平塚にあるキリスト教会 平塚バプテスト教会 

神奈川県平塚市にあるプロテスタントのキリスト教会です。牧師によるキリスト教や湘南地域情報、世相のつれづれ日記です。

はぐれ鳩?

2010-08-30 11:20:19 | 風景
教会の庭にはいろんな鳥が遊びに来る。
鳩も多い時には5~6羽でやってくる。
普段は2~3羽。今日のように1羽で来ることは
珍しい。それも座り込んでじっとしている。
カメラを向けた。はぐれ鳩? 

日本語練習

2010-08-30 11:06:30 | 牧師室だより

牧師室だより 2010年8月29日 日本語練習

 ある日、本屋さんに行った時のこと。ふと一冊の新書が目に留まった。『日本語練習帳』(大野晋著、岩波書店、1999)。大野先生がこんな本を出していたのかと興味をひかれ手にとってみた。同時に元国語教師の自分がどの程度の日本語力なのかちょっと試したくなり、買って帰った。さっそく最初の問題から取りかかった。

 最初は、「思う」と「考える」を区別して使う例文を三つずつ書くことと、二つの違いを述べよという問題。例文はすぐ書けたが、違いをと言われて戸惑った。最初から手ごわい問題だ。結局うまく違いを言い表わせなかった。元国語教師の面目丸つぶれ。しかしめげずに、さらに練習問題を解いていくと答え方のコツが分かってきた。

 練習問題⑧に「自立する」と「独立する」と「孤立する」の表現の違いを説明せよとあった。答えは、「自立」とは、自分から進んで、自分の活力でやる。「独立する」とは、他に服従しないで自由になること。「孤立する」とは、相手を求めても得られないで、まわりから切り離されて一人だけポツンといること。

 よく「孤独を恐れず、孤立を避けよ」という。孤独は自らの生き方や志を掲げて一人も理解者や協力者がいなくても妥協せず貫くあり方。孤立は相手を求めているのに理解されなかったり、誤解されたりして相手にされず、一人ぽっちになること。自分の意志が明確であるかないか、の違いでもある。

 日本バプテスト連盟は「全日本にキリストの光を」の標語を掲げ、その使命のために加盟諸教会が「自立と協力」の理念のもとに福音宣教の業に励む教派である。私たちの教会は「自立」しているだろうか。経済的自立は、組織的自立は、そして何よりも信仰的自立はどうだろうか。何かに依存していないか。自ら進んでという主体性は発揮されているだろうか。日本語を吟味すると同時に教会形成の吟味もしてみよう。

NPO法人ほっとポット代表 藤田孝典さん講演会

2010-08-27 12:17:46 | サポーティングハウスひだまり
NPO法人ほっとポット代表 藤田孝典さん講演会のご案内
少し先のご案内になりますが、
10月11日(月・祝)13時30分-15時30分に
平塚診療所(代官町20-20)で
NPO法人ほっとポット代表の藤田孝典氏の講演会を
予定しています。
参加費は無料。興味・関心のある方はどうぞ。

新しいイスラエルとしての教会

2010-08-26 10:02:11 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2010年8月22日    杉野省治牧師

「新しいイスラエルとしての教会」 使徒言行録1章12-26節
 
 使徒言行録の冒頭は、復活した主イエスが40日にわたって、度々弟子たちの前に現れて、数々の確かな証拠によって、復活の事実を示し、神の国について語られ、弟子たちに対してエルサレムにとどまり、「待つ」ことを求められたこと(4節)が書かれている。

 弟子たちは、ただじっと待っているという受身的、消極的態度ではなかった。彼らのしたことはまず、集まって「心を合わせて熱心に祈っていた」(14節)ことをルカは伝えている。聖霊降臨の前の弟子たちを中心にした群れを、何にも勝って結集させていたのは、このように一致した、忍耐強い祈りの力であった。祈りが教会の発展の推進力であり原動力であることをルカは使徒言行録全体を貫いて証言している。

 祈りから始まった。その祈りの中で導かれてきたことが一つあった。それはユダのかわりに一人の人を立てなければならないということ。聖書では、十二は大切な数字である。「古いイスラエルの十二部族」に取って代わる上で、「新しいイスラエルとしての教会」もまた十二でなければならなかった。十二人の弟子の中から一人欠けたまま祈っていたが、それでは心を合わせてひたすら祈ることにはならない。一人が欠けていれば、全部が欠けることになるということである。そこで一人を選んだ。

 この選びは、主イエスから与えられた任務、主の復活の証人となるということであった。そのために二人を立て、くじで選んだ。なぜくじかと考えるに、選びに極力、人間の思いや考えが入り込まないようにと考えたのだと思う。すなわちくじの選びは主の選びであることを示していた。

 教会の使命とは人間が力を合わせて何かをするというようなものではなく、神が私たちを通してこの時代に力強く働きだされることである。どんな時代でも、教会を建てられたのは神であり主イエスである。主イエスがペテロをはじめとする弟子たちに、「わたしはこの岩の上に私の教会を建てよう」(マタイ16:18)と言われたように、教会を建てるのは主イエスであり、私たちはそれに参与するのである。それを私たちがするように思っているなら、悔い改めなければならない。
 
 教会を立て上げていく一つ一つの事柄、今日の聖書個所から言うならば使徒の選びだが、私たちの教会でいうならば牧師や執事の選びであろう。牧師が立てられ、執事が立てられていく、その一つ一つが神の選びであり、神の働きをそこに見るものである。バプテストである私たちはくじでは牧師や執事を選ばないが、信徒一人ひとりの投票を通して、神の力が働きたもうと信じて行なっているわけである。だからこそ、その決定は尊重されなければならないし、そのように尊重していくことが、教会の一致につながり、教会を立て上げていくことになるのである。
 
 キリストの体なる教会であるならば、そこでは人間は退いて、キリストのわざが尊ばれなくてはならない。神の恩寵は、私たちの思いを遥かに越えて教会の組織を整えられる。ふさわしい信仰者が補充されていく。必ず次の時代を担う世代が与えられる。その確信に立って祈り、励むことを神は私たちに期待しておられる。

夏休みとラジオ体操

2010-08-23 09:50:29 | 牧師室だより

牧師室だより 2010年8月22日 夏休みとラジオ体操

 皆さんにも子どもの頃の夏休みの思い出があることでしょう。プールに川遊び、海水浴。夜釣りにセミ捕り。映画に旅行。夏休み帳に自由研究、読書感想文。盆踊りや子ども会対抗野球大会。かき氷に縁台将棋。そうだ海の日に花火大会。一つ一つの思い出が走馬灯のように目に浮かんでくる。

 ラジオ体操もなつかしい思い出。小学生時代、ほぼ皆勤だった。理由がある。夏休みに入る前に必ず学校でラジオ体操出席表が配られた。出席したらハンコをもらう仕組みだ。私たちの地区の子ども会では、そのハンコが町内会長の私の家にあったので、必ずそれを持っていかなければならなかった。はじめは姉が、次は兄が、二人が卒業すると今度は私が持って行くことになった。だから、というわけである。たまに寝坊した時は近所の友だちが「先に行ってるよ」と言って持っていってくれる。

 当時は子どもが多かった。ラジオ体操の会場となる近くの公園では、近隣の子どもたちでいっぱいとなった。数百人はいただろう。大人も大勢いた。町内の子ども会ごとに集まって体操をし、終わるやいなやハンコめがけて並ぶ。それを押すのが私の役目。

 それが終わってから相談である。相談?今日、何して遊ぶかの相談である。天気や行事やそれぞれの都合などを考えながら、「今日はプールに行こう、何時集合」「今日の野球の練習は夕方4時から」「誰誰のお兄ちゃんが夜釣りに行ってるから、連れて行ってもらおう」などなど。遊びに事欠かない。

 毎年夏休みには家族で博多の親戚に泊まりがけで遊びに行った。ところがその地区ではラジオ体操をやってないという。さあ、困った、ハンコがもらえない。そしたらおばさんが急きょラジオも用意して近所の子どもに頼んで一緒にやることになった。集まった数人と私たち兄弟3人の小さなラジオ体操会である。私たち兄弟は夏休みにラジオ体操をやってない地区があるなんて、と驚きながら体操したことであった。50数年前の話。今はどこもやってないと聞く。

孤独を感じず過ごせました 

2010-08-20 11:43:21 | サポーティングハウスひだまり

平塚でホームレス支援の活動をしている「平塚パトロール」や
「サポーティングハウスひだまり」との連携で、少しづつではあるが、
自立していく方々が起こされている。以下はその一人のNさんの手記。

  孤独を感じず過ごせました   Nさん 

 会社の倒産により、昨年5月から1月まで野宿生活をしていました。
 平塚球場で寝ていると数人の人が「 大丈夫ですか。」と声をかけてきました。最初は「面倒だなぁ。」と思いながらも、話をしてみると野宿者の支援団体だと説明してくれました。それが平塚パトロールとの出会いです。
 その後も、月1回のペースでパトロールに来て、一言二言話すだけだったけど、それがやがて唯一の社会とのつながりにも感じはじめました。
 食事会も開かれるようになり、そこで他の野宿者との交流もでき、孤独になりがちな野宿生活だけど、自分は孤独を感じることなく過ごせました。
 生活保護を受けて、アパートに住めるようになった今でも、野宿者の交流の場である「ひだまり」の食事会にも参加していきたいと思います。