平塚にあるキリスト教会 平塚バプテスト教会 

神奈川県平塚市にあるプロテスタントのキリスト教会です。牧師によるキリスト教や湘南地域情報、世相のつれづれ日記です。

手紙 ~親愛なる子どもたちへ~ ①

2010-05-31 09:24:51 | 牧師室だより

牧師室だより 2010年5月30日 手紙 ~親愛なる子どもたちへ~ ①

 この詩は私が通っているカウンセリング研修講座で紹介されたもの。その日は、認知症―高齢者―へのケアについての学びであった。この詩の原作者は不詳、日本語訳者は角智雄さん。曲もつけられていて歌うことができる。長い詩なので一度に載せられなかったのは残念だが、次回後半を紹介する。

年老いた私が ある日 今までの私と違っていたとしても
どうかそのままの私のことを理解して欲しい
私が服の上に食べ物をこぼしても 靴ひもを結び忘れても
あなたに色んなことを教えたように見守って欲しい
あなたと話す時 同じ話を何度も何度も繰り返しても
その結末をどうかさえぎらずにうなずいて欲しい
あなたにせがまれて繰り返し読んだ絵本のあたたかな結末は
いつも同じでも私の心を平和にしてくれた
悲しい事ではないんだ 消え去ってゆくように見える私の心へと
励ましのまなざしを向けて欲しい
楽しいひと時に 私が思わず下着を濡らしてしまったり
お風呂に入るのをいやがるときには思い出して欲しい
あなたを追い回し 何度も着替えさせたり 様々な理由をつけて
いやがるあなたとお風呂に入った 懐かしい日のことを
悲しい事ではないんだ 旅立ちの前の準備をしている私に
祝福の祈りを捧げて欲しい         (次回後半に続く)

 カウンセリングとは「沈黙を聞く(沈黙への傾聴)」ことに尽きると言われるが、難しいことである。神の声を聞くことも同様である。

F姉の証し

2010-05-29 11:38:26 | 教会案内

 F姉の証し

 住み慣れた横浜を離れて、今年の一月末に平塚市西八幡1丁目に引越してまいりました。私にとって平塚は、1982年から結婚生活の最初の約2年間を過ごした懐かしい所です。平塚バプテスト教会に導かれましたことを心から感謝しております。
 
 私は1969年の春、中学3年生になるイースターに横浜の栗田谷という丘の上にある捜真バプテスト教会で、千葉勇牧師よりバプテスマを受けました。両親はキリスト教徒ではありませんでしたが、教会の幼稚園に入園したことによって教会学校に通うようになりました。小学校、中学校、高校、そしてその後の進学先も宣教師によって、キリスト教の信仰の上に建てられた学校で学びました。特に母校である小・中・高はキリスト教教育をとても大切にする学校で、毎朝行なわれる礼拝、週に一度の聖書の授業、修養会、宿泊での自然教室、特別礼拝など様々な機会が与えられていました。そのような中で幼い時からごく自然に神の存在を受け入れていました。特に心を静めて御言葉を聞き、讃美し、祈って一日の学校生活を始める礼拝の時が好きでした。それは自分自身を見つめる時間でもありました。
 
 中学一年生の秋の修養会で、私はイエス様との魂を激しく揺り動かされるような、火花の散るような出合いを経験しました。信仰について、愛について、罪について、信仰を持って生きていくことの力強さについて、そしてイエス様の御生涯について、その修養会の講師でいらした日野綾子先生は篤く語って下さいました。聖書の御言葉の一つ一つが私の心の中に深く染み込んでゆくのをはっきりと感じました。そして主を信じる信仰を持って、キリスト教徒として人生を歩んでいきたいと心から願い、バプテスマを受けました。
 
 教会生活の中では、中高生の時には中高科礼拝での奏楽を、その後は夕礼拝の奏楽を、また教会学校のスタッフとして、そして三十年間聖歌隊員として毎週の聖日礼拝で讃美をしてきました。私の好きな讃美歌の一つに、「歌いつつ歩まん」という曲があります。思いがけない出来事に直面した時、試練の中にある時、人の言葉に心が乱れて苦しくてたまらない時、そしてその為に教会から離れていた時、讃美によって強く支えられました。一人の産婦人科医師の手によって次女の命が絶たれた時も、母の突然の死も、続けて父が召された時も、自ら病を得た時も、
マタイによる福音書11章28節29節の「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」という御言葉、
ローマの信徒への手紙5章1節~5節「このようにわたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」という聖句、そして、「失望することはあっても、絶望してはならない。」という教えが心の底から湧き上がってきました。

 祈ること、讃美することを与えられ、「あなたを愛しているよ」という主の眼差しをしっかり感じることができる、そのことを心から感謝します。イエス様が十字架の死と復活をもって示してくださった愛を感謝し、その愛に答えて、その愛に反射して日々の生活を主にささげていきたいと願っております。

愛にとどまる礼拝

2010-05-27 12:10:09 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2010年5月23日    杉野省治牧師

 「愛にとどまる礼拝」  使徒言行録1章6~14節

 使徒言行録の冒頭において、主イエスが彼の弟子たちに「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(使徒1:8)と約束して昇天した後、最初に弟子たちがしたことは二階部屋に集まることだった。そこで彼らが行ったのは、敬虔なる平凡事ともいうべき行為、すなわち「彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた」のである(使徒1:14)。
 
 聖霊降臨の力と全世界に対する証人となるという約束が弟子たちを奮起させたのだとすれば、その直後に予期することは、使徒たちがより活動的な形で実際の反応を示すということではないだろうか。主イエスの革命的な活動の証言は、どのような方法で開始するのがふさわしいのだろうか。教会に求められる行動主義とは、たんなる息もつかせぬ忙しさとか激しい人間的な努力といったもの以上のことではないだろうか。主イエスの弟子たちは「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」(ルカ18:1)と教えられた人々であった。祈りは使徒言行録に出てくる教会の主要な活動であり、それは他のすべての活動に優先するものであって、イエス・キリストによってこの世界に生じた出来事を言葉と行動によって証言しようとする教会の力の源泉となるものであった。祈りは、教会のひとつの「活動」というよりも、むしろ教会の生命そのものに関わるものである。

 私たちが神を礼拝するのは、功利的な目的や実用主義的な目的のためではない。そうではなくて、神に愛されているがゆえに私たちは神を礼拝するのだ。神は神であるがゆえに賛美されるべき存在であって、利用されるべき存在ではない。たしかに言葉に表現できないような神の恵みを礼拝の中で往々にして経験することがあるとはいえ、私たちはなにかを獲得するために神を礼拝するわけではない。礼拝は、愛のもとにとどまるという出来事である。ある神学者がキリスト教礼拝のこうした本質について「高貴な時間の浪費」と適切に表現した。かけがえのない祝福に満ちた時間とでもいえるだろう。
 
 私たちの祈りは、私たちの信仰に先行する。すなわち主日の礼拝行為は、私たちの神学的反省や月曜日以降の私たちの生き方に先立つものなのである。礼拝とは、ギリシア語の原意によれば「人々の仕事」を意味する。教会における私たちの礼拝は、この世界における私たちの仕事に先行するプレリュードであり、その源泉となる。私たちの生活は礼拝に始まって、礼拝に戻ってくる。言い換えるならば、私たちの生活は祈りに始まって、祈りに終わる。その間、いろいろなことがあるだろう。必ずしもよいことばかりではない。悲しいこと悔しいこと苦しいこといやなことなどもあるだろう。しかし、祈りに始まって、祈りに終わる信仰生活においては、すべてのことはこの祈りにはさまれている。祈りによってサンドイッチにされているがゆえに、苦しみは苦しみでなく、悲しみは悲しみで終わらないのである。祈りによって慰められ、励まされ、力を受けるのである。そして、立ち上がり、主のために用いられていくのである。

神の引き渡しのドラマ

2010-05-27 11:13:18 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2010年5月16日    杉野省治牧師

 「神の引き渡しのドラマ」  マルコによる福音書14章43~50節

 劇作家の別役実氏がある本の中で、「一つの集団は、一人の犠牲者を生み出すことによって完成される。つまり、その時、集団は論理的に構成されるのである」と書いている。この別役氏の言葉を私なりに解釈すれば、裏切り者は最初から存在するのではなく、一人の犠牲者が生れるためには、一人の裏切り者の存在が必要となる、ということなのではないか。劇作家の別役実氏の目には、兵士たちによって捕らえられている犠牲者イエスと、イエスを引き渡した裏切り者ユダとが舞台の上で交叉しながらドラマが進展しているように見えているのではないだろうか。

 イスカリオテのユダという人物が私たちの心をどこか捉えて放さないのは、ユダの裏切り自体にあるのではなく、ユダの裏切りが犠牲者イエスを生み出しているという、その相関関係に惹かれるからではないか。あえて言えば、イエスが犠牲者となるためにはユダの裏切りが必要であったということ。その意味では、イエスとユダ、それは表と裏として表裏一体だったのである。

 この「裏切り(引き渡す)」という言葉は、マルコ福音書では10回使われているが、ユダに対して5回、祭司長たちに対して2回、ピラトが1回、人の子(イエス)が「引き渡される」と受身形で2回使われている。これを見るとユダだけが「引き渡す(裏切り)行為」を行ったのではないことが分かる。これを図式化すれば、「ユダはイエスを祭司長たちに引き渡し」、続いて「祭司長たちはイエスをピラトに引き渡し」、そして最後に「ピラトはイエスを十字架に引き渡した」となる。

 このように「引き渡し」が人の手から人の手へと、つぎつぎと行われていることが読み取れる。受難物語は、実はユダの「引き渡し」から始まり、祭司長たち、そしてピラトを経て、最後に十字架へと引き渡される出来事を描いているものなのである。ユダはその役割のはじめを演じているにしか過ぎないということだ。

 実はこの受難物語は聖書には書いてないが続きがある。それはユダの「引き渡し」から始まり、祭司長たち、そしてピラトを経て、最後に十字架へと引き渡され、そして主イエスは十字架につけられたが、真実に言うならば「今もつけられている」。今も血を流しておられる。なぜなら、この私やあなたがピラトに続いてイエスを「引き渡している」からである。

 ところで、この「引き渡す」という言葉は、同時に「ゆだねる」、「任せる」という意味を持っている。むしろそちらのほうがこの場面では正確かもしれない。受難物語における一連の出来事は「ゆだねる」物語ともいえるのである。神の救いのドラマにゆだねるということである。神の救済のご計画が進められているということである。イエスの受難の表の舞台では、ユダ、祭司長たち、そしてピラトと群衆がイエスを十字架に「引き渡す」ドラマを演じている。しかし、見えない裏の舞台では神の救いのドラマが進行しているのである。「引き渡される」イエスが主役となって、もう一つの脚本、いわば神の救いの脚本に従ってドラマが進んでいるということである。目に見える人間の営みは今も悲喜こもごも続いている。しかし、見えないところでは、今も主イエスが十字架上で私たちのために血を流し続けておられる。ここに神の救いのドラマがある。ここに神の愛が示されている。この神の愛にゆだねる、ことこそが信仰なのである。

ビッグイシューって知ってる?

2010-05-24 06:49:32 | 牧師室だより

牧師室だより 2010年5月23日 ビッグイシューって知ってる?

 「知らないなー。はじめて聞いたよ」。ビッグイシューとは、ホームレスの人々に仕事をつくり自立を応援する雑誌のことなんだ。300円の「ビッグイシュー」の雑誌を路上で売って、160円が販売者の収入になる仕組みなんだよ。
 
 「どこで売ってるの?」本屋さんやコンビニでは売ってないよ。さっき路上でと言ったけど販売場所は決められているんだよ。神奈川県では、JR横浜駅、JR関内駅、JR川崎駅、東急溝の口駅、近くではJR茅ヶ崎駅のそれぞれ駅前で販売しているよ。平塚でも始めようと、今ホームレス支援の関係者が準備しているところ。

 「どんな雑誌なの?」これがなかなか読みごたえのある雑誌なんだよ。それでいて商業雑誌にはあまり取り上げられない身近で興味のある話題を記事にしているから、300円の価値は十分にあると思うね。ちなみに5月1日発行の142号はちばてつやの「あしたのジョー」が表紙を飾って、ちばさんのインタビューが載っているよ。

 「もうすでに142号も発行されているんだね」。そう、毎月2回発行(1日&15日)されてるんだ。次号のスペシャルインタビューは宮本亜門さんだって。先日、横浜駅で買った時、ホームレスの販売者と少しおしゃべりしたんだけど、最近は不景気か、あまり売れないんだそうだ。しかし定連客はいるらしいね。少しは安心したけど。

 「ビッグイシューって、どんな意味なの?」う~ん、よく分かんない。イシュー(ISSUE)は英語で発行とか支給、問題とかいう意味だから……、今度聞いてくるよ。この活動は、英国ロンドンではじまって、今欧米の各都市で販売されているそうだ。寄稿、写真やインタビュー、取材などに協力してくれるアーチストや作家、芸能人、政治家、学者など有名人はみんなボランティアなので、出版費用が安く、それだけ販売者の収益が大きくなるそうだ。今度機会があったら買ってね。