(先週の説教要旨) 2011年10月23日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師
「自分探しの旅に終止符」 出エジプト記3章1-12節
モーセがしゅうとエトロの羊の群れを飼っていた時、その群れを荒れ野の奥へ追って行き、神の山ホレブに来た。ここで、モーセは不思議な現象を目撃する。柴が燃えているのに、柴は燃え尽きない。モーセはそこで「道をそれて」(3節)、その不思議な光景を見に行く。実は、神さまがモーセを呼び出すために、この不思議な光景を見せたのである。
モーセは、ヘブライ人でありながらエジプト人として育てられた自分の生い立ちに苦悩していた。そして逃亡した異郷の地ミディアンにあっては寄留者であったモーセは、自分が何者かわからない破れと虚無感を抱えながら自分の世界に閉じこもっていた。神は自分の世界に閉じこもっているモーセをその「道」からそれさせた(3、4節)。「モーセよ、モーセよ」と彼に語りかける神の声によって、彼は本当の自分自身を発見することになるのである。
さらに外からの聖なる神の迫まりは続く。7節以下で神は、モーセに御自分を現わされた。その現わされかたは、民の苦しみを見、叫びを聞き、痛みを知って(7節)、そして降って行き、救い出し、導き上げられる(8節)、という神の姿であり、神が苦しみ、叫ぶ人間のところに出てこられるということだった。つまり、モーセに柴の炎の中から現れた神は、民の痛みを御自分の中に包み込まれる神であり、神と人間の間の深淵を自ら降られることによって埋められて、民のただ中に住まわれ、苦難の中にいる民を救い、自ら民を導かれる神であることを自ら示されたのである。神は、高い所から苦しむ民を見下ろして眺めているお方ではないのである。
神は、このようにしてモーセに自らを現わして、モーセを呼び出し、用いられようとされた。しかし、かつてエジプトで同胞一人も救うこともできなかったモーセは、どうして民全体を救うことができるだろうか、「わたしは何者でしょう」と神に問うた。そこには、モーセのかつての挫折体験によって自分の存在意義を見出せなくなった悲痛な叫びが響いている。
モーセは何とかして辞退しようとするが、神は「わたしは必ずあなたと共にいる」ことを約束して、モーセを手放そうとはされない。神はモーセの弱さも無念さもすべてご存知である。しかも、今度は孤立無援の中で一人戦うのではない。神がモーセと共にいて、モーセを通してイスラエルの民を救出されるのである。
このような聖なる神の迫まりによって、モーセは「イスラエルの人々をエジプトから連れ出す」(10節)という新たな使命を示された。モーセは、外からの聖なる神の迫まりによって、自分探しの旅に終止符を打つことができ、神のしもべとしてのアイデンティティと自分自身の人生の課題を自覚させられていったのである。
このようにモーセの神からの召命を見ていくと、それは愛の呼びかけであり、自縛からの解放でもあったことがわかる。矛盾だらけの、不合理で不条理と思われることばかりの社会でがんじがらめに縛られ、身動きとれなくなっていることからの解放である。信仰の歩みとは、自分探しの旅に終止符を打つことではないか。なぜなら新しくされた本当の自分自身の姿、本来の生き方が神との出会いの中で、御言葉との出会いの中で示されていくからである。そして新しくされた歩みには必ず「あなたと共にいる」と約束された神が共に歩んでくださるのである。同行二人。神との旅の始まり。