に従って待ち望むことである。それが私たちの信仰生活を全うさせる力であり、完成へと進めるものである。この服従の忍耐を続ける時、私たちは神の国に入ることが許され、神と相対して、「神が人と共に住み、人は神の民となり、……」(黙示録21:3)という世界に生かされるのである。信仰は見えざる神への信仰と未知の将来への確信であるので、その中に当然忍耐が含まれる。そして、約束の成就を受けるのである。真の信仰者は目標を目指して努力することが求められている。

シルバー川柳

2017-05-24 16:25:29 | 牧師室だより

牧師室だより 2017年5月21日 シルバー川柳

 アンチエイジングとは、老化防止を意味する英語で、「抗老化」や「抗加齢」と訳される。加齢によって自然に起こる、しみやしわ、骨や筋力の衰え、動脈硬化や癌(がん)をはじめ、生活習慣病の影響でリスクが高まるさまざまな病気など、その原因を抑制することによって老化の進行を遅らせようとすること、だそうだ。医療、美容、健康、食品といった多くの関連分野で、抗老化に効果があるとされる方法や商品が話題になっている。

 では、精神(気持ち)のアンチエイジングのためには何が有効だろうか?いろいろ考えられる。身近で具体的な目標に向かって励む。社会や人の役に立つ活動をする。多くの人との交わりを楽しむ。おしゃべりや食事をして発散する。生活に笑いがある。

 この「笑い」は効果的だ。落語や漫才を聞いて思い切り笑うのもよし。テレビや映画などの喜劇ドラマを観て笑うのもよし。自らダジャレを飛ばして笑うのもよし。以下紹介するシルバー川柳を詠んだりするのもよし。

 このシルバー川柳が高齢者の中でひそかに人気だということを最近知った。さっそく本屋に行ってみると、確かに『シルバー川柳 誕生日ローソク吹いて立ちくらみ』(ポプラ社 2012年)が店頭に並んでいた。さっそく紹介しよう。

 「まだ生きる つもりで並ぶ 宝くじ」「万歩計 半分以上 探し物」「この動悸 昔は恋で 今病気」「カードなし ケータイなし 被害なし」「土地もある 家もあるけど 居場所なし」「起きたけど 寝るまで特に 用はなし」「目覚ましの ベルはまだかと 起きて待つ」「厚化粧 笑う亭主は 薄毛症」「大事なら しまうな2度と 出てこない」

 どれもこれも痛快にわが高齢人生を笑い飛ばして底抜けに明るい。笑いは自分という存在を相対化して(客観的に)見る視点から生まれる、と言われている。シルバー川柳の場合、高齢化を積極的に受け入れて楽しむゆとりから生まれているようだ。いつも笑いのある人生を送りたいものだ。「笑う門(カド)には福来る」。

人生を変える出会い

2017-05-17 10:10:13 | 説教要旨

<先週の説教要旨> 2017年5月14日 主日礼拝 杉野省治牧師
人生を変える出会い 創世記32章23-32節

 私たちは人生の中で、色々な人々や出来事に出会う。しかし、ただ人間や人間社会との出会いがあるだけではない。実は、もう一つの出会い、私たちにとって根本的な出会いがあることを今朝の聖書の箇所は教える。

 ヤコブは、父イサクと兄エソウをだまし、長子の特権を奪い取り、長子の祝福を受けた(27:35以下)。ヤコブは兄エソウの激しい恨みから逃れ、遠く外国の地、母の兄ラバンのもとに逃亡した。長子の特権とは、現代風にいえば「遺産問題」「財産問題」。そこでの20年間、ヤコブは知恵をめぐらし、策を弄して、自分の家畜を増やし、財を成した。しかしそこでも疎まれ、ヤコブは逃げるようにして故郷に向かった。しかしそこには兄エソウがいる。あれからすでに20年を経ているが、こじれた人間関係が消えたわけではなく、修復されているわけでもない。それはヤコブの悩みであり、闇の部分であった。ヤコブには真の平安がなかった。ヤコブはそのような問題の只中で、それとは別な「何者か」に襲われた。聖書はこういう「思いがけない出会い」が起きると伝えている。それは神との出会いである。

 ここには二つのことがいわれている。一つは、心悩ませている問題があり、それがどんなに深刻に見えたとしても、実は本当の問題ではないということ。もう一つは、その時もう一つの出会いが起きるという。悩みの出会いは、それがどんなに恐ろしく見えても、結局のところ、遅かれ早かれ失わざるを得ないものを奪うだけであり、それ以外のものは奪えない。それは、時間を奪っても本当の命を奪うことはできず、健康を奪っても本当の平安を奪うことはできない。肉体の命を奪っても魂の救いを奪うことはできない。

 それに対して、本当の問題があるという。それはヤコブにとって兄エソウではなく、神だというのである。なぜなら神と出会わなかったら、救いを知らず、赦されず、魂の平安のないままである。生きる意味も喜びも見出せない。本当に必要なのは、神と出会い、神との和解に生きることである。エソウとの和解はその後のことであるという。

 その神とは祝福を求めるヤコブの必死の格闘に屈して下さる方。神は人間の求めに屈して下さる。求める者に対する神の謙遜、神のへりくだり、それこそ「愛の神」「恵みの神」。ここに聖書が伝える神が「恵みの神」であり、「十字架にかかられる神」であることがはっきり現れている。「悩みのときにわれを呼べ」と言われる神であり、「私の名によって求めよ」と言ってくださる神である。この神と出会い、神との和解の中に生かされていく。それが私たちの人生を変えてくれるのである。

積極的な祈りへの六つのステップ ②

2017-05-17 07:25:39 | 牧師室だより

牧師室だより 2017年5月14日 積極的な祈りへの六つのステップ ②

 シューラ―の勧める「祈りへの六つのステップ」の後半を紹介します。前半(復習として、キー・センテンスを載せておきます)と合わせて、自分の祈りの成長のために参考にしてください。

 ①追及せよ。神を激しく求めなさい。②再検討せよ。あなた自身を吟味しなさい。③確信せよ。神があなたのうちに働いて、何事かを起こして下さることを積極的に確信しなさい。
 
 ④ゆだねよ。あなたの思いをゆだねなさい。「父よ、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」(ルカ22:42)

 ⑤期待せよ。積極的な結果を期待しなさい。肯定的で積極的な感情、喜び、平安、信仰が、あなたの中に流れて広がっていくのを、いま先取りして感じなさい。「もし、信仰があるなら、あなたがたにできないことは、何もないであろう」(マタイ17:20)。

 ⑥喜べ。喜びなさい。神に感謝するときには、感謝の言葉を、具体的に詳しく述べなさい。たとえば、「神さま、愛する人々の顔を見ることのできる目を感謝します。大好きな音楽を聞くことができ、また、寂しく過ごしている最中に、友人の声を電話で聞くことのできる耳を与えてくださったことを感謝します」というように祈りなさい。

 祈りは、私たちの生活の中に神を引き込もうとすることではありません。むしろ私たちが神の御計画とその目的の一部となり、神のみもとに導かれるための霊的訓練です。神の御計画と目的は聖書にあります。聖書に親しみ、み言葉に応答することが祈りともいえます。聖書と祈りが信仰生活の基本であります。

 「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」(第一テサロニケ5:16-18)。この聖句を「喜・祈・感(き・き・かん)」と覚えましょう。そして、絶えず祈りましょう。

共に祈る教会

2017-05-13 10:50:16 | 説教要旨

<先週の説教要旨> 2017年5月7日 主日礼拝 杉野省治牧師
共に祈る教会 使徒行伝12章1~5、12~17節

 初代教会をゆさぶったものの一つは、迫害であった。ヘロデ王は、キリスト教徒を迫害すれば、自分の人気を回復し、維持していくのに好都合だと考え、ヨハネの兄弟ヤコブを殺し、次いでペテロも捕らえた。ペテロは当時のエルサレム教会の指導的人物である。
 
 教会はこの世の権力に対してなんの抵抗もできない弱い存在であった。普通ならもうだめだとあきらめるところである。しかし、教会はあきらめなかった。「彼のために熱心な祈りが神にささげられた」(5節)。しかし、そのことはただ神に祈り求めていく以外に道はなかったことでもあった。信仰とはあきらめないことである。あきらめるのはすでに罪である。なぜなら、全知全能の神を信じるとは、どんな状態にあってもあきらめないで、望みをもって生きていくことであるからである。初代教会はこの世的にはまったく弱かったが、望み得ないときにもなお、望みつつ信じる強さを持っていた。祈りの強さである。
 
 「早く起きあがりなさい」をはじめ、ペテロに対して御使いは「~なさい」と言われた(7-8節)。神はいつも私たちに「~なさい」と言われる。それは私たちに応答を求める言葉である。「彼はそのとおりにした」(8節)。ペテロは神の言葉に応答した。その時、神の世界にふれた。鎖はとけ、扉は開いた。神の言葉に応答するなら、神の世界に呼吸する者とされる。その時、神はもはや話の世界ではなく、現実となる。それが神との出会いである。神の言葉に聞き従うとき、神の現実が私たちに開かれ、神の愛と支配の世界を知る者となる。このことなしに、どんなに考えても、決して神を知ることはできない。

 言い換えるならば、私たちの信仰の土台を神に置くということである。神の確かさに置くゆえに確信して祈ることができる。自分に置くからふらふらするのである。どこまで行っても信じ切れないのである。
 
 このように祈りの根本的な姿勢は、神に信をおいて祈る。神の確かさに信をおいて祈ることである。自分の確かさや熱心さに信において祈るのではない。そのことを祈りの実践から教えられ、訓練されて成長させていただこう。

積極的な祈りへの六つのステップ ①

2017-05-13 10:31:41 | 牧師室だより

牧師室だより 2017年5月7日 積極的な祈りへの六つのステップ ①

 祈りは信仰生活の基本であり、核心であります。信仰生活の成長のためにも、祈りにおいて成長することが求められます。ここに、米国の神学者で牧師のR.H.シューラー(1926年生)の勧める「祈りへの六つのステップ」を紹介します。今の自分の祈りを振り返ってみましょう。次週と合わせて2回連続で紹介します。

 ① 追及せよ。神を激しく求めなさい。罪の告白から始めなさい。具体的に述べなさい。自分のありのままの姿を打ち明け、厳しい言葉で容赦なく自分を描写し、さらけ出しなさい。「もし心を尽くして、神を求めるならば、あなたは必ず主を見出すだろう……」(申命記4:29)。

 ② 再検討せよ。あなた自身を吟味しなさい。祈る時、自分自身に向かって、「私は本当に正直だろうか」と問いなさい。ふざけたり、照れたり、ごまかしてはなりません。もし、あなたが信じられないで悩んでいるなら、そのことを告白するのです。たとえば次のように祈りなさい。「神さま、私の信仰があいまいで、暗く、だらだらしている時でも、あなたは私を愛して下さることを感謝しますと。

 ③ 確信せよ。神があなたのうちに働いて、何事か起こして下さることを積極的に確信しなさい。誠実に、また確信をもって祈りなさい。消極的な祈りは、あなたを弱くするだけです。「神さま、あなたが私を愛して下さっていることを知っています。あなたは私が犯した……のことで、私を赦そうと心から待っておられます」と祈るのです。

 祈りは実践です。ことあるごとに祈りましょう。祈りによって神さまのことがよく分かります。祈りによって自分自身のことがよく分かります。祈りによって励まされ、鍛えられます。祈りによって慰められます。祈りは信仰の訓練です。

 *『日常の祈り・苦しみの時の祈り』(佐藤優子訳 聖文舎 1978 9-11頁)引用

共に今を生きる

2017-05-01 15:45:22 | 説教要旨

<先週の説教要旨> 2017年4月30日 主日礼拝 杉野省治牧師
「共に今を生きる」 ガラテラ人への手紙2:11~21

 アンティオキアの教会は実に様々な人々の集まりであった。異なる文化と風俗、習慣や生活経験。異なる々が、違いや壁を越えて一つにされていた。「皆、キリスト・イエスにおいて一つ」(ガラテヤ3:28)であった。そのしるしが一緒の食卓につくことであった。それは皆にとって至福の時であった。

 ところが、その中に特定の人種主義や民族主義を持ち込み、優位性を持って主張する者たちが現れた。お互いの「差異」は「差別」と変わり、共同の食卓そのものが破壊された。パウロが指摘したアンティオキア教会の問題性はそれであった。だから、すぐれて現代の問題でもある。ケファ(ペテロ)の変節はパウロにとって「苦い失望」であった。しかし、パウロはそれをも越えて進んだ。私たちもまた、同じ苦さに耐えつつ、繰り返し、あの「一緒」に帰っていく努力が求められている。

 ケファの変節もわからないわけではないが、しかし教会(共同体)から見ればかえってマイナスである。いざとなると心変わりする。臆病になる。周囲を見回し始める。人の顔色や声を気にする……。要するに神を見ないで人を見る。ことが福音の分かれ目、教会の存立に関わるような場合、ケファのようであっては困る。そこをパウロは問題とした。人をかばうに急で、福音が曲げられ、教会が病んでゆくのを見過ごしてはいけない。キリストの福音が立てられていかなければならない。キリストのみを見上げていくことが肝要であることを教えられる。

 「私は神に対して生きるために、律法に対しては律法に死んだ」(19節)とパウロが言っているのと同じく、私たちもバプテスマを受けた時に、ひとたび死んだ。十字架は、神無しの人生を当然としてきた古い自分の死である。罪人の私が十字架につけられたことは、だから特定の時の一点であるには違いない。だが、その事実と恵みとは、時の流れとともにとうてい過去とはなり得ないものがある。だからパウロは続けて「(岩波訳)十字架につけられてしまっている(現在完了形)」(19節)と言う。あの日あの時だけといった過去のことではない。今も十字架につけられている。

 だから、その十字架抜きで今日を考えることができない。十字架を遠い昔へ追いやって、それとは縁のない現在を生きるというのでもない。今ここで、十字架を負う。忘れもしなければ避けもしない。逃げもしなければ離れもしない。かけがいのない過去は、かけがいのない今として生きている。それ故に、「私はキリストと共に十字架につけられています」という表明が、パウロのみならず私における今現在の最高の信仰告白となるのである。そして、その信仰に生き、そういう今を生きる。

聖霊降臨祭(ペンテコステ)

2017-05-01 14:55:00 | 牧師室だより

牧師室だより 2017年4月30日 聖霊降臨祭(ペンテコステ)

 今年の聖霊降臨日(ペンテコステ)は少し先ですが6月4日です。「ペンテコステ」はギリシア語で「50日目」という意味。旧約聖書ではユダヤ教三大祭りの一つである過越しの祭りから数えて50日目。だから「五旬節」とも言います。この日、モーセがシナイ山で十戒を中心にした律法を与えられたので五旬節をユダヤ教の誕生日としています。

 新約聖書では、イエス・キリストの復活から数えて50日目。主イエスが十字架にかかられた時、弟子たちは逃げ去りましたが、復活した主イエスの姿に接して、喜びのうちに再び集まります。そして50日目、彼らの喜びをさらに決定的にする出来事が起こりました。彼らはそれを「聖霊に満たされた」と表現しました。弟子たちにとって聖霊に圧倒される体験だったからです。

 その日から弟子たちはエルサレムで公然と宣教を始めます。神の国を告げ知らせたために処刑されたばかりの主イエスを証し始めたのです。神が自分たちと共にいて守り導いてくださると確信しなければとうていできないことです。神の霊が人を立ち上がらせたのです。教会ではこの日を記念して聖霊降臨祭として祝います。

 また、聖霊の働きによって弟子たちがイエスの復活の証人として立ちあがり、キリスト教会が誕生することになるきっかけになったので「教会成立の記念日」として4世紀末ごろから守られてきました。

 聖書では、聖霊を「助け主」とか「弁護者」とも言いますが、目に見えない神の愛の力のことです。もしあなたが御言葉を聞いて「イエスは救い主である」と信仰告白に至るならば、あなたはすでに聖霊(力、助け)をいただいています。愛、喜び、平和といった良い実を結ばせるのも聖霊です(ガラテヤ5:22-23)。

 ただ、聖霊の働きには、人には予測不可能な自由さがあります。風(聖霊)は思いのままに吹きます。そのことは、宣教の働きが神ご自身であり、私たちでないことを明らかに示しています。