平塚にあるキリスト教会 平塚バプテスト教会 

神奈川県平塚市にあるプロテスタントのキリスト教会です。牧師によるキリスト教や湘南地域情報、世相のつれづれ日記です。

神のビジョン

2014-03-26 09:44:41 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2014年3月23日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

 「神のビジョン」  レビ記25章1-12節

 今、イスラエルの人たちはシナイ山に居る。モーセを指導者として、エジプトを脱出して荒れ野の旅の途中。エジプトでの奴隷生活では当然自分たちの土地は持てない。土地を耕しては畑を作り、そこから作物を得て食べていくなど、自分たちのこととしては経験さえしていない。そんなイスラエルの民族に、神は夢のような約束を語る。土地を得ると言うだけではない。
 
 約束の土地を得て、その生活が始まる前に、神がイスラエルの人たちに向かって、「約束の土地に入ったならば、あなたがたはこのように生きなさい」と語り、新しい生き方を示されたのである。奴隷生活と荒れ野の旅しか知らないイスラエルの人々にとって、土地を耕し、休みが得られる生活の姿は、想像の範囲を越えていたかもしれない。どのような社会をつくっていくのかを神から示されたからこそ、そのような生き方を持つことができたと言えるだろう。
 
 さらに7年を7度数えて50年目は「ヨベルの年」とされ、すべての住民が解放される、土地が返却されるという約束が語られる。負債を負い、貧しく力を失った者が、もう一度人生をやり直すことができる自由と解放が与えられるのである。実際に聖書の記述の中に、「ヨベルの年」が行われたという形跡はない。しかし、その精神は、イスラエルの人々がエジプトから救い出され解放されたという事実が基になっている。人は、神の民として神のものであり、いかなる理由によっても、他者にその自由・自立を侵され続けることはあり得ないという神の意思がこの律法から感じられる。 
 
 神のビジョンは、私たちをプレッシャー(自分の力でなんとかせねばと思うこと)や傲慢(自分のものだから自分の好きなようにしていいはずだ)からも解放してくれる。なぜなら、与えられる土地は神のものだからである。「土地はわたしのものであり、あなたたちはわたしの土地に寄留し、滞在する者に過ぎない」(25:23)からである。約束の地を与えられた民は、約束された土地を神が所有されるものとして取り扱わなくてはならない。神の所有する土地を生きることが、神の民に求められた自己認識だった。
 
 資本主義・所有・自己責任が強調される社会において、土地を所有したり、財産を築いたり、または反対に土地や財産を失ったりする中で、私たちを自由へと解放する戒め、それがヨベルの年の規定である。この戒めは、自由と解放、復活のテーマを含んだキリストの言葉を想起させる。
 
 主イエスが「何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思い煩うな」と語られた時も、「あなたがたの天の父は、これらのものがことごとくあなたがたに必要であることをご存じである」と教えられている。この天の父を信じることなしに明日のことを思い煩わないことは、蛮勇であって、信仰の業ではない。御言葉は神に対する絶対的な信頼なくして、誰も従うことのできるものではない。

  私たちも「7年目に種を蒔くことができず、また産物を集めることができないならば、私たちは何を食べようか」とつぶきやきやすい。しかし、このことを命じたもう神は6年目に私たちを祝福してくださり、3ヵ年分の産物を実らせるお方なのだ。この主に信頼して初めて、私たちは御言葉に従う者となり得るのである。

餅つきは楽しい

2014-03-24 07:34:28 | 牧師室だより

牧師室だより 2014年3月23日 餅つきは楽しい

 先週の木曜日はあいにくの雨だったが、予定通り「炊き出し」を行い、教育館で総勢15名で温かくておいしいトン汁とおにぎりを食べた。翌日の金曜日は、暖かい陽気で、楽しい「餅つき会」を行った。赤ちゃんから高齢者まで50名を超す方々とつきたてのお餅を堪能した。

 餅つきは文句なしに楽しい。餅つきの魅力とはなんだろう?まずはなんといっても、つきたてのやわらかいお餅を食べられるということ。あのおいしさは、市販品のお餅では決して味わうことはできない。次に挙げられる魅力、それは餅つきを通して多くの人と交流が持てるという点。白くあたたかな湯気を立ち上らせるセイロ。一つの臼を囲みワイワイと笑顔で餅をつく子どもに大人。そんな和やかな雰囲気が人との距離を一気に縮めてくれる。

 炊き出しの会食にしても餅つきにしても、みんなでワイワイ言って食べる食事は楽しい。まさに天国。以前にも紹介したが、韓国の詩人金芝河の作品を思いだす。

 飯が天です
 天を独りでは支えられぬように
 飯はたがいに分かち合って食べるもの
 飯が天です
 天の星を共に見るように
 飯はみんなで一緒に食べるもの
 飯が天です
 飯が口に入るとき
 天を身体に迎えます
 飯が天です
 ああ 飯は
 みんながたがいに分かち食べるもの

 この詩は、主イエスとの共食を指し示す。それは神の国が一緒に飯を食うことから始まることを端的に示している。神の国の宣教を担う教会にとって宣教の原点を示している。炊き出しも餅つきも神の国の先取り。

恵みによる救い

2014-03-20 15:06:00 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2014年3月9日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

 「恵みによる救い」  ルカによる福音書18章18-30節

 ここに登場する「ある議員」さんは、支配層に属し、おまけに金持ち。主イエスから十戒の話をされると「そういうことなみな、子どもの時から守ってきました」と答えるほどの模範的な信仰者だと自認している。
 
 そのような人が、なぜイエスに「何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と質問をしたのだろうか?どうも救われるという確信が持てないで、悩んでいたのではないか?
この男は「何をすれば」と聞いている。この男の価値観は「できる、できない」。できれば救われる、できなければ救われない、という価値観からどうしても離れられない。だから、できるという延長線にしか彼の未来は開けない。できない、または負ける、という挫折感を経験したこともないようだ。主イエスに「できないこと」をはじめて言われたので悲しくなったのだろう。ここで、彼の価値観は立ち行かなくなった。

 そのあと主イエスは、「らくだが……」と言われる。これは人間にはできないことだ、と言っているようなもの。だから人々が「それでは、誰が、救われるのか」と思うのは当然。そこで、イエスは言われる。「人間にはできないことも、神にはができる」。救いは神の業だ、ということ。
 
 そのことを、この話がルカ福音書18章においてどのような文脈に置かれているか、その直前と直後の話を見てみよう。戒めをきちんと守り、自分を神の前にふさわしい人間だと自任している「パリサイ人」と対置して、「取税人」「乳飲み子」「物乞いの盲人」が置かれている。いずれも戒めを守りようのない者であり、人々から見下され、主イエスに近づこうとすると「叱られて」いる。しかし、それらの一人ひとりを主イエスは受け入れ、神の国が彼らの上に臨んでいることを宣言する。
 
 だとするならば、今日の聖書個所で「戒めをすべて守っている」と語る金持ちの男に「欠けていたもの」とは、次のように言えるのではないか。つまり「この世の財産を持ち、律法の戒めを守ることによって、神の国に入る資格が得られる」という彼の神の国理解が根底からひっくり返されたこと。そして、「貧しい者」にこそ神の国が宣言されていることを受け入れ、これまで「取税人」や「乳飲み子」「物乞いの盲人」を見下してきた自分の価値観を砕かれ、彼らの仲間に飛び込んでいくこと。それがこの金持ちの男に「欠けていた」ことであり、そのような「価値観の全くの転換」(悔い改め)に導かれて、エルサレムへ向かう主イエスに従うように招かれたのだ。
 
 しかし、そうはいっても「自分のものを捨てて、あなたに従いました」と胸を張る弟子のペテロさえ、このあと主イエスに従いきれない自分を見出し、涙を流す(22:62)。しかし、そのように神に従い、隣人を愛しきれない自分の限界を思い知らされる時、「人にはできないことも、神にはできる」(26-27節)の言葉がまさに私に向けて語られていることを見出すであろう。
 

足るを知る

2014-03-18 18:43:58 | 牧師室だより

牧師室だより 2014年3月16日 足るを知る

 「知足者富」、足るを知る者は富む。紀元前5世紀、中国春秋時代の老子の思想のなかで、最も広く知られている一節である。何事においても足るを知って満足することのできる者が、本当の意味で豊かな人間なのだ、と説いている。

 「知足」とは、単に我慢しろ、欲望を抑えろということではない。モノやお金、名声や地位などといった自分の外側にあるものに振り回されるな、もっと自足して生きよ、との勧めでもある。

 外なる価値も人間にとって欠かせないものだが、外に求め、人に求めるほど、それらに人生を左右され、自分が自分の主人ではなくなってしまう。自分を見失う。だから、必要なものだけあればいい、それ以上はいらないと、どこかでストップをかける。もちろん完全にやめることは難しいが、やめようと努め、人生をコントロールする力を自分の手に取り戻すことが大事なのである。

 そうするうちに、財産や地位とは無関係の、命そのものがもつ輝きに目が向き始める。命だけではない。仕事、健康、家族、身近な生活用品、経験、知識、友人などなど、今与えられているそれらが、いつもと違っていとおしく、またかけがいのないものに思えてくるだろう。その喜びと感謝を積極的に見出していく「自足」。

 「知足」が大事だといっても、何もせず現状にとどまっていればいいというわけではないだろう。老子は、「知足者富」のあとに、「強行者有志」と続けている。勉(つと)めて行う者は志あり。自分を励まし、志をもって努力を続けることが大事と説いている。向上心や努力というのも、幸せに生きるうえで欠かせない鍵の一つ。そして、その鍵を生かすためには、やはり前段階として、知足という言葉を忘れない必要がある。まずはあるがままの自分を受け入れ、そのうえで、よりよく生きようとする。知足と努力、この二つはセットになってこそ力を発揮する。

 この教え、聖書の教えに翻訳するとどうなるか?

 *『不幸な国の幸福論』(加賀乙彦 集英社新書)149-154p参照

友なき者の友

2014-03-18 15:53:12 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2014年3月16日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

 「友なき者の友」  ルカによる福音書19章1-10節

 ザアカイは、「徴税人の頭」と「金持ち」というレッテルを貼られていた。どちらも、この男は強欲な者であることを表わしていた。当時は、徴税人は不正なやり方で富を得、また、仕事上異邦人であるローマの当局者と接触するので汚れた者としてみられ、さらに自分たちを支配しているローマの手先のように思われて、誰からも忌み嫌われ、軽蔑されていた。

 このザアカイが、町にイエスという男が来たことを知って、ぜひ一度会ってみたいと思った。イエスのところへ駆けつけてみたが、イエスはもう大勢の群衆に囲まれて、背の低かったザアカイは見ることができなかった。とっさに彼は、先回りして、いちじく桑の木に登って待った。

 人だかりの中心にイエスはおられた。ああこの人か、そう思った時、「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」、と言われた。どうして私の名前を?どうして、初対面なのに、自分の家に泊まりたいなんて言うのだろう。そんなことをあれこれ考えるよりも彼は喜びのあまり、即座に木から降りてきて、イエスを迎えたのだった。
 
 イエス・キリストを迎えるという行為、ここに彼の新しい人生の一歩があった。もちろん、その前にイエスご自身がこの男を受け入れるという事柄がある。イエスが、はじめにザアカイの存在に目を止めておられたのである。そして、ザアカイの方もイエスの出会いを執拗に求める、そのこと自体が、彼の悔い改めだったのである。
 
 その時、ザアカイはイエスに言った。「わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、誰かから何かだまし取っていたら、それを4倍にして返します」。財産の半分を貧しい者たちに施すというのは、彼の中に憐れみの心が生じたしるしだった。4倍にして返すというのも、律法では強盗をした場合に4倍か5倍の賠償額を支払うことになっていたので、自分の行為を強盗と同じと見ているザアカイの自己への厳しい反省の思いが感じられる。
 
 彼が悔い改めに至った契機は何だったのか?それは、生活自体は何不自由なかったが、共同体からつまはじきされ、関係を断たれ、寂しさをいつも感じていた彼に、イエスは周囲が驚くほどの異なる対応をされたからだ。人々のいる面前で、彼の家に泊まろう、つまり、彼の友になる宣言をされたのだ。彼は、出会いを求めていたイエスから、受け入れられただ。このことが、彼の悔い改めのきっかけになったのだった。罪の悔い改めにはイエス・キリストの愛が先行していた。
 
 ザアカイの応答の後、イエスは、「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから」と言われ、彼も救いの中に置かれている存在であることを伝えた。そして、このことは、「この人もアブラハムの子」と言われたことで、共同体からはじき出されていたザアカイが、その社会に復帰できる人間関係を取り戻す出来事にもなった。それまでザアカイは、神からは「失われていたもの」だった。神から離れて遠いところに行っていた。神に背いて歩んでいた。その彼が、イエスとの出会いによって、神のみもとに立ち返ったのである。

レント(四旬節)を迎えて

2014-03-10 10:12:26 | 牧師室だより

牧師室だより 2014年3月9日 レント(四旬節)を迎えて

 クリスマスとイースターが、キリスト教の大切なお祝いの日であることは最近日本でも広く知られるようになった。この日を迎えるために、代々の教会はアドベント(待降節)とレント(四旬節)という期間を大切にしてきた。

 アドベントはクリスマスの前の4つの日曜日の期間であり、11月30日にいちばん近い日曜日から始まる。レントはイースターの前6回の日曜日を除く、40日間を指している。レントは水曜日から始まることになるので、この日は悔い改めを示す「灰の水曜日」と呼ばれてきた。今年は先週の水曜日(3月5日)からレントに入っている。イースターは4月20日。

 日本ではクリスマスが盛大に祝われ、アドベント・クランツを作りロウソクに火を灯してクリスマスを待ち望む習慣が定着してきたが、レントはまだ充分に心して守られていない嫌いがある。確かにイースターは、春分後の最初の満月直後の日曜日と定められていて、年によって日が変わるので、気がついたら来週がイースターだったということになりかねない。

 さらに、日本の社会では、3月4月は年度替わり。入試、卒業、入園、入学、就職、進級、異動、決算、確定申告、引っ越し……。その合間に、桜はまだかいな、と春を待ち望む心がうきうきわくわくして、何かと落ち着かない。

 教会でも、大切なレントの期間にやはり大切な総会に向けての準備や話合いをしなくてはならない。悩ましい限りである。今年の計画総会は3月16日。さらに、5月の報告総会に向けての準備と何かと心騒がしい時期を迎える。

 しかし、レントは何よりも、私たちの罪をあがなってくださったキリストの苦しみと十字架の死が告知され、私たちの悔い改めと感謝と献身の信仰が深められる時なので、大切に覚えたいと思う。そして私たちは、イエス・キリストの福音が告げ知らせる神の慈しみと赦しとを思い起こし、与えられている信仰がさらに新しくされて、復活の朝(4月20日)を迎えたいと思う。

主告白に生きる

2014-03-05 15:41:37 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2014年3月2日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

 「主告白に生きる」  マタイによる福音書22章15-22節
 
 まず確認しておきたいことは、この世に存在するもので神の支配下にないものはない、ということ。国家といえどもそうだ。だから、私たちは、「神の支配」を厳密に「キリストにおける神の啓示」ととらえた上で、教会の主であるキリストがそれ以外の領域においても、国家においても、主であると告白する。

 教会はキリストを主とし、告白する信仰共同体であり、見えざる神の国のしるしであり、恵みの先取りであるが、国家は市民共同体である。だから、政府の役目は、この市民共同体のメンバーがすべて人間らしく生きていくための生活条件を整えることである。その意味で、人間性を外的に・相対的に保護することである。すべての人間に備わっている基本的人権を尊重しなければならない。何ものも、その人権をおかすことはできない。

 ところが、もし国家が市民共同体の外的保護という枠を越えて、それ自体で神の国のしるしになろうとしたら、国家の宗教化が生じてくる。そして国家が、人々の「良心の主」となろうとする。この過ちを戦前・戦中の日本に見ることが出来る。そこでは神道が、すべての宗教を越える「超宗教」として、日本の「国体」を規定した。こうして「国家神道」が出来上がり、国家は宗教化された。

 これに対して、国家は限界を守るべきであって、疑似宗教となってはならないという主張が政教分離の原則である。日本は、国家が宗教化しやすい精神風土を持っている。かつては神道は超宗教であるといったが、今度は神道は宗教ではなく習俗であるという言い方で、国家と神道の癒着が計られようとしている。さらに、今、巧妙に出してきているのが「公益」、「公」という言葉。自民党の憲法改正草案では、いろいろなところでこの文言が出てきて、私たちの人権に縛りをつけている。

 市民として国や地方の政治に参与するのは信仰者にとっても当然のことであり、国が再び同じ誤りを犯さないように見守るのは、私たちのつとめであろう。「神のみ旨に反しない限り」という言葉は、信仰者の政治参加が場合によっては、批判的・抵抗的なものでもあり得ることを意味している。

 政教分離の原則は近代においてバプテストの先達が勝ち取った重要な嗣業であり、世の終わりに至るまで私たちの課題であり続ける。宗教と政治の混同、教会と国家の癒着は人権を抑圧し、批判を許さぬ国家権力の神聖化と教会の世俗権力化をもたらす。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」(マルコ12:17)。



会話から対話へ

2014-03-04 10:38:15 | 牧師室だより

牧師室だより 2014年3月2日 会話から対話へ

 先々週のこの欄で「対話力」の大切さについて書いた。そして最後に、「対話力」、時間をかけて取り組まなければならない宿題である、と反省を込めて決意を述べた。

 そんな折、何よりも教会の中に対話がないのではないか、教会こそ対話を生み出す場であるべきではないか、という思いが強く起こされた文章に出会った。あるシンポジウムでの渡辺祐子先生(明治学院大学教授)の発題の記録である。

 会話と対話がどう違うのかという問題を取り上げ、平田オリザ氏の言葉を引用して、会話とは同じような環境の中に生活する、似たような意見を持つ者同士によるもの、対話は、まったく異なる出自を持ち、考え方も立場もさまざまに異なる者同士の間で交わされるものと定義していて、日本社会には対話がないと言い切っている。

 対話をする時に大事なのは、どんなふうにして相手に言葉を届けるか、自分の思いを伝えるかということ。言葉を相手に届ける努力。

 対話を難しくしてしまうものとして、渡辺先生は、相手にレッテルを貼ることだと言われる。それは、対話どころか存在そのものを排除しようとすると指摘される。さらにレッテル貼りに人間観の貧しさと同時に硬直性を感じるという。その「精神のこわばり」(精神科医・野田正彰氏)を持っている人は、自分と異なる見解を持つ人、出自の違う人、宗教的背景が異なる人との間に対話が生まれる可能性が極めて低い、と言われる。対話の回路を自ら断ってしまうことになるからである。

 では、対話で大切なことは何か。それは「心を込めて伝える」ことだという。私は本当にこのことをあなたに伝えたい、疑問があったら何でも言ってほしい、一緒に考えていこう、こんなふうにして、対話の回路を生み出すことだ。伝道って、そういうことなんじゃないだろうか。相手の言葉に耳を傾け、相手に届く言葉を探り続けて、自分自身が変わることなしに伝道はできないと思わされた。

*『この国はどこへ行くのか!?』(いのちのことば社 2014)参照。