平塚にあるキリスト教会 平塚バプテスト教会 

神奈川県平塚市にあるプロテスタントのキリスト教会です。牧師によるキリスト教や湘南地域情報、世相のつれづれ日記です。

さよなら

2013-10-15 13:44:31 | 牧師室だより

牧師室だより 2013年10月13日 さよなら

 「さよなら」、今まで何度口にしたことだろうか。またこれからも何度も「さよなら」と言うだろう。そのように私たちは気軽に「じゃあね」とか「バイバイ」と別れていくが、それは、いずれまた会えると思っているからだ。

 だが、これがもし、その「また」がもうないのだとしたら、その人とこのまま二度と会えないと分かっていたなら、そう簡単に「じゃあね」とはいかないだろう。私たちは無邪気に手を振ってあっさりと別れていくが、いつだってそれがその人を見る最後になる可能性はあるし、いつかは必ずその日がくる。

 親しい人、特に家族を亡くした人の悲しみは大きいが、それが長い闘病生活の末か、突然の事故のためかでは、悲しみの質も違ってくるだろう。本人と周囲の人が死と向かい合う時間が長ければ、いつしか心の準備ができていることもあるが、朝「行ってきます」と出ていったのが最後になってしまったというような場合は、まったく心の準備がないために、残された者の心の傷は計り知れない。「さよならも言えなかった」「せめてひとこと、ありがとうと伝えたかった」そんな思いがいつまでも心に残る。

 私の父が死を迎えた時もそうだった。医師が治療のために麻酔をかけるがいいかと家族に同意を求めた。私たちは、麻酔による治療でよくなればまた父と話せると期待して同意した。しかし、父は三カ月間麻酔をかけられたまま意識も戻らず他界した。その時になって、「ああ、あの時に親父にありがとうとひとこと言いたかったな」と後悔した。

 「一期一会」という言葉がある。そこでの出会いと別れは常にかけがいのない出会いであり、今生の別れである。だから、私たちはいつだってきちんと「さよなら」を言わなければならないだろう。フランス語のアデュー、イタリア語のアディオスという別れの言葉は「神に(委ねる)」の省略形であると言われている。そのように、別れる相手を神とその御言葉に委ねる、そのような「さよなら」をいつもしたいものだと思う。