平塚にあるキリスト教会 平塚バプテスト教会 

神奈川県平塚市にあるプロテスタントのキリスト教会です。牧師によるキリスト教や湘南地域情報、世相のつれづれ日記です。

「逃れの町」

2015-09-30 15:47:04 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2015年9月27日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

 「逃れの町」  申命記19章1-13節
  
 古代オリエントの社会においては、相手に傷つけた者に対する処罰としては、「目には目を歯には歯を」という同害報復が常識だった。これは私たちの目には非常に厳しい掟と映るが、当時においては必要以上の復讐がなされないようにするための知恵でもあった。しかし今日の聖書は、そのような常識と異なる対処の仕方を教える。すなわち、故意ではなく殺人を犯した者が逃れることができるように「逃れの町」を設けよというのである。
 
 復讐が常識であった当時の社会は、裁き合う社会だと言えるだろう。私たちの社会でも、勝手に人を裁き、排除することが多くある。理不尽ないじめや仲間はずれが容認される雰囲気がある。大きな事件ともなれば、過ちを犯した本人以外の家族や関係者までもが冷たい社会的制裁を受けることが常識のようになっている。

 そのような当時や現代の社会の常識に欠けていることを、申命記はしっかりと見据えて、「罪のない者の血を流してはならない」と戒めている。逃れの町は、いつ過ちを犯して裁かれる立場におかれるかも分からない「あなた」のためであり、また人を勝手に裁いて追い詰めてしまいがちな「あなた」のためでもあるのである。

 実際、私たちは相手の過ちを責め立てて、相手に逃げ場すら与えないことがある。しかし主はそんな私たちの罪を取り上げて私たちを追い込むようなことはなさらない。まったく逆に、私たちの罪を独り子イエス・キリストに背負わせることによって、私たちを受け入れてくださったのである。だから、新約聖書の光に照らせば、十字架の主イエスこそが逃れの町だと言えるのではないか。こうして主は、裁き裁かれる世界の中で、逃れの町を備え、私たちが生きることのできる隙間、場所を作ってくださっているのである。

 たとい故意ではなくても、殺人を犯したことは加害者にとっても、被害者の身内にとってもつらいことである。互いに顔を合わせることがあるともっとつらい。それに対して主は、頭ごなしに「赦しなさい」とは言わず、「逃れの町」によって互いに距離を置き、祈りつつ関係が癒される時を待つことができるようにしてくださっている。

 逃れの町の存在しない現代社会、その中で私たちは何か問題を起こしたり、弱みを見せたら大変だとひっきりなしに人の視線を気にしているのではないだろうか。しかしその中にあって、私たちの教会こそ逃れの町でありたい。教会のメンバーも新しく来た人も、互いに過去や罪の重荷を抱えている。そこでは私たちは互いに罪をごまかすのでも、裁くのでもなく、そして互いに主の前に同じ罪人として、また同じように愛されている者として、共に十字架の主を仰ぎつつ、共に歩むことが許されていくのではないだろうか。

祈りのマンネリ化防止のために

2015-09-28 11:52:56 | 牧師室だより

牧師室だより 2015年9月27日 祈りのマンネリ化防止のために

 今日紹介する祈りは、元南部バプテストの宣教師であったメアリー・ウオーカー夫人の『朝ごとに新しく』(大塚九三子訳)という祈り集からのもの。敬愛する大塚先生からいただいた。祈りのマンネリ化防止のために時々読み返している。

 9月27日「民よ、どのような時にも神に信頼し/御前に心を注ぎ出せ。神はわたしたちの避けどころ。」(詩編62:9)

 (祈り) 主なる神様、今日もまたいつものように御前に出ます。あなたは私たちを導き慰め、私たちと私たちの愛するものとを守ってくださいます。ダビデは、心配事をあなたに告げるならあなたがそれを聞いてくださること、そしてあなたのうちに避けどころを見つけることができると教えてくれました。確かにこれまでもあなたは、私たちの助けであり、力となってくださいました。ですから、今日もまた私たちの問題をすべてあなたの前にさらけ出します。ありがとうございます。アーメン。
 
 9月28日「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。」(ガラテヤ5:22,23)

 (祈り) 忍耐に富む父なる神様、あなたは熟練した園芸家でもあります。私は自分の成長の遅さを自分でも我慢できないものです。あなたが、お望みのように私を変えてくださろうとしているのに、勝手に伸びていって自分の力で完全なものになろうとさえします。私の性急さを赦してください。あなたが剪定してくださるのをじっと受け入れ、怒りや不機嫌を覚えることなく、変えられていくことができますように。必要な太陽の光や雨を送ってください。また、強くなるために必要な試練の風や困難という雪を送ってください。あなたに仕えていこうとする私の思いを食い荒らす害虫は取り除いてください。私の人生は、主なる神様の御手の中にあります。アーメン。

 たった2日分しか紹介できなかったが、いろいろな祈り集が出版されているので、購入されて読まれると信仰の成長に役立つと思います。お勧めします。

そば屋のバイトの思い出

2015-09-22 09:44:50 | 牧師室だより

牧師室だより 2015年9月20日 そば屋のバイトの思い出

 年のせいか、最近昔のことをよく思い出す。今日は40年以上前の話である。大学時代に掛け持ちでアルバイトをしたことが一度だけある。一つは朝の8時から午後2時まで。築地にある魚問屋。次は5時から9時まで、新橋のおそば屋さん。その間は喫茶店で読書して暇つぶし。そのお店は道路一本隔てて向かいは銀座8丁目。夕方6時頃になると銀座のホステスさんたちが出勤前の食事に大勢やって来た。頭はアップにした髪型できれいにお化粧して、もちろん高級な和服姿。このお蕎麦屋さんでの忘れられないエピソードが三つある。

 一つは、お客のホステスさんの和服にそばのつゆをこぼしてしまったこと。アッと思ったがもう遅い。覆水盆に戻らず。しかし、そのホステスさん、少しも騒がず、さっとハンカチを取り出してふきとって、「いいのよ」とか何か言って私をとがめず、何事もなかったかのようにおそばを食べて出て行った。出ていく後姿に、おう!さすが銀座のホステス!と驚嘆して見送っている私がいた。

 二つ目。その日はお客が多くて忙しかった。その時、若い女店員がベテランの調理人に、「手伝おうか。それくらい私もできるから」と言った。すると、そのおやじさん、持っていた鍋を床に叩き落として出て行ってしまった。その瞬間、店の中は凍り付いたような空気が流れた。小娘の一言がおやじさんの職人としてのプライドを傷つけてしまったのだ。

 三つ目。社長がある日、私に新しく店をやるが、そこを任せるがやらないかと持ち掛けてきた。仕事はこれから教える、心配いらない。卒業後の進路は決まっているかと聞いてきた。まだないと言うと、今すぐ学校をやめて、この会社でやらないかと誘う。大学だけは卒業しろと言うのがおやじの遺言だと言うと、残念そうな顔をして、それ以上何も言わなかった。当時は高度経済成長時代、仕事はいくらでもあった。今では夢のような話である。

とりあえずの人生

2015-09-16 19:37:51 | 牧師室だより

牧師室だより 2015年9月13日 とりあえずの人生

 毎週金曜日、朝日新聞の夕刊に大竹しのぶさんのエッセーが掲載されている。彼女の日常の身辺雑事が生き生きと(リアルに)書かれていて、「この人、文章うまいなあ」といつも感心して読んでいる。

 私は芸能界のことはとんと疎いので、彼女があの明石家さんまさんと再婚して、女の子を出産してたなんて、ちっとも知らなかった。大竹しのぶといえば、昔、映画「青春の門(筑豊編)」で初恋相手の主人公との別れの場面で「信介しゃん、信介しゃん…」と泣きながら呼ぶ名演技が忘れられない。

 さて、彼女のエッセーだが、題名は「まあいいか」である。勝手な推測だが、彼女は「まあいいか」と言いながら人生を歩んでいるのかな、と思ったりする。では、「私はどうだろうか」と自問してみた。出てきた答えは「とりあえずの人生かな」であった。

 昔読んだ本に「考えてから歩く人と考えながら歩く人、そして歩いてから考える人がいる」とあったが、「とりあえずの人生」は「考えながら歩く」タイプに近い。サントリーの創業者鳥井信治郎の「やってみなはれ」は有名であるが、これは「歩いてから考える」という開拓者精神に満ちた生き方であろう。私の連れ合いは完全に「考えてから歩く」タイプ。石橋を叩いて渡るという生き方。

 「とりあえずの人生」はその時その時に考えるから、計画性がないと言えばそうだが、何でも積極的にやってみるという面もある。そこから新しい発想や発見もある。新しい出会いや思いがけない出会いもある。それを楽しんでいる人生なのかもしれない。

 「とりあえずの人生」は、中途半端な生き方ではない。いい加減な気持ちで取り組むわけではない。考えながら歩んでいるのだ。人生、先が分からないのだから、とりあえず一歩踏み出してみる。そしてあとは神にゆだねる、の精神である。予想通りでなくてもそれを受け入れ、楽しむ余裕の人生とでも言おうか。皆さんはどういう人生ですか。

前向きな無力さ(2)   

2015-09-08 06:44:47 | 牧師室だより

牧師室だより 2015年9月6日 前向きな無力さ(2)   

 先週の復習。「前向きの無力さ」とは「互いの無力さを受け止め、神様にゆだねるという立場」。その場合、大切にしていることが7つあると向谷地さんは言う。一つ目は、「その人を支配したり管理したりしないこと」。二つ目は、「自分の力のなさを認めること」。以上は先週のまとめ。

 さて、三つ目であるが、「自分自身を変えること」。対人関係の基本原則。人を変えようとするよりも、自分がまず変わることが相手を変える大切なポイントとなる。

 四つ目は、「自分と相手を受け入れること」。聖書にも、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」(マタイ福音書22:39)とあるように、私たちが「人を受け入れられるかどうか」は、「自分を受け入れているか」が鍵になる。

 五つ目は「正すことではなく、励ますこと」。支援者は、人の過ちを正すのではなく、励ます人になる必要がある。

 六つ目は「その人の人生を認め、大きな力にゆだねること」。“大きな力”というのは、人によって違うと思うが、大切なのは自分の力で人を助けようとせず、自分を超えた力にゆだねるというわきまえ。私の場合は神さま(キリスト)。「人事を尽くして天命を待つ」ということわざもある。

 最後は、もっともかかわりの難しい当事者は、誰でもない自分自身であると、日頃から心にしっかりと刻んでおくこと。

 私たち支援者が、相手のためを思ってしたことがよい結果につながらなかったり、何かできればと思って、熱心になればなるほど、息切れしてしまい、どのようにかかわったらよいか途方に暮れてしまうことがある。そのようなときこそ、「前向きな無力さ」という「行い」が有効です。手を引いて神さまにゆだねる、つまり私たちの無力さを知り、本人の回復を信じ、神さまにゆだねる思いを持った行いである。

 現実にかかえる生きづらさを、聖書のみ言葉に照らし合わせて話し合う。なぜなら聖書のみ言葉は大切な「人生の羅針盤」だから。

前向きな無力さ

2015-09-01 10:59:41 | 牧師室だより

牧師室だより 2015年8月30日 前向きな無力さ

 K兄から「読んだからあげる」といってもらった本、『精神障害と教会 教会が教会であるために』(いのちのことば社2015)。早速読んだ。「昆布も売るけど病気も売る」をモットーに精神障害を持つ人たちと「べてるの家」を立ち上げたソーシャルワーカーの向谷地生良さんの著書である。

 「べてるの家」については以前この欄で取り上げた(2014年9月7日)。その時は「降りてゆく生き方」について紹介した。この本では、精神障害を持つ方の相談や支援する立場に立たされた私たちがどのような姿勢で向き合えばいいかが書かれている。その時大切なのが、「前向きな無力さ」。

 それを向谷地さんは、「互いの無力さを受け止め、神様にゆだねるという立場」と考え、その立場に立った時、「互いの関係の中に回復の新しい地平が見えてきます」と言われる。さらに「両者の真ん中に『聖書の言葉』を置いて対話するというつながり方は特に興味深く、『並立的傾聴』にもつながるもので、より関係に深まりが増すように思います」と述べられている。それは精神障害を持つ方の場合に限らないだろう。

 「並立的傾聴」とは一般的な相談やカウンセリングでいう傾聴を「対面的な傾聴」と呼ぶなら、それに対置するだろう。それは、横並びになり、起きている問題をテーブルの上に載せるようにして、一緒にそれを眺めながら研究的に対話を重ね、対応策を考える関係である。いろいろな相談時に応用できるだろう。

 「前向きな無力さ」で大切なことを向谷地さんは7つあげている。一つ目は、「その人を支配したり管理したりしないこと」。いろいろとトラブルが重なると、それを起こさせまいと考えて、ついつい管理や過剰保護の誘惑に襲われるもの。二つ目は、「自分の力のなさを認めること」。これは、諦めることとは違って、相手の力を信じてはじめて可能になること。

 以下、次週に続く。