(先週の説教要旨) 2013年9月29日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師
「金持ちとラザロ」 ルカによる福音書16章19-31節
このたとえ話に登場する一人の金持ちは、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。毎日宴会を催し、大騒ぎをしていたことだろう。一方、金持ちの門前に、ラザロという貧しい人がいた。彼は全身できもので覆われ、その病のために横たわっていた。
このような貧しい病の者が近くにいるにもかかわらず、金持ちは関心さえ持たない。死後、金持ちがラザロの名を知っていたことは(24節)、生存中、自分の家の門前に横たわっていた貧しい人を知ってはいたが知らぬ顔でいたことを表わしていりだろう。金持ちには、まったく憐れみ、愛がない。ただ、隣人とのつながりを喪失した自己中心の思いがあるだけだった。
時がたち、二人は死ぬ。ここで二人の立場、境遇の「逆転」が生じる。貧しいラザロは「アブラハムのふところ」に行く。それは「アブラハムの食卓につく、喜びの祝宴の席につく」ということ。一方、金持ちは「黄泉」に行く。そこは火が燃え盛る、苦しみの場所。この二つの場所には、越えることができない大きな深淵がある。
このたとえは単純に「金持ちは黄泉へ、貧乏人は天国へ」という逆転の話ではない。このたとえは財産、富そのものではなく、人の生きる姿勢を問題にしている。
この二人の死後の状況は逆転した。しかし、「裸にされた」とも言えるのではないか。死後の世界には何も持っていけない。金持ちは紫の衣、富、名誉を脱がされ、ラザロは全身のできものを脱がされた。この裸の状態がまさに「黄泉」と「アブラハムのふところ」なのである。
この金持ちは守銭奴のように利益を追求したり、人の金を盗んだわけではない。その金持ちがなぜ黄泉に落ちたのか。それは自分に与えられた財産を、自分のものと思っていたからである。彼は紫の衣や柔らかい麻布を着て、ぜいたくに遊び暮らしていた。神から預けられたものは、神のために返していくべきである。自分を楽しませるためだけに用いることは不正である。黄泉に落ちていくのは、盗人や人を苦しめた人だけではない。自分の金を自分のものだと思い、神にささげようとしない者が黄泉に落ちていく。私たちは今日もなおそのことを知らないで生きている多くの人を見る。
黄泉において、金持ちは自分のことは断念し、家族の救いを求める。死者が復活するという驚くようなしるし(奇跡)を見れば、家族は心から悔い改めるだろうと金持ちは言う。しかし、アブラハムは驚くようなしるしを望む金持ちの望みを退け、ただモーセと預言者、すなわち聖書のみ言葉に聞けと言う。
神は確かに驚くようなしるしを表わし、それが信仰のきっかけになることもある。しかし、真実の悔い改めと信仰は、ただ神のみ言葉を聞くことから生まれる。金持ちが「ラザロを生き返らせて、私と同じように全然気がつかないで、栄耀栄華に暮らして、この苦しい黄泉に落ちてこなければならない人に、そのことを知らせてやってください。彼らも気がついてくれると思う」と言ったが、アブラハムは「たといラザロがよみがえって警告しても、彼らは悔い改めないであろう」と言ったのである。事実その通りで、たとい今私たちがその人たちに、あなたは今黄泉への道を歩んでいると言っても、その人たちは耳を傾けないだろう。その人が聖書に導かれ、神の御心を知った時、初めて悔い改めが生まれてくるのである。