平塚にあるキリスト教会 平塚バプテスト教会 

神奈川県平塚市にあるプロテスタントのキリスト教会です。牧師によるキリスト教や湘南地域情報、世相のつれづれ日記です。

神はすべてのものを良しとされた

2019-02-19 18:26:18 | 説教要旨

<先週の説教要旨>2019年2月17日 主日礼拝 杉野省治牧師
「神はすべてのものを良しとされた」  マルコによる福音書10章13-16節

 キリスト教は「愛の宗教」であるとよく言われる。では、キリスト教のいうところの「愛」とは何だろうか。それは「神の愛」のことだが、それはどんな愛なのだろうか?まず、「神の愛」とは、愛の対象はすべての人であること。そして無条件で一方的で、無限、永遠にあるものである。それは神の本質そのもの。神とはそういうお方であるということである。「神は愛なり」である。神イコール愛。愛イコール神。そのことを聖書は最初から宣言して、私たちに示している。創世記の最初の天地創造のところに、「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。」とある。「良しとされた」。この言葉は繰り返し語られ、31節「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」と続く。神はすべてのものを良しとされた。これが究極の愛です。愛の表現である。

 卑近な例でお話ししよう。赤ちゃんが泣くと、母親は赤ちゃんを抱き上げて、軽く揺すりながらあやして言う。「おお、よし、よし」。優しい、なんと愛情のこもった、いい言葉だろうか。人が生きるうえでの原点となる、尊い言葉だと思う。この「よし、よし」の「よし」はもちろん「良い」という意味の「よし」だから、母親は「おお、良い、良い」と言っているわけで、この時、赤ちゃんは「良い存在」として全肯定されているのである。先ほどの天地創造の時、神が宣言された「よし」と同じである。赤ちゃんにしてみれば、「腹減った」とか「眠い」とか、理由があって泣いているのだから、ちっとも「良く」ないのだけれど、母親はにっこり笑って言う。「おお、よしよし。すぐに良くなる、すべて良くなる。ほら、お母さんはここにいるよ、今良くしてあげるからね。何も心配しなくてもいいのよ。おお、よし、よし。おまえは良い子だ。良い子だね」。

 私たち大人はそんなことをもうすっかり忘れて、当たり前のように生きているけれど、誰もが赤ちゃんの時にそうしてあやされたからこそ、自分を肯定し、世界を肯定して今日まで生きてこられたのではなかったか。生きる力を与えられてきたのではないか。「おお、よし、よし」はその人の最も深いところで、いつまでも響き続けているのだ。

 今日の聖書箇所もそうである。弟子たちは幼子の存在を否定的に見ている。だから、叱ったのだ。「女子供の来るところではない」。しかし、主イエスは「神の国はこのような者たちのものである」と肯定的に受け入れておられる。主イエスは自分の身近に呼び寄せて言われる。「このような者こそ、神の国に入ること」ができると言われ、子どもを抱き上げ、祝福される。このように私たちは神から肯定され、「よし」とされ、祝福されたものとして生かされているのである。

 その意味では、生まれて最初の「よし、よし」は、生きる上での原点ともいえるのではないか。何しろ生まれたばかりの赤ちゃんには、すべてが恐怖である。それまでの母体内での天国から突然放り出され、赤ちゃんは痛みと恐れの中で究極の泣き声を上げる。いわゆる「産声」である。この世で最初の悲鳴である。ところが、それを見守る大人たちは、なんとニコニコ笑っているではないか。そして母親はわが子を抱き上げて、微笑んで語りかける。赤ちゃんがこの世で聞く最初の言葉、「おお、よし、よし」。

 わが子が泣いているのに、なぜ母親は微笑んでいるのだろうか。親は知っているからだ。今泣いていても、すぐ泣き止むことを。今つらくともすぐに幸せが訪れることを。今は知らなくとも、やがてこの子が生きる喜びを知り、生まれてきてよかったと思える日が来ることを。親は泣き叫ぶ子にそう言いたいのだ。

 「おお、よし、よし。大丈夫、心配ない。恐れずに生きていきなさい。自分の足で歩き、自分の口で語り、自分の手で愛する人を抱きしめなさい。これからも痛いこと、怖いことがたくさんあるけれども生きることは本当に素晴らしい。大丈夫、心配ない。おまえを愛しているよ、おお、よし、よし」。

 存在の孤独に、生きていることの孤独に胸を締め付けられるような夜は、生みの親の愛を信じて、そっと耳を澄ませてみよう。きっとわが子に微笑んで呼びかける人生最初の「おお、よし、よし」が聞こえてくるだろう。そして、その言葉の背後に、すべてのものに微笑んで呼びかける、宇宙最初の神の「よし、よし」も聞こえてくるだろう。そして、主イエスが「子どもたちを抱き上げ、手を置いて祝福された」その祝福を私たちにも今日、同じように招いて祝福してくださる主イエスの声が聞こえてくるだろう。そこに私たちは生きる力を感じ、喜びがわいてくるのである。それが神の愛のすごいところ、すばらしいところ。
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楽しかった礼拝音楽研修会 

2019-02-19 17:38:32 | 牧師室だより

牧師室だより 2019年2月17日 楽しかった礼拝音楽研修会 

 連合教会音楽部主催の研修会が2月9日(土)に相模中央教会で行われた。テーマは「礼拝と賛美を豊かに」ということで、昨年7月に発行された『新生讃美歌ブックレット』を用いて、江原美歌子先生より楽しい学びをさせていただいた。

 講演、講義というより、質問やクイズに答えながら学んでいくという楽しい研修だった。最初は穴埋め問題が8問。たとえば「礼拝の学びはなぜ必要でしょうか?」とあり、次の文章を穴埋めして答える。「バプテスト教会は○○主義であり、○○においても各教会にすべてが委ねられています」。さあ、何でしょうか?答えはブックレットの20pにあり、「各個教会、礼拝形成」です。もう一つ。「会衆賛美の中身」として「礼拝は○○と○○の対話によってつくられ、賛美はその対話を促し、助ける働きとなっています」。答えは「啓示と応答」。私は「神と人」の対話と読み替えてもいいと思った。

 〇×クイズもあった。皆さんも挑戦してみてください。答えは最後に。
①賛美歌を歌え変えて歌ってもよい。〇×。
②欧米では賛美歌末尾のアーメンは、歌われていない。〇×。
③節を選んで歌ってはいけません。〇×。
④伴奏の工夫・アレンジはしてはいけません。〇×。
⑤会衆賛美はハーモニーをつけて歌ってよい。〇×。
⑥賛美歌はだれでも作ることができる。〇×。
⑦プレイズ・ソングと伝統的な賛美歌は一緒の礼拝では歌ってはいけない。〇×。
⑧「ヒム・エクスプロージョン」とは「讃美歌の爆発」という意味である。〇×。

 いくつできたでしょう。答えの解説がブックレットに書かれている。このクイズを通して思ったのは、自分(自分たち)の固定観念に縛られることなく、もっと自由に神を賛美していいということであった。そのためには礼拝や賛美についての学びが重要。そういえば最近は連盟・連合の集会では賛美歌の最後のアーメンを歌わないことが多くなった。

 〇×クイズの答え:①〇(p38)②〇(p44)③×(p53)④×(p55)⑤×(p58)場合によっては歌ってよい。⑥〇(p66)⑦×(p68)⑧〇(p68)
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子育てサロン「こひつじひろば」4月から毎週

2019-02-14 16:39:09 | こひつじ館
子育てサロン「こひつじひろば」は4月から毎週木曜日に行います。
4月4,11,18,25日(木)

2月は21日(木)
3月は7日(木)
3月21日(木)は「もちつき会」に合流。
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イースターのご案内

2019-02-14 16:30:15 | 教会行事
イースターのご案内

今年のイースターは4月21日(日)です。
どなたでも歓迎いたします。
駐車場有、託児室有、無料(但し自由献金有)、
未信者歓迎、
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福音に仕える喜び

2019-02-14 15:40:00 | 説教要旨

<先週の説教要旨>2019年2月10日 主日礼拝 杉野省治牧師
「福音に仕える喜び」 エフェソの信徒への手紙3章7-13節
 
 神はどんな人にも、その人でなければ果たせない使命を与えておられる。すなわち人は誰でも与えられた「命を使って」生きている。生まれてから死ぬまことだけにしか使わない人は使命を果たしたとは言えない。使命を果たすとは、自分自身の利己心や虚栄心や物欲を制して、自分のためだけではなく、自分以外のたで、人は与えられた命を自分の命として使うことが出来るが、その命をただ自分のめに役立てることだ。それは私たちをこの地上に遣わされた方の御旨に従い、神のために自分に与えられた務めを果たすことだろう。では、神の御旨とは何か。一言で言えば「神を愛し、隣人を愛すること」だ。そのことの具体的な実践は色々あるが、要は私たちがいかなる状況のもとにあっても、全世界よりも尊いこの命を何のために用い、また何のために捧げて生きるかが問われているである。

 ドイツ人で上智大学名誉教授のアルフォンス・デーケン先生は「死の哲学」という本の中で、「美しい人間の生きざま、死に方について」書いておられるが、他者のために「生きる」、生きるとは他者のために生きるということである、とはっきり書いておられる。さらに、デーケン先生は、「大きな使命感を感じながら生きていけたら、もっと人生も意味あるものとなるだろう」と言われる。

 パウロはこの使命について、揺らぐことのない確信を持っていた。今日の聖書箇所は、パウロが与えられた神からの使命とその内容について語っている。パウロは神のため、そして異邦人のためにその使命に生きた。パウロは、7節で「神は、その力を働かせてわたしに恵みを賜り、この福音に仕える者としてくださいました」と言う。福音に仕えるとは、福音に押し出されて止むに止まれず福音を宣べ伝えたいということである。パウロはまた、第一コリント9:16で次のように告白している。「もっとも、わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです」。

 キリストを信じる者となったとき、そのキリストを他の人に、特に異邦人に宣べ伝えるということは、パウロにとっては「そうせずにはいられない」ことであったことがわかりる。真実な信仰とは必ず何らかの形で表現されずにはいられないものである。それが真実に私たちの心をとらえているなら私を動かさないはずがない。「神は愛である」と聞いても、ああそうですか、という程度の理解では、それは確かに何の力もない観念であり、知識でしかない。しかしこの神の愛がイエス・キリストを通して自分に迫っている、そのように受け取る者にとっては、この感動はもはやどこかに表現せずにいられないものとなるのである。

 使徒パウロも、はじめはユダヤ教徒だったから、キリスト教徒を迫害していた。その最中に復活のキリストに出会い、一つのことを真実に経験したのだ。それは自分がかつてはどうにもならない罪のとりこであったこと、しかしこの自分をキリストは赦し、神のみ前にとりなし、自由と使命を与えて下さったという事実である。パウロはこのキリストのゆえに神に感謝せずにはいられなかった。だからまた、自分はこの事実を告げ知らせずにはいられないという魂への迫りがあった。この確信こそ、パウロをして伝道者たらしめ、またパウロの全生涯をただ伝道のために使い果たさせたところの究極の力であった。

 私たちに与えられているのもまた、これと同じ恵みの経験ではないだろうか。そしてこの恵みの経験こそが私たちを伝道に駆り立てる最も純粋な、最も力強い動機となるのである。「異邦人に福音を宣べ伝えなさい」ということが、もし全員講壇に立って説教しなさいというのであれば、「私にはできません」という人があるかもしれない。しかし「あなたに与えられた恵みを語りなさい」という証しならできるのではないか。また、神を紹介することなら出来るのではないか。教会にお誘いすることなら、チラシ配りなら、とりなしの祈りなら、会堂のお掃除なら……。主に示されたことにチャレンジしてみよう。

 使徒パウロと共に、神の恵みを無にしないで、土の中に隠さないで、恵みに押し出されて、福音に仕えることを喜び、それぞれに与えられた賜物を用いて、実践に励んでいこう。
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身辺雑記 

2019-02-11 07:23:42 | 牧師室だより

牧師室だより 2019年2月10日 身辺雑記 

 最近、朝の儀式(起きてから朝食までの行動を勝手にそう呼んでいる)に味噌汁づくりに加えて乾布摩擦が加わった。夏の早朝散歩は汗をかくのでシャワーを浴びるのが日課だが、冬場は汗をかかない。しかし、時にジトっと汗をかくことがあり、その時は下着を脱いでタオルで拭く。拭いていた時、そういえば小学生の時、全校で一斉に乾布摩擦をしていたなと思い出した。そうそうこんなふうに体をこすっていたな、寒い校庭で。これは血流をよくするし、風邪予防にいいなと思い、早速始めることにしたというわけである。

 3月の引っ越しに備えて、本の整理をした。5月以降ずっと気になりながら手付かずだったが、12月頃から始めてやっと終わった。手元に残す本、神学生に寄贈する本、古本屋に売る本、捨てる本と4種類に分類しながらの作業だった。本というものは必要な人、読みたい人には宝物だが、そうでない人にとってはただの紙くず。重たいし場所を取り、ほこりがたまる厄介物だ。読みたいと思って買った本だったが、結局「積読読み」の本だらけになった。もちろん今でも、時間さえあれば読みたい本ばかりなので、未練が残るつらい作業となった。でも、終わってみると意外とすっきりした気分になった。ただブックオフにもっていけば、新書なら5円10円という値段。値段が付けばいい方。涙が出た(笑)。

 先週、牧師読書会に湘南台教会へ出かけた。5~6名の小さな会だが始めてもう8年目に入る。私が言い出しっぺで、連合の牧師に呼び掛けて始めたものだ。月1回のペースで、神学書や説教集などをテキストに持ち回りで発題をし、みんなで感想や質問を出しあって学びを深めていく。昨年は1年かけて、米国の女性司祭(聖公会)テーラー牧師(米国で有名な説教者)の説教集を学んだ。今は元西南学院大学神学部教授の松見俊先生の『三位一体論的神学の可能性 あるべき「社会」のモデルとしての三一神』(新教出版社)を読み始めている。これが難解。広範な神学知識がないと無理。でもみんなで読めば怖くない(笑)。楽しくやっている。
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打ち倒されても滅ぼされない

2019-02-04 12:16:21 | 説教要旨

<先週の説教要旨>2019年2月3日 主日礼拝 杉野省治牧師
「打ち倒されても滅ぼされない」第二コリント4章7-15節

 今朝の聖書箇所には、神を信じる者の生きる姿が描かれている。この手紙を書いたのは使徒パウロ。彼は8-9節でこう言っている。「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」。ということは、逆に考えれば、神を信じるから苦労しないとか、生活が楽になるとかということではない。信仰を持っているから物事がうまく運ぶとか、成功するとか、そういうことでもない。おそらくここで書かれていることはすべて、パウロ自身がずっと経験してきたことだろう。信仰を持って、ずっと生きてきた。しかし、四方から苦しめられる、人から虐げられる、あるいは途方に暮れる。これからどう進んでいいか、生きていったらいいかわからなくなる。

 その中でパウロはこう言っているのだ。四方から苦しめられても行き詰まらない。道が全く見えなくなって途方に暮れることがあるけれども、それでも失望しない。あるいは人々から虐げられる、ひどい目に遭う。しかしそれでも自分が見捨てられないのだ、と彼は言う。打ち倒されても自分は自分の底力によって立ち上がるというのではない。どんなにひどく打撃を受けてもそこにしっかり自分は立ち続けるというのでもない。打ち倒されるのだ。立っていられない。しかし滅びない、と彼は言う。倒れてそこで終わりだというのではない。滅びない、あるいは滅ぼされない。打ち倒されても滅びないというのは、神が自分を滅ぼされないという意味である。つまり、絶体絶命の中で、しかし滅ぼされはしない。追い詰められてしまうけれども、しかしそこで終わらない。そこで生きるというのである。パウロは、神を信じる者は、まさにその状況の中で生きる、とここで言っているのである。つまり、そのどん詰まりの場所で、神を信じる者は生きるのだと。虐げられて弱り果てている。しかし見捨てられはしない。神に見捨てられてはいない、と彼は言う。それが彼の支えなのだ。だから彼はそこで生きるのである。

 彼はさらにこう言っている。「わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています。イエスの命がこの体に現れるために、わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています。死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために」(10節)。イエスの死を体にまとっていますと言う。生きながら絶えずイエスのために死にさらされています、と彼は言う。つまりあのイエス・キリストが歩かれたように、試練にさらされながら歩いていくのだ、と言うのである。迫害や誘惑や敵するものやそういうものにさらされながら生きていくのだと言うのである。信仰というのは、安全地帯ではない。あるいは無風地帯に入ることでもない。つまり、信仰とはあらゆる危険から身を守るシェルターのようなものではない。試練のただ中で生きるのである。あるいはそこで生かされるのである。それが信仰。それは、精神力ではない。つまり自力ではない。神がそこで生かしてくださる。私たちの力尽きたところ、私たちの知恵の及ばない場所、この世の圧力に抗しきれなくなって倒れてしまうところ、そこで神が受け止めてくださる。打ち倒された私たちを神が支えてくださる。それが信仰によって生きているということである。
 
 詩編46篇2節にこういう言葉がある。「苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる」。神は私たちが苦難の中にいるときに、私たちを天から見守っておられるというのではない。苦難の中に必ずそこにいまして助けてくださる。だから私たちは苦難の中で生きることができるのである。神が共にいてくださるから。それはイエス・キリストの約束だと言われた。神が、この私たち罪人と一緒にその場所にいてくださる。四方がふさがっても、逃げ道がもう何も見えなくなったとしても、生きる道がある。あるいは、生きる道がそこに生まれる。必ずそこにいまして私たちを助けてくださる。パウロは「死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるため」と書いている。

 死ぬはずのこの身に、終わるはずのその場所に、イエスの命は現れるのである。行き詰ったところで死なず、倒れたところが終わりではなく、そこで神に出会い、交わり、そこで生きる。そこが私たちの原点になる。生きていく原点になる。追い詰められたその場所が、私たちが倒れてしまったその場所が、私たちが生きていく原点になる。新たな出発点となる。より深い恵みの世界への出口になるのである。

 いつも共にいます主が、私たちと出会い、私たちを受け止めてくださる。だから私たちは試練の中にあっても生きられるのである。終わりではない。試練を突き抜けて、思いがけない恵みの港に着くのである。試練なしで、いいことばかりあって、楽をして、どこかいい場所に着く、そんなことはないのである。試練を突き抜けて、思いがけない恵みの場所に私たちは押し出される。その世界に私たちは導かれる。それが試練というものの私たちにとっての意味。「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」(ローマ5:4)。
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「墓参り」は不要?

2019-02-04 10:58:12 | 牧師室だより

牧師室だより 2019年2月3日「墓参り」は不要?

 週刊「キリスト新聞」(キリスト新聞社発行)の人気連載「教会質問箱」がシリーズ化され、本として発行されたのが『教会では聞けない「21世紀」信仰問答Ⅰ』(キリスト新聞社 2013)。人間、悩みがあるのは生きている証拠、迷いがあるのは前に向かおうとしている姿。信者のみならず、未信者の方々の悩みや迷い、素朴な疑問に答えるというものです。

 その中の一つを要約して紹介します。「キリスト教では死者を拝むことがないので『墓参り』は不要ですか?」という70代の未信者の方の質問。

 回答:人の死に際してその死を悼み、葬りの儀礼を行い、墓に埋葬することは、古今東西、共通のこととして行われてきました。では、なぜそうするのでしょう。宗教によって、そのとらえ方は色々ですが、キリスト教では故人を拝むためではありません。愛する家族や肉親、友人……それらの人を大切に思っている気持ちの表れです。「墓参り」の本質は「拝みに行く」ということではなく、「故人と共にあった日々を懐かしく思い出す、忘れずに覚えている」あるいは「故人に対する感謝の気持ちを表す」ことにあるのではないでしょうか。ですから、キリスト教が墓参りを否定しているということもありません。キリスト教でも墓参りをし、一般的にされるように花を手向けます。そして、そこに集った皆で神さまに祈りをささげます。その意義は、故人を覚え、そのことを通して神さまに心を向けることにあります。以上です。

 以前、40代の息子さんを病気で亡くされた教会員で年配の女性から、家に十字架と息子の写真を飾っているが、その前で息子に語りかけていいか?と尋ねられたことがありました。私は、即座に、思う存分、語りかけてください。そして最後に神さまに感謝のお祈りをしてくださいと申し上げました。一連の葬儀、納骨、記念会、墓参りもそうですが、それはグリーフケア(近しい人を亡くし悲嘆にくれる人を癒やすため、心を解放し気持ちを整理する場を作る試み)となると思うからです。
 
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みんなも呼びな 神さまを呼びな

2019-01-30 15:11:23 | 説教要旨

<先週の説教要旨>2019年1月27日 主日礼拝 杉野省治牧師
「みんなも呼びな 神さまを呼びな」詩編23篇1節 マタイ福音書6章25-34節

 八木重吉というクリスチャン詩人の詩に「神を呼ぼう」という詩がある。「赤ん坊はなぜにあんなに泣くんだろう /あん、あん、あん、あん/あん、あん、あん、あん/うるせいな/うるさかないよ/呼んでいるんだよ/神さまを呼んでいるんだよ/みんなも呼びな/神さまを呼びな/あんなにしつこく呼びな」。

 赤ん坊は泣き叫ぶ以外、何の手段ももっていない。しかし、赤ん坊は生まれながら神さまを知っているかのように、叫び続ける。それは私たちが手段も方法もない時、何をなすべきか、教えているかのようだ。赤ん坊は全身をもって泣き叫ぶ。言葉も知らない、歩いて取ることもできない、物を使うすべもしらない、まさに何もできない、その時、神が唯一与えたもう手段は、神に呼び求めることだった。赤ん坊は、その目的のものが与えられるまで、決して泣きやまない。神への信頼、要求の激しさだろうか。全身をふるわせて泣き叫ぶ。それは私たちの祈りに対する指針ですらある。私たちの祈りは、ぼそぼそとしていないだろうか、それは叫びだろうか。神を呼ぶと言えるものだろうか。

 有名な詩編23篇1節にこうある。「主は羊飼い。わたしには何も欠けることがない」。これは、自分が羊であるという自覚を歌っている。羊というのは、羊飼いの守りと導きの中で生きるし、その中でしか生きることができない。その羊飼いが自分の前にいてくださる。だから自分には乏しいことがない。それで自分には十分だと歌っているのだ。人間としての満ち足りた生き方がそこに描かれている。

 しかし、私たちは、あれがあればこれがあれば満ち足れる、自分の生活は安定するのではないか、と考える。しかし、実はそうではなくて、私たちが導かれて生きるということの中に、私たちの満ち足りた人生があるということがこの短い言葉の中に歌われているのではないか。だから、私たちが何か道を開拓するというのではない。神に導かれながら私たちは歩いていくのである。導かれながら、一つひとつ前に開かれていく道を歩いていく。これが人間本来のあるべき姿。私たちはそれを信仰と言うが、信仰というのは特別なことではなくて、人間が本来あるべき姿、歩き方のことであろう。

 イエス・キリストは言われた。「明日のことまで思い悩むな」(マタイ6:34)。明日は私たちの手の中にはない。よく言われるように一寸先は闇。一寸先は何もわからない。何が起こるかわからない。どんな災難が待っているかわからないということ。その通りだ。私たちの人生は誰にとっても、不安といえば不安、頼りないといえば頼りない。だから、私たちは明日というものを自分のもとに確保しようと思う。だから、「何を食べようか」「何を飲もうか」「何を着ようか」と言って、思い悩む、のだ(25,31節)。その私たちに対して主イエスは言われる。「あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも伸ばすことができようか」(27節)とはっきり言われる。明日の命は、私たちの手の中にはない。といって、明日のことまで思い悩んでもしょうがないではないか、と短絡的に主イエスは言われているわけではない。

 その前に、前提がある。空の鳥をよく見なさい、野の花を見なさい、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる、野の花を装ってくださっているではないか、というのである。さらにまた32節で、あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存知である、といわれるのである。

 これらの言わんとすることは、要するに、天の父、父なる神によって私たちは養われている、そういう存在だということである。命は私たちの手の中にはない、それは神の手の中にある。ヨブ記1:21「神は与え、神は奪う」とあるとおり。だから神は創造者としての責任と愛をもって養ってくださる。必要なものは与えてくださるお方であるということ。だからその神に求めなさい。だから「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」と言われるのだ。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる、と約束されている。

 その前提のうえで、だから、「明日のことまで思い悩むな」と言われているのだ。そこで私たちに求められていることは「何よりもまず、神の国と神の義を求め」ること。赤ん坊のように「みんなも呼びな/神さまを呼びな/あんなにしつこく呼びな」と八木重吉が歌っている通りである。
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聖句引用でお話

2019-01-30 09:34:34 | 牧師室だより

牧師室だより 2019年1月27日 聖句引用でお話

 教師という仕事は何かと生徒に話す機会が多い。朝礼や毎日の朝の会、帰りの会、学年集会、入学式に卒業式、始業式に終業式。その度に話すネタ探しに苦労した。本や新聞、テレビの話題はもちろん、手元には逸話集やことわざ・格言集なども置いて参考にした。たまに聖書の話もした(公立学校なので宗教教育にならぬよう注意を払いながら)。

 聖書の話では、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」という聖句を引用して、人間は「言葉」によって成長し、言葉によって学び、言葉によって生きている、ことをわかりやすく話した。挨拶一つとっても人間関係に大きな影響を与えることなどは生徒にもよく通じた。さらに、言葉遣いや読書の大切など話を広げて話すこともあった。

 次の聖句もよく引用した。「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」(ローマ5:4)。これは生徒にはストレートに伝わった。特に3年生の受験生を励ますときに最適だった。「忍耐」して繰り返し復習して、体に染みつくまで習熟すること、それが「練達」だ、というように話すと、生徒も部活動などで、繰り返し練習しているので実感として受け止めてくれた。

 「受けるよりは与える方が幸いである」(使徒言行録20:35)は、生徒自身に体験を話させて、考えさせた。誕生プレゼントやお年玉をもらった時の気持ち、逆にプレゼントをあげたり、優しい言葉をかけてあげたときの気持ち。その違いを考えさせたりした。また、「頂戴、頂戴」「欲しい、欲しい」ばかりの自分と「与えたい」「何かしてあげたい」と常に考えている自分、どちらが心豊かか、問うたりもして考えさせた。

 岩の上に家を建てる賢い人と砂の上に家を建てる愚かな人のイエス様のたとえ話もよくした。これなんかは説明はいらない。基礎、土台が大事という話。だから、小・中学校の勉強は人生の土台となるのだからしっかり学ぼうとなるわけだ。基礎が大事なのは何事も同じ。
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