平塚にあるキリスト教会 平塚バプテスト教会 

神奈川県平塚市にあるプロテスタントのキリスト教会です。牧師によるキリスト教や湘南地域情報、世相のつれづれ日記です。

寄留者モーセ

2011-09-29 11:44:16 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2011年9月25日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

 「寄留者モーセ」出エジプト記2章11-25節      
 
 出エジプトの指導者モーセに対するイメージは、エジプトのファラオとの戦いにおける力強さや、かたくなな民をとりなし、荒れ野で毅然とした統率力を見せたイメージではないだろうか。しかしそれは一面でしかない。神に選ばれた時のモーセは問題を抱えていた。それは、殺人者であり、逃亡者であるということ。言い逃れのできない罪人性。聖書に出てくる信仰の父、信仰の指導者と慕われる人々においても、潔癖な、罪なき人は描かれていない。聖書の人間観がそこに表れている。

 モーセはもう一つ問題を抱えていた。それはアイデンティティの問題。モーセはファラオの王宮で王子として成人した。しかし一方、モーセにはすでに自分はヘブライ人である、という自覚があった。それは乳母として王女から雇われた実の母の存在が大きかったと思う。だからモーセの中には、王女の養子としてのエジプト人と血統のヘブライ人としてのアイデンティティとがぶつかり合っていた。「私は何者でしょう」という疑問、双方から引き裂かれそうになっていた。
 
 エジプト人殺害者であるモーセをファラオは殺そうと尋ね求める。しかし、モーセはミディアンの地へ逃げ、ある井戸の傍らに腰を下ろした。井戸は、よそ者が土地の人と出会う格好の場所でもあった(創世記24::11以下)。モーセは、ミディアンの祭司レウエルの7人の娘が羊飼いたちと羊の飲み水をめぐって争いをしている時、彼女たちを救った。それがきっかけとなり、モーセは祭司であり、娘たちの父親であるレウエルの娘ツィッポラと結婚することができた。そして彼女とモーセの間に産まれた男の子は、寄留者(ゲール)という意味のゲルショムと名付けられた。
 
 ミディアンの娘たちから見て「一人のエジプト人」(19節)であったモーセ。しかしモーセは自らを「異国にいる寄留者」と言う。自分のことをエジプト人だとも言えず、ヘブライ人とも言い切れないモーセの気持ちが「異国にいる寄留人」だといわしめたのだ。モーセは自分探しの旅を始めている。モーセは、ミディアンの地に寄留しながら「わたしは何者でしょう」(3:11)とうめきながら自分自身のアイデンティティを探し始めている。双方から引き裂かれそうだ。いやすでに破れはあっただろう。モーセは自分が何者か決定しきれないアイデンティティの破れと虚無感をかかえながら、また、エジプトの圧制下にある同胞を絶えず気にかけながら、ミディアン時代を過ごしていた。
 
 しかし、そのような寄留者モーセを神は選ばれた。なぜ神は、生粋のヘブライ人を出エジプトの指導者とされなかったのか。なぜ、殺人者であり、逃亡者である寄留者モーセなのか。重労働にあえぐヘブライ人の叫びを聞いた神は、出エジプトを決意する。その指導者としてモーセを選ばれた。敵であるエジプトをよく知っているモーセ。さらに、破れを持ち、罪人であるモーセは、かたくなな民と神から言われる同胞の気持ちも理解できる人物だと思われる。そのようなモーセを選ばれた神の深い隠された配慮がそこにあるだろう。私たちもまたそれぞれに神の愛の配慮によって立たされていることを覚えたい。

東北の鬼

2011-09-26 11:14:18 | 牧師室だより

牧師室だより 2011年9月25日 東北の鬼

 9月19日に東京の明治公園で「反原発」集会(6万人)がありました。この呼びかけは、皆さんにもお願いしている「脱原発を実現し、……全国署名」を推進している大江健三郎さんをはじめとする市民の会です。この集会で語られた福島のお母さん武藤類子さんのスピーチが仲間から送られてきました。素晴らしいスピーチです。残念ながら一部分だけですが紹介します。全文は掲示板。

 ……みなさん、福島はとても美しいところです。東に紺碧の太平洋を臨む浜通り。桃・梨・りんごと、くだものの宝庫中通り。猪苗代湖と磐梯山のまわりには黄金色の稲穂が垂れる会津平野。そのむこうを深い山々がふちどっています。山は青く、水は清らかな私たちのふるさとです。

 3.11原発事故を境に、その風景に、目には見えない放射能が降りそそぎ、私たちはヒバクシャとなりました。

 大混乱の中で、私たちには様々なことが起こりました。すばやく張りめぐらされた安全キャンペーンと不安のはざまで、引き裂かれて(中略)どれだけの人々が悩み悲しんだことでしょう。

 毎日、毎日、否応無くせまられる決断。逃げる、逃げない?食べる、食べない?洗濯物を外に干す、干さない?子どもにマスクをさせる、させない?畑をたがやす、たがやさない?なにかに物申す、だまる?さまざまな苦渋の選択がありました。

 そして、今。半年という月日の中で、次第に鮮明になってきたことは、・真実は隠されるのだ。・国は国民を守らないのだ。・事故はいまだに終わらないのだ。・福島県民は核の実験材料にされるのだ。・ばくだいな放射性のゴミは残るのだ。・大きな犠牲の上になお、原発を推進しようとする勢力があるのだ。・私たちは棄てられたのだ。

 私たちは疲れとやりきれない悲しみに深いため息をつきます。でも口をついて出てくる言葉は、「私たちをばかにするな」「私たちの命を奪うな」です。(中略)

 国と東電の責任を問い続けています。そして、原発はもういらないと声をあげています。私たちは今、静かに怒りを燃やす東北の鬼です。……

 以上です。「東北の鬼」と言わしめる原発。なんと悲しく残酷なことでしょうか。

救いは救われること

2011-09-20 13:51:01 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2011年9月18日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

 「救いは救われること」 ヨハネによる福音書3章16節      
 
 今日の説教題は変な題になった。「救いは救われること」。あたり前のようで、よく分からない。しかしよく考えてみると、あることに気づく。そう、「救われる」。受身である。自分で救うのではなく、誰かに救われること。

 たまに求道者の方からどうすれば救われるのか、という質問を受ける。大変率直な質問。なかなかこういう質問をされる方は少ないように思う。しかし、質問はされないが、心の中でそのように思われている方は案外多いのではないだろうか。このような質問をされること自体が、すでに救いを受ける準備ができていると思われる。反対に自己満足している人、自分は善人だと思い込んでいる人、あるいは自分のことしか考えない人、別の見方をすると「自分」というものから離れられない人、自分というものに縛られている人からは、このような質問は出てこない。

 自分は今のままではいけない、変わる必要がある、救われる必要がある。無意識的でもいいのだが、そのように感じられることが、救いを受ける背景、文脈になる。そういう人が聖書を読み始めると、より鮮明に自分の欠点や罪を認識するようになる。これは辛い経験だが、救いに至るプロセスとしては素晴らしいことである。

 「救われる」ということは、いろいろな言い方ができるが「神の怒りから救われる」という言い方もある。なぜなら、聖書を読むと、神の義と聖の基準が、いかに高いものであるかが分かるから。それが分かると、自分の行いによって救いを得ようとすることが、いかに愚かなことであるかが分かる。それは、神と私たちの間に、越えることのできない淵が横たわっているということに気づかされることである。これが分かると、一方的に赦していただかないと、自力ではどうすることもできないことが分かる。一方的な赦しを「恵み」と言う。

 「福音」とは、「良い知らせ」、「グッドニュース」のこと。福音は、人間が考えたものではなく、神が啓示して下さったもの。そのため、人間的な思索の延長線上でしか物事を考えられない人には、難解である。しかし、純真な心(幼子のような心)で福音に耳を傾けるならば、これほど単純で、愛に満ちたメッセージはない。「神さまはひとり子イエスを犠牲にするほどに、あなたを愛しておられる」というのが、福音の神髄。そして、この福音に応答する方法は、信仰しかない。つまり、「アーメン(その通り)」とうなずくしかないということである。

 福音には3要素がある。どれひとつ落としても、福音ではなくなる。それはパウロが第一コリント15章3-4節で言っている。「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと」。この3要素を受け入れ、イエス・キリストをそのようなお方として信頼する。つまり、「イエス・キリストは今も生きていて、私を救うことができる」と信じることである。これが、恵みにより、信仰によって救われるということである。これ以外に、罪人である私たちが救われる方法はない。

 あまりにあっけなく、単純なので、信じるにもなにかありがたみがないと感じられるほどである。しかし、実はその奥義は計り知れないほど深いものがあり、私たちの生活、人生、歴史に大きく影響を与えるほどに、恵みに満ちている。土の器である私たちに中に、宝をもっているようなもの。ぜひ、その宝を受け取ってほしい。

追悼集会

2011-09-19 10:33:43 | サポーティングハウスひだまり
2011年9月17日(土)14時 平塚市の八幡山の洋館にて
平塚でホームレス支援活動をしている市民ボランティア団体の
平塚パトロールとサポーティングハウスひだまりの共催で
はじめて追悼集会を行った。
約11年間の間、関わった仲間で亡くなられた方々17名。
死者の声なき声に謙虚に耳傾けたひと時であった。黙祷。

質問力

2011-09-19 07:14:17 | 牧師室だより

牧師室だより 2011年9月18日 質問力

 主イエスは弟子たちや論敵に対して、たびたび質問を投げかけています。これは、ユダヤ教の律法学者たちが伝統的に採用していた教授法で、質問を投げかけることによって相手に「気づき」を与え、正しい答えに導こうとするものです。イエスの弟子訓練の方法は、まさに対話と質問によるものだったのです。

 そして今、主イエスの教授法があらゆる分野で用いられています。1970年代に米国で活躍したテニスコーチのティモシー・ガルウェイは、74年に画期的な本を著しました。それが、『インナーゲーム(The Inner Game of Tennis)』という本です。この本の中で彼は、「教える」よりは、「問いかけて気づかせる」方が効果的であると主張しました。「球をよく見ろ」と教える代わりに、「ネットを越える瞬間、ボールの回転はどうなっている?」と質問したのです。これは、別の見方でものを見ることを教えることによって、選手のやる気と興味を引き出すものです。

 この本は米国のビジネス界でも注目を浴びるようになりました。それまでは、トップダウン経営が主流を占めていましたが、部下に絶対服従を命じただけでは、業績が拡大しないのです。どうしたら会社を大きくすることができるのか。悩める経営者たちが注目したのは、スポーツ選手の育成法でした。つまり、従業員の「気づき」にもっと目を向けようという運動が広がっていったということです。トヨタの「カイゼン」方式もその一つでしょう。

 教育界では、伝統的にいかに良い問いかけをするかが、良い授業かどうかの生命線でした。「本をよく読め」というよりは、「主人公は大きく息を吸ってどこを見たのでしょう?」などと具体的に質問することによって、主人公の気持ちを考えさせるといった具合です。また、良い試験問題は、引っ掛け問題を作ることよりも気づかせる問題が良いとされます。

 今、夜の祈祷会では、3~4つの質問を用意しておき、それに答えるという方法で聖書の学びをしています。毎回、質問作りに苦労しますが、いろいろな反応、答えが返ってきて新鮮な思いで学んでいます。日常会話でも「質問力」を活用してみましょう。

キリスト・イエスのしもべ

2011-09-15 15:06:47 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2011年9月11日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

 「キリスト・イエスのしもべ」 フィリピンの信徒への手紙1章1-2節      
 
 フィリピの信徒たちに宛てられたこの手紙は、パウロが獄中で書いたので「獄中書簡」と呼ばれている。しかし、獄中書簡でありながら、本書の中には、喜びという言葉が繰り返し出てくることから、「喜びの手紙」とも呼ばれている。獄中と喜びという相反することが、パウロという一人の人間において、一つの事実になっていることは、不思議で驚くべきことである。その秘密はどこにあるのか。
 
 この1-2節はパウロのあいさつであるが、自分のことを「キリスト・イエスのしもべ」と紹介している。「しもべ」と訳されている「ドゥーロス」は、「奴隷」と訳すこともできる。パウロ自身は社会的階級としては自由人であり、ローマの市民権さえ持っている特権階級に属する。しかし、パウロは神の前における自分の姿はしもべ・奴隷であると言うのである。

 奴隷やしもべというのは、自由がなく束縛されている存在だが、束縛されていると言えば私たちも同じことが言えるのではないか。実際この世の中の生活で自由がなく束縛されている。仕事があり、責任やノルマがあり、あるいは規則や法律もある。難しい人間関係があり、組織や集団に拘束されている。いやもっと深刻なことに束縛され、もがいている。それはパウロも言うように「かつては罪の奴隷でした」(ローマ6:17)という、罪。私たちはみなこの罪や「罪の報酬は死です」という「死」に、がんじがらめに縛られていると言っていいだろう。

 しかしそういう絶望的な現実の中で、キリストは十字架の死を遂げてくださった。パウロは、「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです」(第一コリント6:20)と言っているが、これは十字架の死の意味について鮮やかに示している。この世の奴隷のようにお金によってではないが、イエス・キリストの十字架の尊い血によるあがないによって、新しい主人のもとに買い取られ、キリスト・イエスのしもべ・奴隷とされたのである。
 
 パウロはこの手紙の先の方で、キリストご自身が「僕の身分」(2:7)になられました、と書いている。僕そのものとなられたと言うのである。そのような僕の姿の中にこそ、神に造られた者としての人間の本来の姿、真実の私の正体があることを示してくださったと言うのである。そしてその姿の中にこそ「恵みと平和」(1:2)が実現し、救いと喜びがあると書いている。
 
 今やパウロは神の愛に縛り付けられたキリストの僕である。だからもはや王や支配者、権力者のものでも神々やサタンのものでもなく、死からも解放されている。だれのものでもない。ただキリスト・イエスの僕の道を歩み、十字架に死んだお方、しかし神の力によって死人の中から復活し、すべての者の主となられた(2:9以下)キリストのものなのである。
 
 このようにしてパウロはキリストに出会い、キリストの僕として、何よりも「福音に仕え」(1:22)る者とされていった。キリストの僕として、キリストのものであることの中に、本当に深い慰めがあることを知った。私たちの人生もどのようなものであるにせよ、キリストの僕としての人生であることの中に、深い慰めと自由、喜びの秘密があることを知りましょう。 

平塚バプテスト教会信仰告白(試案) 聖書 ②

2011-09-13 10:35:25 | 牧師室だより

牧師室だより 2011年9月11日 平塚バプテスト教会信仰告白(試案) 聖書 ②

(信仰告白・聖書)私たちは、聖書は神の霊感を受けて書かれ、イエス・キリストによるすべての人間の救いを啓示するものであり、私たちの信仰生活の唯一の規範である、と信じます。

 先週の「聖書」の解説の続き。

 「神の霊感を受けて書かれ」とは、決して、聖書を書いた人たちが神がかりになったとか、聖書が神の御筆先(天理教・大本教などで、神の詞を教主が書いたという文書)であるとか、を意味しません。むしろ聖書はさめた自覚と意図を持った人間が、明確な目的のために書いたのです。しかし、その聖書の告げている内容はあらゆる人間意識を超えています。
 
 神が人間を愛し、人間のための神となり、イエス・キリストにおいて罪人は救われるということは、人間が信じ、語り、書き記す以前に、神ご自身が告げ知らせ、神ご自身が確証されることです。それはちょうどキリストの誕生を知らせたのが人間ではなく天使であり、空(から)の墓の前で復活を告げたのがほかならぬ天使であった、というのと同じです。キリストを本当に証しできるのは、神ご自身であります。

 したがって聖書がキリストを証しているのが真であるなら、聖書は神の力によって書かれたという以外に言いようがありません。そのことを「聖書は、神の霊感を受けて書かれた」(Ⅱテモテ3:15-17)という表現で示しています。この神の自己証言によって、聖書は成立するのです。

 「信仰生活の唯一の規範」の「規範」とは尺度、基準の意味ですが、それに無理やり合わせるというより、尺度、基準に照らして自分の信仰生活を吟味すること、今の自分の生活とどんな関係があるのか、神は自分に何を語りかけておられるのかを考えることがきわめて大切です。聖書はいわば神からの愛の手紙です。その愛のメッセージを聞くことが求められているのです。

 「聖書」の項目の解説は以上です。やはり難しい?大切な心構えは求めて聖書を読み、愛のメッセージを聞き取り、受け取ること。聖書の御言葉は心の糧。信仰生活には欠かせない糧です。