平塚にあるキリスト教会 平塚バプテスト教会 

神奈川県平塚市にあるプロテスタントのキリスト教会です。牧師によるキリスト教や湘南地域情報、世相のつれづれ日記です。

目覚めたヤコブ

2010-04-28 12:21:57 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2010年4月25日    杉野省治牧師

「目覚めたヤコブ」  創世記28章10~22節

 ヤコブは、家督権(祝福)をだまし取るために目の不自由な父イサクをあざむき、兄エソウから家督権をだまし取った。しかし、ヤコブは兄エソウの怒りから逃れるため、伯父ラバンのいるハランに逃げざるを得なくなった。

 ヤコブの逃亡生活は、孤独で困難な長旅であった。荒野での孤独な野宿。やむなく硬い石の枕。いつ獣に襲われるかわからない恐怖。その夜のこと、ヤコブは、神の使いが、天にかかる梯子を、昇り降りする夢を見た。そして、眠るヤコブの傍らに主が立って語りかけた(28:13-15)。それは神からの祝福であった。
 
 ヤコブは夢で見た事柄を、ただの夢、幻とせず、現実の言葉として受け止めた。ヤコブは、眠りから覚め、「まことに主がこの場所におられるのに、私は知らなかった」(16節)と主が共にいてくださることに気づかされた。思ってもいないところにも神が共にいてくださる、ということこそが大きな祝福であった。そこでヤコブは何かをしたい、という思いから起き上がり、石を立て、油を注ぐという「行い」がわき出てきた。この出来事を記念しておきたいという率直なものだったのだろう。その場所を「ベテル(神の家)」と名付けて礼拝した。

 なぜなら、神がヤコブに見せられた夢は、「先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしている」(12節)夢だったから。「天の門」(17節)が石を枕とする彼の上に開けていた。罪を犯したため、父イサクの家に戻れない、まさに家の門を閉ざされたヤコブに、永遠の父である神は、「天の門」を開いてくださっていることに気づかされた。不安と恐怖と絶望と孤独のただ中にも神がおられることに気づかされた。ヤコブは言う。「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ」と。ヤコブは気づくのである。つまり、不安と恐怖と絶望と孤独のただ中にいる私たちの人生を、神は「神の家」とされるということに。

 ヤコブのように、私たちが寝ている時、神が傍らにおられる。目覚める時、私たちは、神の慈しみに囲まれている。天が私たちの頭上に開いている。あなたがたがどこへ行こうとも神は、あなたを守られて、天の門を開いておられる。神は、言われる。「わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない」(15節)。  

 ヤコブは、どんなところに逃れても、神は、いつも共にいますことを悟った。兄や父をだまし家督権(祝福)を奪い取っていた自分勝手な自分自身に気づかされた。そして、人間の祝福ではなく、神の祝福を受けて生きることへと目覚めていく。
 
 たとえ、私たちが人生の旅路に疲れても、命の危機を覚えても神はその荒野のただ中にいまし、荒野を祝福への転機としてくださる。いつも、神はわたしたちと共におられる。私たちは守られている。私たちは一人ぼっちではない。私たちの頭上には天の門が開かれている。

考える力、生きる力

2010-04-27 11:45:30 | 牧師室だより

牧師室だより 2010年4月25日 考える力、生きる力

 「クラスでケータイ持ってないの僕だけなんだけど」と子どもにケータイをせがまれたら、あなたはどう答えますか?この子どものセリフを題名にしたエッセイ本(朝日新聞出版 2010年) の著者は、1980年代、投稿雑誌『ビックリハウス』の名物編集長で今や三児の母である高橋章子さん。

 著者はこの本で、子どもが小中学生だったころ、「ケータイを持つか持たないか」をめぐって繰り広げた「終わりなき攻防戦」を描いていく。ただの子育て奮闘記ではない。そこから、生きにくい現代を生きる子どもたちに対して、親として、大人としてどう対峙すべきかという問いが真っ正面から突きつけられる。

 著者も書いているとおり、ケータイ自体は問題の切り口にすぎない。「大切なのは、日々、様々な事象を前に、逃げることなく子も親も向き合って前に進もうとしているのかどうかということ」、「子どもとの会話において大事なことは、聞く耳は持っても、異論・持論に関しては『折れない、ひかない』こと」、「親子の認識は違ってナンボ。違ってフツーで、違っているから面白い。価値観の違いと対峙し、『VS.』し続ける毎日からこそ、自分には何がどうして必要なのかを考える力が育っていく」。

 最近は子どもだけでなく大人も考えない。考えることをメンドくさいと避け、すぐマニュアルを求めたがる。言われたことしかしない指示待ち族の増殖。もっぱらの関心は「KY」(空気が読めるかどうか)であり、自分の立ち位置に気をつかいストレスをためている。要するに自信がないのだろう。考える力をつけることこそ生きる力が育つ。

 この本、面白おかしく書かれているけど、人と人とのつながりとは何か、つまり生きていくって何かを、マジメに語った「テツガク」本。「クラスでキョ―カイ行ってるの僕だけなんだけど」と子どもに言われたら、どうする? 

信・望・愛

2010-04-21 17:20:12 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2010年4月18日    杉野省治牧師

「信・望・愛」 マルコによる福音書 13章3~13節

 マルコ13章は小黙示録といわれ、主イエスが終末について語られたことが記されている。3節から13章の終りまでには、世の終わりと、キリストの再臨について記されている。
 
 4節で弟子たちは、終末がいつ来るのか質問した。主イエスはそれに対して、「気をつけなさい」(5節)と言われた。その後も9、23、33節に繰り返し「気をつけて」と言われている。それは、私たちはこの世の現実に惑わされて、神ご自身の支配、生ける神から目を離してしまうことがあるが、そうならないように神を見つめていくことが大切であることを教える。終末がいつ来るかということよりも、私たちを造り、愛して下さる神を、どんな時にも見つめて生きていくことが、「気をつける」ということだと教えられる。
 
 私たちはイエス・キリストの十字架のメッセージにのみ耳を傾け、他のことに気を奪われないようになって初めて、この厳しい現実を生きていくことができることを知っている。困難や苦しみに出会う時、それは確かに苦しいが、そんな時にも、神が私を愛しておられるという聖書のメッセージを聞き続ける時、何にも惑わされることなく歩み抜けることができる経験を証しすることができる。
 
 13節に、「また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」と書いてある。誰でも人に憎まれるのは好まないだろう。耐え忍ぶというのは、「がまんする」とは違う。神の支配、愛を信じて生きていくことである。聖書で言う「忍耐」とは、ただ辛抱しているということではなく、希望を持って生きることである。ロマ書5:3-5に「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」とある。

 だから私の人生がどんな人生であっても、神から愛されていることを信じるとき、私たちは希望を持って生きていくことができる。人は出会いによって生きる。独りでは生きられない。聖書は、わたしたちに語りかけられた神のことば。神の言葉はイエス・キリストを指し示している。その聖書のことばに耳を傾け、聖書のことばと対話する。その中で、人は生きる意味を教えられ、自分の存在意義に気づく。愛すること、信じること、希望を持つこと、支え合うこと、赦すこと……。どれも大切。しかし、答えを自分の中に見出すには、限界がある。だから聖書に聴きつつ生きていく。そして整えられて、神に用いられていく。皆さんにぜひそのような信仰と希望と愛を神からいただいて、喜びの生活へと歩んでいただきたい。

変えられること、変えられないこと

2010-04-19 11:43:50 | 牧師室だより

牧師室だより 2010年4月18日 変えられること、変えられないこと

 米国の神学者にして牧師のラインホールド・ニーバー(1892-1971)の祈りに「神よ、私たちにお与えください。変えることのできないものを受け入れる冷静さと、変えることのできるものを変える勇気を。そして、その二つを見分けるための知恵を」がある。

 私たちはともすると、変えることができないものに執着してしまいがちである。その一方で、努力すれば変えられるものを変えられないとあきらめたり、変えていくための労苦をさけたり、失敗して傷つくことを怖れて、これは変えられないものなのだと自分で自分をごまかしたりする。

 生まれ育った環境、過去の選択、すでに起きてしまったことや失ったもの、不治の病や障害、容姿などは、いくら努力しても自分の力では変えようがない。

 そういったものに執着し続け、もっと背が高かったら、裕福な家に生まれていたら、こんな病気にならなければ、あのとき別の道を選んでいたらと思い悩んでいる。つらくなるだけである。ならば、変えられないこととして受け入れ、次のステップに向けて新たなスタートを切ったほうがいい。しかし、それ以外のことは、少なくとも変えようと努力するだけの価値あるものではないか。すぐには変わらなくても、長く続けているうちに変化が現れるかもしれない。一人では無理と思われても賛同者が現れるかもしれない。

 もちろん、変えたいと願い努力しても変わらないことはあるだろう。しかし、たとえ変えることができなくても、そのプロセスを通して確実に何かを得られる。人間関係も広がってくるだろう。そして何よりも、挑戦し小さな失敗や成功を繰り返すうちに、自分という人間や世の中の仕組みが分かってくる。自分というものに少しずつ自信が持てるようになってくるだろう。

 ニーバーの祈りから、今一度自分の生き方を見直してみよう。

浄蓮の滝

2010-04-15 11:17:59 | 風景
浄蓮の滝
私たち日本バプテスト連盟の研修宿泊施設「天城山荘」の近くにある。研修や会議で疲れた心身のリフレッシュに最適。かつて滝の付近に「浄蓮寺」という寺院があったことから「浄蓮の滝」という名称がついたといわれる。狩野川の上流部の本谷川にかかる。鉢窪山の噴火により作られた。高さ25m、幅7m。日本の滝百選の一つ。

まことの権威

2010-04-14 13:53:59 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2010年4月11日    杉野省治牧師
 
 「まことの権威」 マルコによる福音書12章35~13章2節

 エルサレム神殿と最高法院による管理支配は、庶民の生活を倫理的にも経済的にも圧迫していた。神殿を維持するために、献げものが神殿税として半強制的に課せられ、それによって貢献度が計られるようになっていた。さいせん箱に、これみよがしに大金を投げ入れる金持ちや最高法院の議員である律法学者たちは、大手をふって上座に迎えられ、一方、経済的にも困窮しているやもめたちは、身を縮めていくしかなかった。主イエスはこうした社会状況の中に踏み込んで神殿や最高法院に対峙され、この世の権力や権威を厳しく批判された。「上席や上座を好み、やもめたちの家を食い倒しながら祈っているような者たちは、厳しいさばきを受ける」(40-41節)と痛烈に批判された。

 主イエスは、羊飼いから王に登りつめたダビデも主なる神の前では一人の人間に過ぎないことを話された。主イエスは「キリスト」を「ダビデの子」と呼ぶのを良しとされなかった。「ダビデの子」待望の教えは、神殿権威へのさらなる強調であり、神殿によるユダヤ社会統一実現へのいっそうの推進につながるものとなっていたからである(35-37節)。

 その上で、神殿に出入りする律法学者たちが尊敬のまなざしを受けることのためにあざとく振舞っていることを痛烈に批判された(38-40節)。絶えず、自分への評価を気にしながら、大事に扱われることを願う人間の本質(罪)がそこにあらわされている。

 次はレプタ2枚を投げ入れたやもめの話。直前の文脈からすると、まことの神に従う人間であるかどうかが描き出された箇所といえる。多くの金持ちの関心はどこに向けられているのか。また一方の貧しいやもめの関心はどこにあったのか(41-40節)。さらに、神殿を見上げて感激している弟子に対しても、むげにそれを退け、神殿の崩壊を宣言された(13:1-2)。これは、弟子が神殿による権力に心ひかれることへの明確な拒否である。

 このような神殿支配を批判する主イエスの教えとふるまいに、一方では感激して迎える「群衆」の姿が描かれる。「大勢の群衆は、喜んでイエスに耳を傾けていた」(12:37)。それは、神殿による社会支配体制の下で、管理される側に置かれていた人たちが、主イエスによって身元に呼び出されてきたことの証しである。

 このように一貫して時の権力や権威の象徴と対峙し、「まことの権威」を指し示す主イエスの姿から、私たちはどこに身を置き、何をよりどころとすべきか問われている。今日もまた、「神殿」は違ったかたちでこの社会のあちこちに君臨している。現代の神殿は何か。財産、学歴、会社、地位、名誉、家柄……。

 立派ではあるけれども、富や権力の秩序によって成り立っている空虚な神殿は、どんなに外見は素晴らしくともいずれ崩される。私たちはそのような目に見えるものではなく、互いに仕え合う関係、互いに愛し合う関係を壁や柱にした神殿(神の国)を建設することが求められているだろう。それは、まことの権威を持ってこられた主イエスが、十字架で命を捨てられることを通して始まっている。私たちの教会が神の国の建設のご計画の端っこに加えられていることを喜び、励みたい。主にあって世に仕える業、愛の業へと教会からそれぞれに押し出されていこう。私たちの働きの前線は、それぞれの生活の場にある。

サポーティングハウス・ひだまり開設

2010-04-13 09:35:18 | サポーティングハウスひだまり

サポーティングハウス「ひだまり」開設の趣意とご協力のお願い                  

 この度、私どもは社会的に弱い立場にある人たちへ生活の改善や自立のための支援などを
行なう目的で民間アパートの一戸を借り、2009年12月にサポーティングハウス「ひだまり」を開設致しました。
 
 厳しい社会に置かれている人たちが、サポーティングハウス「ひだまり」を拠点にした人と人とのつながりの中で、自立への道が歩めるよう支援できればと願っています。そのために、この場所を拠点に下記のようなことを行うことにしております。

 ①生活相談や自立のための支援。 ②緊急に必要な居所、食料、衣類等の提供。 ③目的を共有する団体や地域と連携して事業の推進。 ④学習会等の開催。 ⑤その他会の運営を支える活動。

 現在、既にこれらの活動はスタートしており、やむを得ず野宿をしている方々への月2回の食事会、生活相談などを実施しております。スタートしたばかりで、手探りのところも ありますが、とにかく困っている方々をすこしでもサポート出来るようにと願っています。多くの方々の物心両面でのご協力をお願い致します。下記の要領でご協力頂ける方を募っております。よろしくお願い致します。

代 表 尚和のりこ(平塚診療所職員)
賛同者 杉野省治(平塚バプテスト教会牧師)
賛同者 片山禎二(日本基督教団平塚中原教会員)
賛同者 井上駿(ひらつか自治体財政研究会代表)
賛同者 今岡美千代(なぎさハウジング)
賛同者 高山 梢(株・オフィス木島)


この会の目的に賛同し、正会員または賛助会員として協力して下さる方は、下記に振込をお願いします。
・正会員 :年会費一口12,000円以上何口でも(分割可)
・賛助会員:年会費一口1,000円以上何口でも
・寄付金(カンパとして)
郵便振替口座:00270-6-49200
加入者名:サポーティングハウス ひだまり

ひだまり所在地:平塚市代官町29-17 五舟荘A号