平塚にあるキリスト教会 平塚バプテスト教会 

神奈川県平塚市にあるプロテスタントのキリスト教会です。牧師によるキリスト教や湘南地域情報、世相のつれづれ日記です。

チャリティー・コンサート ③

2011-01-31 07:29:17 | 牧師室だより

 牧師室だより 2011年1月30日 チャリティー・コンサート ③

 アムネスティについて詳しく教えて、という要望がありましたが、実は私も詳しく知らなかったのでいろいろ調べてみました。それを紹介します。

 確かにアムネスティは国際的な人権擁護団体で、日本にも1970年に支部ができています。はじまりは1961年当時軍事政権下にあったポルトガルで、学生二人がカフェで「自由のために!」と乾杯しただけで逮捕された記事に衝撃を受けた英国の弁護士ピーター・ベネンソンが新聞に投稿した記事が欧米で大きな反響を呼び、設立のきっかけとなったということです。

 聞き慣れない「アムネスティAmnesty」とは、英語で「恩赦」を意味します。その目的は、1948年に国連総会で採択された「世界人権宣言」に基づき、(1)暴力を用いないのに、信念や信仰、人種、言語、性などを理由として囚われた「良心の囚人」の即時・無条件の釈放を求める。(2)すべての政治囚に対する公正で速やかな裁判、その他の刑事手続きの保障を求める。(3)拷問、死刑の廃止を求める。(4)軍・警察などによる勝手な市民への殺害や人間を闇から闇に葬る失踪を阻止する、と4つあり、そのために活動しています。韓国の元大統領・金大中もかつて「良心の囚人」として、救援活動の対象になったそうです。ビルマのアウンサン・スーチーさんも今なお救援活動の対象であります。

 今度お呼びするヴラダン・コチさんもかつて「良心の囚人」として世界中の会員から釈放を求める手紙が送られ、1989年のチェコ民主化運動「ビロード革命」で釈放された経験を持たれています。コンサートでは、きっとその当時の話をされると思います。

 5月1日のコンサートでは、会堂いっぱいに人を集めたいのはもちろんですが、それが目的ではありません。なんといってもコチさんの活動に共感し、少しでも支援できればというのが願いです。また、コチさんのチェロ演奏を通して感動と勇気をもらいたいし、多くの人と分かち合いたいと願っています。そういう思いを込めて、お誘い下さい。

聖霊と教会の二人三脚

2011-01-27 16:42:01 | 説教要旨

 (先週の説教要旨) 2011年1月23日 主日礼拝宣教  杉野省治牧師

 「聖霊と教会の二人三脚」 使徒言行録13章1-12節 

 今朝の聖書箇所13章から14章にかけて、シリアのアンティオキアの教会が世界宣教の拠点となって、バルナバとパウロを宣教のためにローマ世界に向けて送り出す様子が書かれている。

 1節にはこの二人以外の指導者たちの名が記されている。シメオンは十字架を負わされたキレネ人シモン(ルカ23:26、マルコ15:21、ローマ16:13参照)ではないかという推測もある。マナエンは領主の乳兄弟であり、ここに挙げられている5人が何れもギリシア・ローマの文化圏で育った人々だったことや、有力な指導者5人のうち2名までを世界伝道に派遣したことからもアンティオキア教会のグローバルな性格と世界伝道にかけた姿勢がうかがわれるだろう。
 
 しかし、「聖霊が告げた」「聖霊によって送り出された」と記されているように、それはどこまでも聖霊の働きによるものだった。バルナバとサウロは、新しい宣教のために「選び出され」る。彼らは自発的に動く「自主的行動者」ではない。この福音の進展への新たな歩みは、聖霊によって宣告され、断食、祈り、按手を通して、教会によって送り出されていくのである。聖霊と教会は二人三脚で協力して、このわざを進めていったのである。だから、彼らが第1回伝道旅行を終えたとき、まず教会に戻り、報告したことが14:26-27に述べられている。伝道は私的なものではない。聖霊に導かれた教会のわざである。だから、私たちもそれぞれに礼拝からこの世に派遣されるのである。
 
 さて、神はご自分のご計画を進めるために、実にいろいろな人、器を用いられる。それは、一人ひとりが、優れているという意味ではない。サウロはキリストの迫害者であった。ここに出てくるヘロデはヘロデ・アンティパスのことで、ヘロデ大王の子どもで、その頃のガリラヤの領主であった。あのイエスを亡き者にしようとしたヘロデの関係者が、しかもその領主と一緒に育てられた者が、今、イエスを信じる人の中にいるとは、驚くほどのことである。神は今、アンティオキアの異邦人の教会を用いられる。それもまったくいろいろな人を神は用いられる。常の人間の基準では一緒になれないような者を福音の大きな目的のために、用いられるのである。私たちは普通、「あの人は駄目だ」と言う。しかし、それはいつもその人の過去から見ているのである。ところが、神は必ず人を現在から、いや将来からご覧になる。「自分は駄目だ」と言うのも同じである。駄目だと思うそこで、神の導きを信じ、将来を見つめよう。
 
 しかし、そのためには、条件がある。私たちが、聖霊のもとに自由であること、自分自身を明け渡すこと、そして心を合わせることである。彼らの一致と力とは何だろうか。祈りである。しかもここには断食して祈るとある。断食とは、何も食べず、何もしなくなることにほかならない。断念するということである。こうして、私たちが空しくなったとき、神の力が働く。聖霊が命じる。聖霊なしに走り出す人は、途中で疲れ果てる。今の私たちは持ちすぎていないだろうか。有り余っているために、断食などと言って笑うが、神は私たちが何も持たないところに来られる。神はこのような群れ、教会を用いて、聖霊と二人三脚でご自分のわざをすすめていかれるのである。

ヴラダン・コチ チェロコンサート inよこはま ご案内

2011-01-25 10:46:42 | 教会行事
ヴラダン・コチ チェロコンサート inよこはま
~魂の自由と人間の尊厳を求めて~
 
2011年4月23日(土)開場18:15 開演18:45
横浜みなとみらいホール 小ホール
チケット3,000円
チケットのお求め・お問い合わせ
アムネスティ神奈川連絡会 電話090-6471-7542

チャリティー・コンサート ②

2011-01-25 07:23:05 | 牧師室だより

牧師室だより 2011年1月23日 チャリティー・コンサート ②

「おじさん、僕、あれから家に帰ってもう一度じっくり詩編の130編を読み返してたらね、なんかわからないけど涙が出てきちゃって……」
「そう、それはすごい経験だね。御言葉には力があるって、よく牧師先生が言ってるけど本当だね」
「うん、僕、あれから毎日聖書、読んでるよ。難しいけどなんだか楽しくて」
「S君、御言葉に『あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ』(口語訳伝道の書12:1)とあるんだが、君も早くバプテスマが受けられるといいね。祈っているよ」
「ところで、おじさん、前、コチさんがアムネスティとか何とかで日本に来ると言ってたけど、何のこと」「アムネスティか。実は私もよく知らないんだけど、確か国際的な人権擁護団体だと思うよ。今度、牧師先生にアムネスティのこと、詳しく教えてって頼んでおこう。『牧師室より』にでも書いてもらおうか」
「うん、お願いしてみて」
「先週、コンサートを勧めてくれたEさんに執事さんと一緒にお会いして、打ち合わせをしてきたよ。Eさん、コチさんは演奏家としてだけではなく、人間的にも素晴らしい方だとしきりにほめてたよ」
「ふ~ん、そうなんだ。早く演奏、聞きたいな。CD、ないの?」
「あるよ、Eさんから2枚だけ買ってきたよ。聞きたい?」
「聞きた~い!」
「今度貸してあげるね。4月23日(土)に横浜みなとみらい小ホールで演奏会があるので、チケット三千円だけどEさんに予約してきたよ。チラシも少しもらってきたよ。はい、これ」
「教会ではチケットいくらなの?」
「うん、これから執事会や信徒会で検討するけど、入場無料にして自由献金にしようかなって考えてるんだけど、どうかな?」
「僕たちみたいな中高生には助かるけど、そんな素晴らしい演奏家のコンサートがタダじゃ、なんか悪いね」
「うん、そうだけど一人でも多くの人に聴いてもらいたいしね。献金は全部アムネスティに寄付しようと考えてるよ」
「じゃあ、張り切って宣伝しようよ。会堂をいっぱいにしたいね」
「うん、そうだね。協力してね」
「友だちに声かけるよ」。

二つの座標軸

2011-01-21 16:40:19 | 説教要旨

 (先週の説教要旨) 2011年1月16日 主日礼拝宣教  杉野省治牧師

 「二つの座標軸」  マタイによる福音書 22章34-40節

 聖書に登場する人々の多くは、「彼らは自分自身の存在の根拠を問い、それを見出した人々なのだ」という思いがする。ところが、「現代人の抱えている最大の問題は、自分の生きる根拠を見出せないことではないのか」ということがよく言われる。自己を見失って不安に陥った現在、もし人が「存在の根拠」を見出すなら、もう一度自分を再発見し、生きていく力が出るのではないだろうか。

 聖書に登場する人々は、その「存在の根拠」を教えてくれる。彼らは、「人間は神の前に立って初めて存在することができるのだ」と強烈に主張している。彼らは、あらゆることを通じ、まず何よりも、すべての根源者である神との関わりの中に、人間の存在の根拠のあることを教えている。

 しかし、聖書の人物たちの主張は、それだけではない。ここに人間対人間の関係が出てくる。彼らは、その神との愛の関わりの証を、現実生活の人間同士の愛の中に示そうとしている。ここに、第二の存在の根拠の主張がある。人は、神との関わりのみならず、人間同士の愛し愛される関係の中にも、存在の根拠があるのだ、と主張する。今日の聖書の箇所で、イエスもまた、神との関係、人との関係、この二つこそ、最重要なものであると断言している。

 神との関係が、いわば縦の関係とするならば、人間との関係は、横の関係にあると言えるだろう。人間は、神との縦の関係、人間との横の交わりという、二つの座標軸に位置づけられ、縦横に織りなされているのである。そのどちらかとの関係を失った時、人は大宇宙の中に存在位置を失って、不安と焦燥にかられていく。現代人の抱えている問題は、突き詰めれば、まさしくこの問題なのではないだろうか。

 「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして」神を愛すること。「あなた自身を愛する」ように隣人を愛すること。果たして、私たちはそんな愛し方ができるのだろうか。私たちが「愛する」ということにおいて、この二つの教えの前に立つとき、それは十字架の前に立つ時ことでもあるのだが、私たちの本性、エゴ、自己中心の姿があらわにされる。「神を存在いっぱいで愛し、隣人を自分として愛する」の前に、実は、十字架の前に立つことすらできないのが私たちだと示されるのである。

 しかし、そこに「私は成就するために来た」との主イエスの言葉が響き渡るのである。「十字架の光」が、差し込むのである。イエスは全存在をかけて十字架の上で、「神を愛すること。隣人を愛すること」を私たちにもたらして下さった。この事実を抜きにして、私たちには「愛すること」は行い得ないのである。私たちにできることは、その十字架の愛にいかに応えていくか、だけなのである。
 
 私たちはどれだけ出来るとか、どこまでできるとか言う以前に、自分にある力をどう用いていたのだろうかと問いたい。そして、イエスがその全存在をかけて私たちに愛を示されたことに、まず自分なりに精一杯の応答をしたい。そう、まず私なりに力いっぱい主を愛そう。そこから愛の業は始まる。

湘南平からの富士

2011-01-18 11:16:15 | 風景
平塚の西の、大磯町と接するところに湘南平という360度の展望がみられる高台があります。
西に伊豆半島、箱根、富士、北に大山、丹沢山系、東に江の島、三浦半島、南に相模湾、大島も見えます。
ここから眺める富士もいいですね。

チャリティー・コンサート

2011-01-18 09:33:55 | 牧師室だより

牧師室だより 2011年1月16日 チャリティー・コンサート

「S君、5月1日って何の日か知ってる」
「う~ん、連休。違うか。そういえば社会科で習ったよ、労働者の祭典メーデー」
「そうだね、よく知ってたね。では、我が平塚教会では何の日?」
「え~?その日何か特別なことあるの?」
「チャリティー・コンサートがあるんだよ。牧師先生から聞いてない?」
「聞いたかもしれないけど忘れた」
「じゃあ、今度は忘れないでね。ヴラダン・コチっていう人が来るんだよ」
「だれ、それ?」
「コチさんは世界的に有名なチェロの演奏家でね、今度アムネスティ50周年ということで来日して、記念コンサートを全国でやるらしいよ」
「へ~え、で、なんでそんなすごい人がうちでコンサートするの?」
「話せば長くなるんで、詳しくは先生に聞いて。ともかくある縁があって、平塚教会でもやらないかって勧められたらしいよ」
「ふ~ん、それも神さまのお導きだね」
「S君、えらいこと言うね。僕もそう思うよ。だから毎日うまくいきますようにって祈ってんだよ。S君もお祈りしてね」
「うん、わかった。でも、コチさんのこと、よく知らないから教えて」
「受け売りだけど紹介するね。コチさんはチェコの国の人で1963年生まれだから今年48歳かな。プラハ音楽アカデミー卒業後、『プラハ室内オペラ』の首席チェリストに就任して活躍中だったんだが、1988年から1989年にかけて二度、徴兵に反対したために投獄されたそうだ。そこでアムネスティ・インターナショナルが『良心の囚人』リストに載せ、援助活動を行って、“ベルベット革命”(チェコ民主化革命)の最中に釈放されたそうだ」
「クリスチャンなの?」
「そうだと思うよ。獄中で詩編130編から霊的な力を与えられて作曲したという『深き淵より』というのがあって、多くの人々に感動を与えているそうだよ。今度来られた時にコチさんに聞いてみたら。楽しみだね」
「詩編130編って、どんな詩だっけ?」
「はい、聖書。読んでみて」
「『深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。……』すごく難しいけど、絶望の中でも主を信じてるっていう意味かな」
「牧師先生に聞いてみるといいよ。それにしても神さまってすごいね」。(次週続く)

異邦人伝道から世界伝道へ

2011-01-12 18:28:16 | 説教要旨

 (先週の説教要旨) 2011年1月9日 主日礼拝宣教  杉野省治牧師

 「異邦人伝道から世界伝道へ」 使徒言行録11章19-30節 
 
 キリスト教発展の歴史のうえで、ひとつの区切りをつけるような時を迎えた。それは、紀元第一世紀の前半に、大都市と言われたアンティオキアに、キリスト教が根をおろし、新しい教会が誕生したことである。その教会は、エルサレム教会とは、構成する人々はもちろん、周囲の事情も全く違っていた。それはどのようにして生み出されたのか、そしてどのような教会であったのか。

① 主のみ手による伝道の業であること。「主がこの人々を助けられでの」(11:21)「神の恵みが与えられた」(11:23)。
② 主は迫害などの困難をも用いてくださること。(11:19)
③ それらを担ったのは散らされた無名の信徒たちであったこと。(11:19-21)
④ 彼らは自分のアイデンティティーをはっきりと持っていたこと。「このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになった」(11:26)
⑤ ギリシャ語を話す人たちも教会に加わる門が開かれ、さらに、エルサレム教会がユダヤ教と密接な関係を保ちつつ教会生活をすすめてきたのに対して、全く異教社会のただ中で教会生活をするという、新しい規模のものであったこと。
⑤ そして、バルナバやパウロなどのよき指導者を主は教会に与え、用いられた   こと。(11:22-26)
⑥ しかし、パウロやバルナバの活躍は彼ら個人の働きではなく、それは教会の業、働きとしてあったということ。彼らは教会という根拠地、基地、基盤、背後の祈りと支えがあってこそのものであること。(11:30)
⑦ アンティオキア教会が与える教会であったこと。協力を惜しまない、協力を喜ぶ教会。出て行く教会。派遣していく教会であったということです。(11:27-30)

 キリスト教が世界的宗教へと発展したのは、アンティオキア教会の設立を抜きにしては考えられない。「使徒言行録」の記録も、ここより、エルサレム中心からアンティオキア中心の記録へと新しく発展する。