平塚にあるキリスト教会 平塚バプテスト教会 

神奈川県平塚市にあるプロテスタントのキリスト教会です。牧師によるキリスト教や湘南地域情報、世相のつれづれ日記です。

宇宙人からのメッセージ ① 

2017-08-31 16:07:10 | 牧師室だより

牧師室だより 2017年8月27日 宇宙人からのメッセージ ① 

 「今ドキの青年伝道にまつわる話」と題して、西堀俊和牧師(日本基督教団信濃町教会)の悪戦苦闘した体験談をかつて読み、忘れられない。その話とは、あるキリスト教主義の短期大学で聖書科の講師をしたときの経験である。

 授業の様子が次のように語られている。「静かにしなさい!」毎回45分の授業で何度も怒鳴る。一瞬は静まるものの、それが一分と持たない。また騒ぎだす。また怒鳴る。うるさい!うるさい!うるさい!その繰り返し。あの空しさ、惨めさ、敗北感は何にたとえたらいいだろうか。どうにもならない、こちらの負け。授業を途中で止めて教室を出たこともしばしばだった。心身共に極限まで疲れ切った。

 元教師の私にもこれほどひどくはないが似た経験を幾度かしたことがあるのでよくわかる。さて、その西堀先生をさらに落胆させることがあった。それは周囲の講師や教会関係者の言葉である。「俺たちはつけっぱなしのテレビと同じなんだから」「今ドキの子なんて聖書の話なんか聞くわけない。教会なんて来るわけないよ」。そして、とどめを刺されたある先輩牧師の言葉。「今の子に聖書の話なんかしたって、どうせ『宇宙人』だと思われて、相手にされないよ。カミサマ、カミサマと肩肘張らないで、誰でも判るようなイイ話をしなさい」というものである。この先輩牧師は励ます意味で助言をしたのだろうけれども、これで、西堀先生、ムカつく。

 学生は地球人、われわれ牧師は異次元からやって来た宇宙人であって、お互い違う世界に住んでいるんだから言葉なんて所詮通じないということか。福音は伝わらないとハナから決めてかかるとするならば、私があの学校に遣わされた理由は何か。私は何のためにあの教室に行くのか。私は、そして、あなたは何者か。

 このように考えさせられた西堀先生、ついに態度を決めた。私は宇宙人。上等である。私が別世界に住む宇宙人ならば、それをハッキリさせた上で、宇宙人のメッセージを教室という地球に向かって発し続けたらいい。作戦変更した西堀先生の奮闘記の続きは次週のお楽しみ。

 私も思い出す。ある年の生徒、ひたすら下を向いて、なにを言っても無反応。私には生徒が宇宙人に見えた。

チャリティーコンサートの予告

2017-08-24 14:18:53 | 教会行事

<予 告> 昨年に続き、今年も開催します。
 昨年は100名を超える方々のご協力を得ることができ、感謝でした。

 東日本大震災・熊本地震復興支援
 チャリティー・コンサートの開催のご案内
  日時:10月21日(土)14:00開演 
  場所:平塚バプテスト教会 礼拝堂
  前売券・当日券:500円 (売上はすべて支援献金とします)
  テノール歌手の独唱、朗読、賛美フラといった楽しいプログラムです。
    近づきましたら、チラシをもってご案内いたします。

 問合せ:平塚バプテスト教会 電話:0463-33-2320
     メール:hiratsukabap@pro.odn.ne.jp

ピアノ・リサイタルのご案内

2017-08-24 14:01:10 | しののめコンサート

 実は、このコンサートは教会のご近所で懇意にしている伊勢田さんが、若手音楽家は人様の前で演奏する機会が少ないので、ぜひ教会の礼拝堂でコンサートをさせてくれないかという申し出があり、今回の開催となりました。

 このコンサートはチラシにも書いてあるように、ゲネプロ(通しリハーサル)形式だそうです。素人の私にはよく分かりませんが、とにかく聴衆の前で、本番通りのリハーサルをするという、いわば練習をかねた演奏会です。
 
 聴衆を前に緊張感を持って演奏する機会がとにかく少ないそうです。場数を踏む機会を提供するということでしょう。その趣旨に賛同し、教会で行うことになりました。そのような経過から、私としても、一人でも多くの方に生の演奏を楽しんでいただくとともに、若手演奏家にエールを送っていただければと願っています。

 ぜひ、お誘いあわせの上、お出かけくださるようご案内申し上げます。
 
 なお、この「黎明(しののめ)コンサート」と名付けたコンサートは、今後、夏場を除いて、定期的に毎月第一土曜日に開催する予定です。次回は10月7日(土)です。    
                                                    平塚バプテスト教会 牧師 杉野省治 


 問い合わせ:アンシェル 電話:050-3786-0713(平日9-17時 担当:伊勢田)




見えないものにふれる 

2017-08-21 11:24:43 | 牧師室だより

牧師室だより 2017年8月20日 見えないものにふれる 

 物質的に豊かになり、物があふれ、成熟した社会になったと言われる日本。しかし、私たちの精神性は豊かさを失っていないか。そんな時代に、批評家の若松英輔氏は「そもそも宗教とは何か」という本質的な問いかけをし、さらに宗教はどんな意味を持ち得るのだろうか、と考察した論考が朝日新聞2017年8月8日に記載されていた。抜粋して紹介する。

 「人は昼間、無神論者でいられる。しかし夜、ひとりになったとき、その人は信仰者になる」と語った人がいると紹介しながら、若松氏は、神は存在しないと昼間は言うことはできても、夜、例えば大切な人を思い、その平穏を何ものかに祈る とがある、と言う。(筆者:確かに、人間はだれでも本能的に祈ることを知っているし、神あるいは超越したものを求める存在なのである)

 さらに次のように言う。「なぜ宗教を問い直すのか」という問いの背景には、私たちが知性と理性の網からこぼれ落ちる宗教との関係を見失ったという現実があるという。人間を超えたものとの関係を見失ったというのである。(筆者:これは聖書が一貫して指摘する神との関係性の喪失。人間の原罪の問題である)。だから、人間を超えたものや他者との有機的なつながりのなかに自らの生きる意味を見出していくこと、それは……人間がおのずから希求する根本感情、だという。(筆者:聖書の教え、「神を愛し、隣人を愛する」ことにつながる)。

 若松氏は最後に、いま、私たちに必要なのは討論の時間ではなく静寂の時なのかもしれません。見えないものにふれる時空を生み出し、語り得ない存在をめぐって自己との対話を深める。そのとき人は祈りと呼ばれるものの源泉にふれるように思います、と語る。(筆者:祈りは自己との対話。それも神を前にしての自己との対話である)。

 さらに次のように語る。祈るとは人間を超えたものに何かを頼むことではありません。彼方(かなた)からの声を聞くことです。沈黙の中に無音の声を感じとることだともいえるように思います。(筆者:祈りは神との対話、神の声なき声に耳傾けること。静聴の時を大切に)。

祈りの包囲網

2017-08-16 17:30:57 | 説教要旨

<先週の説教要旨> 2017年8月13日 主日礼拝 杉野省治牧師
「祈りの包囲網」 フィリピの信徒への手紙1章3-11節

 何かが生まれ成立していくには、そこに至るまでの長い経緯があるもの。使徒言行録16章6-40節には、フィリピの教会が生まれ成立していく不思議なプロセスが書かれている。それはパウロが一つの幻を見たことから始まる。海を隔て遠い地にいる一人のマケドニア人が「わたしたちを助けてください」と懇願する幻であった。
 
 当時、学問的文化的な先進地であったヨーロッパにも、十字架において示された神の愛の福音によってでしか、救われることができず、魂の底から救いを切に求め、救いのSOSを発する人たちがいたのだ。そこでパウロたちはマケドニアに渡り、フィリピに行って宣教した。そこに信徒たちの群れが生まれた。そのフィリピの人たちにあてた手紙の冒頭が今朝の聖書箇所である。
 
 その1章3-11節はパウロの感謝と祈りである。3節に「感謝する」とある。それは信徒たちが「福音にあずかっている」(5節)からである。世には多くの感謝すべきことがあるが、パウロにとって人々が福音にあずかることほど、大きな感謝はなかった。継続は力なり、と言われるが、なんでも一つのことを続けることは大変なこと。続けるには大きなエネルギーが必要である。
 
 「福音にあずかっている」ということも、決して容易なことではない。「福音にあずかる」とは十字架によって罪ゆるされ、滅びから救われることである。それは「恵みにあずかる」(7節)ことに他ならない。あるいは「苦しみにあずかる」とも言われる(3:10,4:14)。
 
 この「あずかる」と訳されている「コイノーニア」は普通「交わり」といわれる言葉。「交わり」はキリスト教の中心、生命だが、人と人との横の交わりよりも、神と人との縦の交わりが強調され、福音や恵み、さらに「霊の交わり」(2:1直訳)があるかどうかがキーポイントなのである。
 
 私たちが福音にあずかるということは、決して自明のことではなく、一つの奇跡でさえある。私たちはいつ信仰を失っても不思議ではないほどに弱く、この世には多くの誘惑があり、問題で満ちている。このような現実の中で、福音にあずかるということは、人間の力やわざではまったく不可能。ただ祈りによって、むしろ、祈りを通して生きて働かれる神の恵みと「善い業」(6節)、まさに十字架のエネルギーによってのみ可能となる。だからパウロは「わたしの神に感謝する」と言い、感謝が泉のようにわき上がるのである。
 
 同時にパウロは「あなたがたのことを思い起こす」と言っている。「思い起こす」とは単なる想起ではなく、相手の名を呼んで、執り成し祈ること。だから4節では「あなたがた一同のために祈る」と言っている。教会のために、ひとのために祈るのである。教会やキリスト者の背後には、祈る人がいるのである。

 三浦綾子さんは「人々に祈っていただきたいという、人の信仰を当てにしているのが、私の信仰である」と書いておられる。私のために祈ってくれる人がいて、そのような執り成しの祈りによって、私の信仰が支えられていると言うのである。しかもそれだけではなく聖書には、霊による執り成しがあり、イエスによる執り成しがあるのだと書かれている(ローマ8:26-27,34)。
 
 私たちは多くの力強い執り成しの祈りによって包囲されているというのである。四方八方から、祈りによって包み囲まれているのだ。実際、多くの問題や危機に包囲されているが、何よりも力強い祈りの包囲網の中に存在し、それによって守られているのである。このような祈りの包囲網、愛の包囲網(8節)を発見するとき、私たちに生きる勇気が生まれる。

平和をつくり出す人々

2017-08-14 15:23:31 | 説教要旨

<先週の説教要旨> 2017年8月6日 平和祈念礼拝 杉野省治牧師
「平和をつくり出す人々」 マタイ福音書5章3-12節

 先週は、最初の人間アダムとエバが神から食べてはいけないと言われた木の実を食べ、神との約束を破ったとき、神はアダムに「あなたはどこにいるのか」(創世記三・九)と問いかけられたということを話した。主なる神と人との出会いは、この神の問いから始まったのだ。それは、神に背き、身を隠す人間への呼びかけであった。

 その呼びかけは、神は罪を犯した、あるがままの姿で立つ人間と向き合い、人間の説明や弁解を無用とし、責任ある応答を求められる方であることを私たちに教える。さらに神は人の罪を受け止めながら、責任ある応答する人を愛され、祝福へと導かれる方でもあることを学んだ。
主イエスも「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」と、私たちを祝福の道のパートナーとして招いておられる。招きの言葉でもある。

 10年以上前に次のような記事を「キリスト新聞」で読んだ。それは韓国釜山の四人の牧師たちが来日し、同胞たちの苦難の現場をたどった、という小さな記事。その現場とは、94年前の関東大震災で、日本の軍隊・警察・住民らによって、朝鮮人6千人以上が理由もなく虐殺された現場である。そこで一人の牧師が「関東大震災後、日本の教会ではどんな説教がなされたか。また震災によって教会はどう変わったか」と質問されて、その場に居合わせた者は明快に即答できず、日本のキリスト者として不明を恥じたとあった。
 
 この記事を読んで以来、私は、これは他人事ではない。今も問われていると思わされている。戦争や、紛争ばかりではない。阪神淡路大震災、東日本大震災、福島第一原発事故、熊本地震などなどにおいても、私たちは「あなたはどこにいるのか」と問われ続けている。

 日本の政府は、いつでも戦争が出来る状態をつくり出そうと躍起になっている。その中にあっての主の招きである。招きに応えようとすれば、批判や困難や誘惑が迫ってくることだろう。やがて、招きに応えて従うのが辛くなってくると、耳障りのよい御言葉だけを拾って読もうとする。「従う」という恵みを「律法主義だ」「~ねばならない信仰だ」と、批判的な解釈をする人も出てくるだろう。しかし「従う」というのは、決して楽なことや喜びの中で実現するのではない。痛みを伴うことも苦しみを伴うことも、犠牲を強いられるときさえある。しかし、その苦しみのところに、主ご自身が一緒にいて下さる。私たちの苦しみや悲しみを誰よりも分かって下さる十字架の主イエスが片時も離れずおられるのである。イザヤ書41章10節にあるように「恐れてはならない。私はあなたと共にいる。驚いてはならない。私はあなたの神である。私はあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもって、あなたを支える」と、励まして下さるのである。

 「従う」というのは盲信、盲従ではない。よく分からないけど、神が言うから従うではない。また、従っていれば楽だとか得をするからという損得勘定でもない。先週の夜の祈祷会で創世記6章のノアの箱舟のところを学んだ。「ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ。」(6:9)とあり、「ノアは、すべて神が命じられたとおりに果たした」(6:22)とある。ノアは神が言われるから、何も分からないままに行ったのではない。ノアは神がどういう方であるかよく分かっていた。だから神に信頼をおき、神を礼拝し、神と共に歩んでいたのである。

 神の平和(シャローム)を祈り求め、行動する群れでありたいと思う。「あなたはどこにいるのか」との、主の呼びかけに誠実に応えるところから、平和をつくり出す祈りや行動が生まれる。その時、主イエスは、私たちを祝福しながら共に歩んで下るのである。「平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう」。もう一度、この主イエスの御言葉に耳傾けよう。

たかがカタログ雑誌、されど… 

2017-08-14 15:05:07 | 牧師室だより

牧師室だより 2017年8月13日 たかがカタログ雑誌、されど… 

 先週、カタログ「通販生活」で評判の枕を手に入れたことを書いたが、この「通販生活」、ただのカタログ雑誌と訳が違う。最新号の表紙をめくると「いまの『憲法改正国民投票法』はおカネのある改憲派に有利」と大きく見出し。9頁にわたってその特集が続く。「エッ、この雑誌、何なの?通信販売の雑誌じゃないの?」と思わず疑ってしまうほどである。表紙の最上段には「巨大地震はいつ来るかわからない、原発ゼロ今すぐ」のアピール。以前から原発廃止や平和憲法なども特集している。

 片手間ではないのだ。本気で取り組んでいるのが雑誌を読んでいると分かる。「何でこんなの、通販の雑誌に載せるの?」という素朴な疑問も出てくるが、それが会社の理念である。売らんがための雑誌ではないことがよく分かる。だから信用できる。

 そのような意味で、大変ユニークな雑誌といえば「暮らしの手帳」だろう。私は、兄の大学の先輩が「暮らしの手帖」社に入社した縁で、兄に勧められてしばらく購読していた。およそ50年前の話である。一貫した編集理念は、徹底した自前での商品テスト。そのために雑誌に広告を一切載せない。商品テストの実例として、こんな話を兄から聞いた。先輩に連れられて「暮らしの手帖」社に行った時、階段にカーペットが敷いてあったが、それも商品テストのためだと説明されたという。

 「暮らしの手帖」は来年、創刊70周年だが、一貫して訴えてきたのは「戦争反対」。これも出版理念だという。およそ半世紀前、戦時下の庶民がどう暮らし、何を食べ、何に苦しんだか、全国から寄せられた投書を編集した「戦争中の暮らしの記録」が特集として出され、90万部も売れ、当時話題になった。この特集号、よく覚えている。今度、同社は新たな「戦中・戦後の暮らしの記録」を出そうとしている、という記事が朝日新聞に載っていた。「今、時代の空気がとてもきな臭い。当時の生活のエピソードを積み重ねることで、戦争がどんなものかを伝えたい」とあった。

 ともに共通するのは、生活者の視点から世の中を見、生活者の立場で主張していることだろう。権力、お金におもねない。


心地よい眠りのために

2017-08-08 11:13:04 | 牧師室だより

牧師室だより 2017年8月6日 心地よい眠りのために

 様々な理由によって、よく眠れない悩みを持つ人は意外と多い。私はおかげさまで、睡眠について特に悩んだことはない。強いて言えば、8時間寝ないとダメなタイプで、6時間で平気だよという人がうらやましいことぐらいだ。特に50代に入ってから、早寝早起きに生活スタイルを変えたのは良かった。それとカタログ「通販生活」で評判の枕を手に入れて、それまで時々あった首、肩のコリや痛みがなくなった。

 先日、あるところで、「心地よい眠りのために」というパンフレットをいただいた。それを読みながら自分の「眠り」について総点検してみた。皆さんもどうぞ。

 ①決まった時刻に起きましょう。寝だめはできません。

 ②朝日と朝食で体内時間をリセット。朝日を浴びましょう。体内時計の1日は約25時間。それを毎朝24時間にリセットしています。その手掛かりで最も有効なのが朝の太陽の光。朝日をたっぷり浴びましょう。同じ時刻に朝食をとりましょう。規則正しい食生活は健康管理の基本。同じ時刻に食べることも体内時計のリセットに役立ちます。毎朝決まった時刻に朝食をとると、生活にリズムが生まれてきます。

 ③メリハリある生活を。日中は仕事をしたり、趣味を楽しんだり。夕方から宵の口に軽い運動を。

 ④短い昼寝をしましょう。午後3時までに20分程度の昼寝を。夕方以降は仮眠をしないように。

 ⑤夜はゆったりくつろいで。カフェイン、寝酒を控えましょう。ぬるめで、ゆっくり入浴。少しぬるめの湯にゆっくりとつかり、入浴後一息ついたころで寝床に入りましょう。風呂で上昇した体温が下がっていくタイミングで就眠すると、寝つきがスムーズ。

 ⑥眠くなってから寝床に就きましょう。睡眠時間は人それぞれ。眠ろうと意気込み過ぎないこと。

 ⑦睡眠環境を整えましょう。光、音、香りでリラックス。枕を合わせましょう。枕選びの基本はあおむけに寝たときの姿勢。起立時に比べて頸椎のカーブがやや浅く、少し顎を引いた状態になる高さの枕が最適です。

 以上ですが、生活のリズムを整えることは充実した生活を送る第一歩。その前提が心地よい眠り。お役に立てば幸いです。

問われるほどに愛されて

2017-08-01 13:03:20 | 説教要旨

<先週の説教要旨> 2017年7月30日 主日礼拝 杉野省治牧師
「問われるほどに愛されて」フィリピの信徒への手紙1章4~11節
       
 この世の中で、人々から無視されたり、関心を持たれないことほど、つらく悲しいことはない。だれかに怒られてがっかりして落ち込んでいる人に「怒られているうちがハナだ」と言って、慰め励ますことがある。家庭において、親子や夫婦の間でも、今日はどんなことがあったのと問い合い、互いに関心を持ち合うことによって、自分は愛されているのだという喜びを持つことができる。ある哲学者の言葉。「愛とはたえざる問いのことだ。人生で、誰も、何も聞いてくれない苦痛」。

 フィリピの信徒たちはパウロから、手紙を受け取った。だれにとっても手紙をもらうということは、嬉しいもの。手紙というのは、私はあなたを覚えている、あなたに深い関心を持っているということの証明でもある。しかもパウロはこの手紙の中で、フィリピの教会の一同に対して、いかに心にかけているかということを繰り返し強調している。7節では「あなたがた一同のことを、共に恵みにあずかる者と思って、心に留めている」と述べている。  
 このような愛の心から、祈りが生まれる。まず9節以下で「あなたがたの愛がますます豊かになり……」とある。ここでの愛は、彼らの人間的な愛ではなく、神からの恵みとしていただいている愛である。神の愛(ギリシア語で「アガペー」)は、人間が生まれながらに持っているものでも、努力すれば身についてくるものでもない。ただ上から垂直的に、神からの恵みとして与えられるもの。私たちが通常、愛と言っているものは(ギリシア語で「エロース」「フィリオ」)、美しいものや価値あるもの、大きく強いものに心が引き付けられていくことである。これに対して神の愛は、価値なきものを愛し、無なるものの中に価値を生み出す創造の愛なのである。

 イギリスの小説家、『ナルニア国物語』で有名なC・S・ルイスの『四つの愛』の中に、次のような意味のことが書かれている。「愛というものにはいろいろの愛がある。愛情、友情、恋愛など人間の愛は美しいものであるが、バラの花のようにトゲがある。愛の美しさの中に落とし穴があり、滅びに至る危険がある。エゴイスティックな醜いものがある。だからそのような愛が、聖なる愛、神のアガペーの愛によって支えられ、清められ、変えられていく時に、輝く愛になるのだ」と。

 マザー・テレサがある町で、生きているかもわからないような、誰からも知られていない一人のお年寄りを訪ねた時、部屋はひどい状態で、ほこりまみれになっているランプがあった。「なぜランプをつけないのか」と尋ねると、「だれのために。誰も来やしません」と言った。それで「シスターたちがあなたに会いに来たら、ランプをつけてくださいますか」と聞くと、「いいとも」と答えたのである。やがてテレサに伝言があった。「あなたが私の生活にともしてくれた光は今も燃えている」と。

 私たちの人生も、誰からも顧みられないほどに小さく、やがて忘れられていくものに過ぎない。ぱっと消えていく泡沫のよう。しかし10節で「キリストの日に備えて……」と語られている。人生にも総決算の時があって、最後の日、究極の日に、私たちの愛が神から問われるというのである。

 最初の人・アダムとエバに対して、主なる神は「あなたはどこにいるのか」と問いかけられた(創世記3:9)。神は絶えず問いかけられるのである。私たちはいかに生きたのか、どのような人生であったのか、神は大問題にされるというのである。人間はたえざる神の問いの前に、立たされている。

 しかしこのような問いの背後には、人間に対する神の燃えるような愛がある。問われるほどに、愛されているのである。神は私たち一人ひとりに、深い関心をもっておられるのである。なにがあったの、どうしたの?

 長い歴史や大きな社会から見れば、私たちは無に等しい存在。実際、人から無視されることもある。しかし神だけは心にかけてくださる。そして愛においてどれだけ豊かであるか、と問われるのである。たとえ小さな生涯であっても、心のランプに神の愛の大きな光をともし、ますます輝かせるように求めておられるのである。

愛を退けないで

2017-08-01 10:45:55 | 説教要旨

<先週の説教要旨> 2017年7月23日 主日礼拝 杉野省治牧師
「愛を退けないで」マルコによる福音書10章17~22節
       
 人はどんなに素晴らしい人に出会い、またどんなに愛のまなざしを向けられても、その期待に応えるとは限らない。悲しいことだが、人間の心にはそういう現実がある。人は愛されることを選ぶことも、それを拒むこともできる。イエスに出会った人たちにも、信じてついていった人たち、去っていった人たちがいた。

 今朝の聖書箇所に登場する「富める青年」と呼ばれる彼は今でいえば、高級エリート官僚といったところか。彼は当時、誰もが持っている宗教的関心事であった「永遠のいのち」を得るためには「何をしたらよいでしょうか」とイエスに問うてきた。今の我々でいうならば、「死んだらどうなるのか」という素朴で、かつ深刻な問いに当たるだろうか。彼のその求道の姿勢は「走り寄って、御前にひざまずいて」とあるから、とても熱心かつ敬虔なものだった。

 これに対して、イエスはモーセの「十戒」の「偽証をたててはならない。……父と母を敬え」など、対人間に関する戒めを六つ挙げられたが、彼はいとも簡単に「私はそのようなことをみな、小さい時から守っております」と答える。これは人から後ろ指を差されるような生活はしていない、ということである。確かに外面的には宗教的、また道徳的な人物であっただろう。また本人自身、強い自負心があることが伺える。そのような人物がどうして、真剣にイエスに問いかけたのか。何か本人しかわからない悩みや深刻な心配事があったのだろうか。たくさんの財産のゆくえが心配だったのだろうか。死んでも、その莫大な財産を持ってけるのか。そして天国で、今と同じように裕福に幸せに生きられるのだろうかと心配したのだろうか。何も書いてないので分からない。

 しかし、イエスは彼の抱えている問題の本質を見抜いておられた。「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすればあなたは天に宝を積むことになります」と核心に迫られた。この言葉の真意は、永遠のいのち(救い)を受けるためには無一物にならなくてはならないという単純な意味ではなく、自分の価値観やものの考え方を変えないで、得るものだけは得たいという態度ではいけないということである。

 イエスのもとを顔を曇らせ、悲しみながら去って行く青年に対して、イエスは愛をもって接しておられた。「その人を慈しんで言われた」というのは、「愛情を込めて言われた」と言い換えてもよい。ここに人間の悲しさがある。また神の悲しみもある。どんなに愛を注がれても、その愛を退けて自分の道を選択していく人間の悲しさが、この物語には漂っている。

 イエスは青年に愛をもって語られた。しかし、彼はその愛を受け取る選択をしなかった。青年の悲劇は、愛を受け取ることができたのに富から離れることができなかったということである。それにしても不思議なチャレンジを感じる物語である。読めば読むほど、イエスの愛を信じて受け取るように、という呼びかけが悲しい調べの中に聞こえてくる。