平塚にあるキリスト教会 平塚バプテスト教会 

神奈川県平塚市にあるプロテスタントのキリスト教会です。牧師によるキリスト教や湘南地域情報、世相のつれづれ日記です。

飯が天である

2012-12-24 10:39:30 | 牧師室だより

牧師室だより 2012年12月23日 飯が天である

 以前、ある牧師の講演の記録を読んでいて、この詩と出会った。強い衝撃を受けた。この詩は、イエスとの共食を指し示す。それは神の国が一緒に飯を食うことから始まることを端的に示している。神の国の宣教を担う教会にとって宣教の原点を示しているのではないか。韓国の詩人、金芝河の作品。

飯が天です
天を独りでは支えられぬように
飯はたがいに分かち合って食べるもの
飯が天です
天の星を共に見るように
飯はみんなで一緒に食べるもの
飯が天です
飯が口に入るとき
天を身体に迎えます
飯が天です
ああ 飯は
みんながたがいに分かち食べるもの

 私たちの教会では毎週、礼拝後昼食会をします。愛餐会と呼んでいる教会もあります。なぜするのでしょう?考えたことありますか。飯が天だからです。神の国のこの地上でのひな形だからです。主の晩餐の原型です。伝道、交わり、相互牧会、奉仕、みんなこの食事会にあります。ぜひ昼食会を大切にしてください。特に今日はクリスマス愛餐会。皆で分かち合いましょう。
 
 金(キム)芝(ジ)河(ハ):韓国の詩人。60年代の民主化闘争(朴独裁政権批判)により、獄中につながれる。韓国の「民衆神学」に強い影響を与えたキリスト者。

アドベント(待降節)の祈り

2012-12-18 10:46:02 | 牧師室だより

牧師室だより 2012年12月16日 アドベント(待降節)の祈り

 アドベントにあたり、三つの祈りを紹介します。祈りを合わせましょう。

 恵み深い神よ、あなたはこの季節を定め、独り子なる御子の受肉におけるあなたの限りない憐れみを覚えることをお命じになります。この聖なる時に、感謝の思いをもって日を過ごし、あなたの数多くの恵みを覚えつつ心を高く上げる時としてください。
 神よ、この聖なる季節、尊い御降誕が近づいている時に、主イエス・キリストを迎える良き心備えをするために、その日々を正しく心を戒めて過ごすことができるようにお導きください。
 キリストはすべての者に愛と恵みを与えるためにこの世に来られました。神よ、私たちも互いに、まず目を覚まし、光の中を信仰者にふさわしい品位をもって歩み、隣人を傷つけることがありませんように。隣人に躓きを与え、困難な中に陥れ、その人格をおとしめるような行為を避けることが出来ますように。全てのことにおいて、主の愛にならい、状況の許す限り、力の及ぶ限り、全ての人々に慰めと救いをもたらす業に励む者にしてください。(ジョン・ゴウター・17世紀)

 全能の神よ、あなたはかつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られましたが、時満ちて、イスラエルの救いの願いを、救い主イエス・キリストにおいて成就されました。万物がキリストに服従する日を早く来らせてください。父と聖霊とともに生きていまし、私たちを治めたもうイエス・キリストが再び来られる時を私たちは待ち望んでいます。(南インド合同教会)

 王にして救いの主、われらの主イエス・キリストよ、あなたをあつく信ずる人々は、「主のみ名によって来る者は幸いなるかな」と、遠い昔から叫び続けてまいりました。どうか、われらにも、その感謝に満ちた心を与えて、あなたの来られることを喜び、天地にあがる賛美の歌に、われらもまた和することができますように。あなたは、父と聖霊とともに、世々限りなく生きて統べ治められます。(J・W・ドバースタイン、神学者)。

クリスマスの思い出

2012-12-13 13:35:45 | 牧師室だより

牧師室だより 2012年12月9日 クリスマスの思い出

 皆さんのクリスマスの思い出は??私にも子ども時代のクリスマスの思い出がいくつかある。1950年代、ようやく敗戦の混乱もおさまり、戦後復興に向けて国を挙げて励んでいた時代。

 当時、クリスマスといえば、大人の世界では「パー券」。お分かりですか?バーやキャバレーが売る「クリスマス・パーティー券」。一枚・?千円の高価な券。私の父も職場の付き合いか、珍しく酔っ払って帰ってきて、私たち子どもにサンタのお面などをくれたことがあった。

 「へェー、教会でもクリスマスをするんだ」という笑い話があるほど、当時の日本はいろんな所でクリスマス会をやっていた。確か4年生の頃だと思うが、近くの天理教の本堂に集まった近所の子どもたちでいっぱいのクリスマス会を覚えている。腹話術のおじさんの話芸に心躍らせた。

 町内の子ども会でもクリスマス会をやった。6年生をリーダーに計画を立て、学年ごと出し物を考え、そして練習もした。町内の大きな屋敷の広間を借りて、カーテンで幕を作り、舞台を作ったり、めくりを書いたりと、楽しい思い出だ。算盤塾、書道教室、ピアノ教室、とにかく子どもが集まるところクリスマス会をしていた。まだその頃、家庭でケーキを囲んでのクリスマス会は珍しかった。70年代になってからである、家庭でのクリスマスパーティーがはやり始めたのは。

 クリスマスといえばプレゼントとケーキ。商店街のお菓子屋さんの店頭に並べられた靴の形をした箱に詰まったお菓子。子どの頃、その靴下のお菓子が欲しくて欲しくて、だか親にも言えず、指をくわえて眺めていた無念さが大人になるまでトラウマとなって残っていた。自分の子どもに買ってあげて、やっとそのトラウマも消えた。

 6年生の時、友だちのお母さんの指導で、子ども同士でクリスマス・ケーキを作って食べたことも忘れられない。デコレーションが失敗したといってはつまみ食いしたのも懐かしい思い出。

切符を買うこと

2012-12-13 13:32:16 | 牧師室だより

牧師室だより 2012年12月2日 切符を買うこと

 「人生の旅は、どこまで切符を買ったかによって決まる」と、ある本に書いてあった。「切符」とは何か?人生を旅するには知識が必要だろう。知識を得るための切符代は勉強である。本気で勉強する気持ちがなければ、上っ面のなまかじり程度の外面的な知識をちょっぴり手に入れることができるだけである。私はよく生徒に「すぐペンキがはげるような知識はダメだよ。本物の知識を身につけなさい」と言ったものだ。勉強というお金を払って、知識という切符を買えば、知識の世界を遠くまで旅することができるのである。厳しい勉強という犠牲を払わなければ、知識を得るわけにはいかないのである。

 「若い時の苦労は買ってでもせよ」と言う。また「失敗は成功のもと」とことわざにある。大失敗をした時によく言う。「高い金を払って勉強させてもらった」。何事も苦労や努力や失敗というお金を払って、経験という切符を買って、成長の旅を続けることができるのである。

 友情についてもそうである。真の友情は犠牲がともなう。ある金持ちについてこう言った人がいる。「彼は何でも与えるが、自分自身を与えようとはしない」。友情はそれによって利益を得ることではない。他者を利用することではない。友情とは自己を与えることである。これが友情の要求する切符代である。

 人生についてもそうである。よく自分の人生をうらんで、親や時代、社会など他人のせいにする者がいる。しかし、人生は、それほど厳密にではないが、とにかく公平である。つまり、我々は与えた分だけ与えられるのである。自分はなにも与えずに、ただ与えられることばかり期待していたのでは、結局何も与えられないのである。▲信仰生活についても同じである。主イエスは言われた、「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」(マタイ福音書10:39)と。

 あなたはこれらの切符代を払う用意がありますか。