平塚にあるキリスト教会 平塚バプテスト教会 

神奈川県平塚市にあるプロテスタントのキリスト教会です。牧師によるキリスト教や湘南地域情報、世相のつれづれ日記です。

天からの力を受けよ

2015-05-28 15:36:44 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2015年5月24日 ペンテコステ礼拝宣教 杉野省治牧師

 「天からの力を受けよ」 使徒言行録2章1-13節

 五旬節の日、「みんなの者が一緒に集まって」いた。炭火もばらばらではうまく燃えない。「呼び集められ」、心を一つにし、共に祈る時、主は私たちの信仰を燃え立たせてくださる。弟子たちは「あなたがたは間もなく聖霊によって、バプテスマを授けられるであろう」(1:5)という主の約束の言葉を信じ、この日も集まって、一緒に祈っていた。

 この時、突然風のような音があたりに響き渡り、「舌のようなものが、炎のように分かれて現れ」たとある。これは、聖霊が彼らに臨んだ様子を具象的に描き出した表現であろう。「風」は、聖霊の自由な働きを示し、「炎」はその力を表す。灯油はそのままでは単なる液体だが、火がつくと勢いよく燃え始める。人間もそのままでは弱く心もとない存在だが、ひとたび「聖霊の炎」に燃やされると、エネルギーが与えられ、大きく用いられる。この「霊」は、十把一からげの集団ではなく、「一人ひとりの上」に注がれた。真の「霊」は人それぞれの特質、個性を大事にし、豊かに用いられる。こうして、復活のイエスが約束された聖霊は、主の約束を心から信じ、熱心に待つ人たちに与えられた。このように教会のいっさいのわざは「待つ」ということから始まる。寝て待つのではない。祈りつつ、信頼して待つ。その信仰がなければ待てない。

 聖霊は神の力そのものであり、「霊」として私たちの中に働く神ご自身であり、私たちを内側から動かす力として働く。イエスは、十字架につけられる前夜、弟子たちに語られた別れの説教(ヨハネ14-16章)において、地上から去られるご自分の代わりに、「助け主、慰め主」としての「聖霊」を遣わすことを約束された。その「聖霊」がこの時、この場に下ったのである。

 「突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起こって」とある。聖霊が下るのは突然であり、地上からではなく天からである。このことが示していることは、聖霊の働きは、神ご自身の働きであって、人間的な努力や考えで起こることではないということ。だから、そこに当然、私たち人間の側からすると、戸惑いや驚きが起こるということである。

 ルターは次のように書いている。「私が来たのは、平和をもたらすためではなく、剣をもたらすためであると主が言われるように十字架の福音が説かれると世の中が騒然となる。もし私たちがキリストの福音を聞いて疑ったり、驚いたりするようなことがあれば、それこそキリストがそこで働いていてくださる証しである。もし私たちがキリストの福音を聞いて、その通りだと思い、何の疑念も残さないなら、私の知恵は働いているかもしれないが、キリストは働いておいでにならない」(『ガラテヤ大講解』聖文舎)。神の起こされる出来事に人間が驚くのは当然であって、驚きがないなら福音ではないということである。その出来事は我が身にも起こる。天からの力を受けよ。

牧会日誌 

2015-05-26 11:05:13 | 牧師室だより

牧師室だより 2015年5月24日 牧会日誌 

 一週間を振り返ってみた。主なもののみ記載。17日(日)報告総会後、少し休んでS兄とK兄にご飯を持って訪問。

 18日(月)月曜の朝は忙しい。教会のごみ回収、会堂の座布団をあげて、掃除ロボット「ルンバ」を動かす。次に郵便局と信用金庫回り。今日は連合牧師会・配偶者会が横浜JOY教会で。10時に車で出発。新しく赴任された二組の先生方の歓迎会。

 19日(火)朝から説教、祈祷会の準備。「脳みそが疲れる」というのが実感。畳に横になる休憩をはさみながら、午後も続ける。早めに夕食をすませ18時に「連合伝道協議会」に車で出発。「連合の集い」について協議。10時過ぎ帰宅。

 20日(水)早朝に祈祷会の最終準備。おっとプラゴミ回収の日だ。急いで捨てに。祈祷会後、コンビニ弁当を食べ、T姉と一緒にO姉を訪問。バプテスマの希望があり、その準備と学びのため。夜の祈祷会は「使徒言行録」20章。パウロの伝道スピリットから多くを学ぶ。

 21日(木)月一回定例の「炊き出し」。準備の間、庭の倉庫を片付ける。今回は2名の初めての方が来られた。参加者は14名。一人ひとりの抱えている問題は重い。もっぱら話の聞き役。炊き出しの片づけが終わり、K姉宅にバザー用品を取りに行く。ひと休みして、たまっていた郵便物を整理。返信のハガキ3通記入投函。掲示する文書、読んだら捨てるもの、保存する文書など仕分けも一仕事。

 22日(金)朝一番にK兄に頼まれて一緒に病院に行く。帰宅後、この文章を書き始める。説教準備。昼食後は、東京バプテスト神学校の懇談会に茗荷谷教会へ。これも連合会長としての仕事。

 23日(土)週報作成、説教準備、合間をぬってルンバのお世話。午後、がん患者会の定例会が教会で。2時からH姉の転入会の準備と学び。その後、さらに週報印刷、説教準備と続く。

春の特別伝道礼拝のご案内

2015-05-20 07:30:36 | 教会行事
春の特別伝道礼拝のご案内

日時:2015年5月31日(日)11:00-12:15
場所:平塚バプテスト教会
講師:本多啓示牧師(函館キリスト教会)

駐車場有、託児有、自由献金有、

信者以外のどなたでも歓迎します。
特に用意するものはありません。
聖書、讃美歌は備え付けが用意されています。

来てみなさい

2015-05-19 17:21:13 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2015年5月17日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

 「来てみなさい」 ヨハネによる福音書1章35~42節
 
 洗礼者ヨハネが二人の弟子と一緒にいたとき、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と証言する。神の小羊とは、29節「世の罪を取り除く神の小羊」のことであり、34節「神の子」のことである。すると37節「二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った」とある。洗礼者ヨハネの証言が二人をイエスに従わせた。

 洗礼者ヨハネの弟子二人がイエスのもとに駆け付けると、イエスは振り向いて言われる。「何を求めているのか」。二人は戸惑ったのか、何を言っていいのかわからなかったのか、「ラビ、どこに泊まっておられるのですか」ととんちんかんな答え。するとイエスは「来てみなさい(口語訳)」と言われた。すると、弟子の二人はイエスのもとに留まって、イエスが神から遣わされたメシアであることを彼ら自身の目と耳と心で感じ受け取ったのだった。

 そして今度は、弟子のうちの一人、アンデレが兄弟であるシモンに「わたしたちはメシアに出会った」と証言し、シモンをイエスのもとに連れて行く。すると、驚いたことに初対面のイエスはシモンを見つめて、いきなり「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ『岩』と呼ぶことにする」と宣言される。連れてこられたシモンはびっくりしたことだろう。同じようなことは今でも起こっている。連れてこられて、はじめての礼拝で、牧師が「あなたは罪人です」とか「あなたは愛されています」とか説教するのを聞いて、びっくりするやら、反発するやら、戸惑うやら、ぽかんとするやら反応は様々だろうが、いずれにしても、向こうから、主の方から呼びかけがされる。そこへ連れてくる。これが伝道の方法の一つ。

 証言の連鎖はさらに続く。43節以下。イエスはフィリポに出会って、「わたしに従いなさい」と言われる。そう言われたフィリポが今度はナタナエルに出会って証言する。「私たちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ」と証言する。するとナタナエルは反論。「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と。そこで、フィリポは「来て、見なさい」と言った、と書かれている。不毛な論争はしない。来てみなさい。

 イエスの弟子になるということは、「わたしに従いなさい」という招きに応えて、自分の言葉でイエスを証しして、伝道することである。ナタナエルとイエスの対話にフィリポは出てこない。伝道され、イエスのもとに来る人に、イエスが直接出会われる。私たちはこのことを、もっと重要視してよいのではないだろうか。自分の言葉で証しし、イエスのもとへと誘った後は、主ご自身が出会ってくださるのである。弟子は証しし、伝道する。あとは主に委ねよう。

ペンテコステ(聖霊降臨日)

2015-05-19 10:39:00 | 牧師室だより

牧師室だより 2015年5月17日 ペンテコステ(聖霊降臨日)

 「教会暦でいうと今年のペンテコステは来週の5月24日です」と言っても「それって何?ヘンテコな日?」なんて言われそうです。「ペンテコステ」はギリシア語の「第50」の意味。何から数えて第50なのでしょうか?旧約聖書ではユダヤ教三大祭りの一つである過越しの祭りから数えて50日目。だから「五旬節」とも言います。この日は麦の収穫感謝礼拝を行いました。これに、モーセがシナイ山で十戒を中心にした律法を与えられた記念日という解釈が加えられ、ユダヤ教の誕生日としています。

 では、新約聖書ではどうなるのでしょうか?50日目は。それは、イエス・キリストの復活から数えて50日目となります。その日は何か特別なことがあったのでしょうか?使徒言行録2章によると、イエスのかつての弟子たちが「一つになって集まっている」とき、「突然」(人々の予想や計画を超えて)、聖霊が降り、その後、聖霊の働きによって弟子たちがイエスの復活の証人として立ちあがり、キリスト教会が誕生することになるきっかけになったのです。教会の創立記念日と言ってもいいでしょう。

 ところで、皆さんは、「霊」「聖霊」という言葉からどんな感じを受けますか。「幽霊」「交霊術」「心霊写真」など、オカルト的にとらえたり、興奮や陶酔感と結びつけたりということはないと思いますが、なんとなく分らない、実感がないという人はないでしょうか。

 もしあなたが御言葉を聞いて「イエスは主である」と信仰告白に至るならば、あなたはすでに聖霊をいただいています。愛、喜び、平和といった良い実を結ばせるのも聖霊です(ガラテヤ5:22-23)。

 ただ、聖霊の働きには、人には予測不可能な自由さがあります。風(聖霊)は思いのままに吹きます。そのことは、宣教の働きが神ご自身であり、私たちでないことを明らかに示しています。

 聖霊のシャワーが降る共同体が教会だとも言われます。聖霊来りませ!と心合わせて祈りましょう。

復活の主と共に

2015-05-14 12:03:13 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2015年4月5日 イースター礼拝宣教 杉野省治牧師

 「復活の主と共に」 ヨハネによる福音書5章1~9節
 
 38年間病気で苦しんでいる人がいた。「イエスは、その人が横たわっているのを見」(6節)とは、横たわっている姿だけでなく、ぐったりした有様を見た、という意味も含まれていると思う。だから、イエスが見たというのは、ただ眺めたというのではない。ある訳では「目をとめなさった」。ということは、立ち止まった、ということである。イエスが人を見るということは人の苦しみのそばに立ち止る、同じ場所に身を置く、ということ。

 「また、もう長い間病気であるのを知って」(6節)とある。「見た」という言葉に「知った」という言葉が付け加えられている。ギリシア語では、表面的に知るということよりも深く知る、理解する、と読み取ることもできる。病む人の内面まで深く知る。苦しみ、痛みまで理解するのである。
 
 私たちもまた人を見る。少し見ただけでだいたいのことは分かると思う。その表情から、ちょっとした仕草から、人の性格を見抜く、人の欠点や弱さを見抜く、そういう能力、鋭い観察眼はたいていの人が持っている。つまり、採点する能力である。あの人間はここが良くて、ここが悪い。あれはできるが、これはできないだろう。分析する。

 主イエスはそういうふうに人を知るのではない。人の弱さや病を見られるが、その弱さや病に共感されるのである。共感するというのは、それを自分の痛みとして引き受けるということである。主イエスは人の弱さや病を自分の痛みのように引き受けるのである。そして悩み、苦しみ、恥を負う(イザヤ53:3-4参照)。

 イエスは38年間病気で横たわっている人に問うた。「良くなりたいか」。奇妙な質問、良くなりたいに決まっている……。しかし、長く苦しみ悩んだ人は、「良くなりたい」とは言わない。病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです」。

 親切な人はいない。みんな自分のことしか考えていない。彼は胸の中にためていた不平不満、恨みつらみを吐き出す。38年間病気した中で、人間の正体が見えたと思っていた。その男に、主イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」。

 人が冷たいだの世の中がどうだの、みんなエゴイズムだの、状況に負けているのである。現実に負けている。起き上がりなさい、自分の足で歩きなさい、と主イエスは言われる。私がここにいるから、君のすべてを担う復活の私が、君のそばに来ているから、だから「起き上がりなさい」。起き上がることができるから。私と一緒に君は歩くことができる。君にはその力があるというのではなく、私が生きるから君も生きられるのだ、そう言われているのである。

 すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした(9節)。現実に負けて横たわっていた人、床に伏せっていた人が、床を担いで歩いたのである。現実に打ちのめされていた人が、現実の中を歩き始めたのである。頑張って、力を振り絞って歩け、というのではない。私がここにいるから、あなたを担う復活の私があなたと共にいるから、一緒に歩くから。 起き上がりなさい!

主の訓練を覚えよ

2015-05-14 11:29:11 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2015 年4月26日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

 「主の訓練を覚えよ」 申命記8章1~10節
 
 イスラエルは奴隷であったエジプトの地から脱出し、約束の地を目指して荒れ野を40年間旅した。それは主に従うための訓練の時だった。しかし約束の地に入り、豊かになるとイスラエルは主の恵みを忘れ去っていった。そこで申命記は、モーセの口を通して「荒れ野の旅という原点を忘れるな。荒れ野で主が教えてくださったことを忘れるな」と繰り返し語るのである(2節)。

 主はイスラエルの民が荒野の旅に出てすぐ、パンが食べたいと言って泣き言を言った時、彼らにマナという食べ物をお与えになった。マナは毎朝、露のように大地に降った。朝起きると一日分のマナだけ拾うことができる。しかし余分に拾っても次の日には腐ってしまったという(出エジプト16章)。それは、「人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるため」だった。蓄えがきくパンがあれば、神を信じなくても生きていける。しかし主は、パンでなくマナを与えることによって、明日の分までがむしゃらに蓄えようとする生き方を戒められたのである。このようなマナによる生活は、信仰生活そのものだと言える。民は、明日マナを用意していてくださる主の愛と恵みに信頼して床につく。そして朝起きては、そのマナ、すなわち主の励ましと戒めと愛のこめられた食事を味わって一日一日を生きたのである。それは主による訓練だった。

 ただしイスラエルの民に言わせれば、こんな大変な旅が訓練だなんてかなわない、主は我々を苦しめようとしているだけじゃないか、というところだったかもしれない。しかし、40年の旅の間、着物はすり切れず、足もはれなかったではないか、必要なものは満たされていたではないか、とモーセは民に語りかける。大変な旅だったに違いない、しかしその大変な中を、主が支えてくださったのではないか、とモーセは静かに問いかけている。この苦しい訓練の間、主は涼しい所から高みの見物をしておられたのではなく、マナを降らせ、服を保たせ、足取りを支えてくださったのである。主は昼は雲の柱、夜は火の柱をもって民を照らし先導し、民を離れることはなかった(出エジプト13:22)。このような主の愛を受けた旅路こそ、イスラエルが決して忘れてはならない原点なのである。

 この訓練は、苦しいものだったが、しかしそれは民を幸いに導こうとするものだった(16節)。私たちに対する主の愛は、何も試練に遭わせないことではない。それなら私たちは神のロボットだろう。しかし主は私たちを人格として尊び、私たちがぶつかる課題を取り去るのでなく、この課題に直面する私たちに寄り添い、勇気を与え、励まし、支えてくださるのである。こうして与えられた出来事に主と共に取り組んでいく時、その出来事を通してしか得られない恵みを受け取ることができる。苦しい日々を主に信頼して歩む時、その経験は他の何ものによっても得られない宝となるのである。

憲法改悪に反対

2015-05-11 15:44:22 | 牧師室だより

牧師室だより 2015年5月10日 憲法改悪に反対

 5月2日恵泉教会で「憲法フェスティバル2015」が行われた。私は体調不良で参加できなかったが、プログラムを見せてもらうとそこに「憲法改悪を許さない私たちの決意表明」が記載されていた。

 冒頭に「今、政府自民党は、日米防衛指針(ガイドライン)を改定し、集団的自衛権の行使容認、自衛隊派兵の恒久化法、文民統制の廃止、など戦争ができるための法整備を着実に進め憲法改悪への道をひたむきに突き進んでいます。私たちは、これら全ての改憲の動きに反対し、そのために祈り、行動することを決意します。」と力強く書かれていた。

 確かに今、安倍政権は第9条の「紛争を解決する手段として戦争をしない、そのために戦力は持たない」という規定を「自衛のために国防軍を持つ」という規定に変えようと、改憲の動きを活発にしている。

 今、日本は領土問題と歴史認識で、近隣諸国との関係が極めて悪化しており(それも安倍政権自ら招いたことだ)、安倍首相は、米国との同盟関係を頼みにしている。それが先日の「ガイドライン改定」と安倍首相とオバマ大統領との会談である。

 しかし、米国人の大半は、日本に米軍基地を置くのは米国の世界戦略のためであり、日本を守るためではないと考えている。米国政府は、日本も軍隊を持ち、必要な場合には米国と一緒に戦争をしてほしいと、改憲を促している。

 しかし広く世界を見渡すと、世界の流れは、軍事よりも経済協力という方向に向かっている。米国自体、対日貿易より対中貿易の方がはるかに大きく、中国との共存の方向に進んでいる。このような時期に、第9条を変えて軍隊を持つことは、世界の潮流に反することである。むしろ第9条は、世界の目標にするに足りる貴重な指針である。この70年、戦争侵略によって他国の人を殺さなかったことで、日本は世界で高い評価と信頼を得ている。これからも誇りをもって平和を希求していこう。

イエスの大いなるしるし

2015-05-08 11:10:26 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2015年5月3日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

 「イエスの大いなるしるし」 ヨハネによる福音書6章1~15節

 ヨハネ福音書のテーマは「永遠の命」と言われている。今を生きる私たちの中に、イエスにある永遠の命が宿っているということ。特に、死をもって終わる私たちの命の中に、永遠につながる命のあることをヨハネは述べる。ここで扱われる「パン」も、それが日用の糧であると共に、永遠の命を示す「命のパン」であることを表している。

 今朝の聖書箇所は、単なる奇跡物語として扱われがちだが、少し注意して読んでみると、より深い意味を見出すことができる。私たちの手の中にあるもの、それはどんなに小さく、わずかではあっても、イエスの前に差し出されイエスによって祝福され、主のご用のために用いられる時、一つのものが十倍にも百倍にもなることを、この話は語っている。それは一粒のからし種が、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶことにも、たとえられているとおりである。逆に一つのものを出し惜しむことによって、私たちは神に対して多くのものを失うのである。

 アンデレが大麦のパン5つと魚2匹とを持っている少年を連れてくる。アンデレは単純に、群衆のためにイエスが食べ物を探していると思ったのだろう。しかしこの行為は、大勢の人の空腹を満たすのに何の役にも立たないことは明らかである。しかし、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱え、人々にパンを分け与えられた。この姿は主の晩餐と重なる

 たとえ僅かなものでも、喜んで主の前に差し出しているかどうかが、私たちに問われている。神は人間の信仰を捜しておられる。そして、その信仰がどれほど小さく貧しいものであっても、それを足場として大きな御業を成し遂げられるのである。分け与えられたパンは十字架で裂かれたイエスの身体を思わせる。イエスは、アンデレがパンと魚を持ってくるという、ささやかな行為さえも用いて、群衆を満腹させつつ、そのことを通して、人々のために裂かれた本当の命のパンを指し示したのである。「わたしが命のパンである」(6:35)。

 考えてみると、私たちが一緒に分け合って食べている限りは、きわめてわずかなものであっても満ち足りたと思う。分かち合う喜びも感じる。ところが誰かが独り占めにしたり、自分のためだけに取っておこうとすると、そこから飢えや争いが始まる。単なる空腹だけではなく、精神的な飢餓も生じてくる。五千人を五つのパンと二匹の魚で養ったという奇跡物語にはそんな意味もあるように思われる。

行動パターン

2015-05-05 12:08:49 | 牧師室だより

牧師室だより 2015年㋄㏢ 行動パターン

 私たちの日常生活は、多くの場合、一定の行動パターンで成り立っている。たとえば、朝は6時に起きる。起きたらトイレ、洗面を済ませる。窓を開ける。朝刊を取りに行く。そして、お湯を沸かしてお茶を飲む、などと朝の行動パターンは人それぞれに決まっている。

 一日の生活スケジュールだけではない。行動パターンには次のようなものまで考えられる。例えば入浴。まず石鹸やシャンプーでよく身体を洗ってから湯船に入るか、とりあえず湯船に浸かって、それから身体を洗うか、人それぞれだ。それぞれがその人にとって心地よい。

 順番でいえば、皆さんは身体のどこから洗いますか?私は頭から洗う。昔、ある落語家が「汚れを落とす場合、上から下が合理的だ、だから頭からが洗う」と言ったのを聞いて、私もそれ以来そうしている。

 さらに細かいことを聞きますが、皆さんは右足から洗いますか、左足からですか?無意識にしている行動であるかもしれないが、決まっている。もちろん特に決まっていない、その時の気分という、行動パターンの人もいるから面白い。

 行動パターンには、その人の性格、考え方、生き方、趣味・嗜好などがよく表れると言われる。新聞はどこから読みますか?食事の時、おいしいものから食べますか、それとも後で食べますか?たまには自分の行動を見直すのも面白いかもしれない。

 休日の過ごし方も人ぞれぞれで面白い。北九州にいた頃の私の場合、半日ゆっくり過ごせるとしたら、ほぼ行動パターンは決まっていた。まず本屋へ行く。本を1、2冊買って、喫茶店へ。そこで心置きなく読みふける。頭や目が疲れてきたところで、スーパー銭湯へ。そこでゆっくり湯船に浸かって、「極楽、極楽」とつぶやく(牧師なのに「極楽」とはちょっと変かな?)。私はこれを勝手に「極楽への三角ルート」と呼んでいた。

 日曜日の行動パターンはもちろん礼拝から始まる。これこそまさに「天国へのルート」。